7 武家政権の形成
<鎌倉幕府の成立>
[鎌倉幕府成立の過程]
Q1 鎌倉幕府の成立は中学校では何年と習ってきたか?

A1 1192年が幕府成立の時期とされてきた。「イイクニ作ろう鎌倉幕府」。

・A説=1192年(頼朝、征夷大将軍)。B説=1190年(頼朝、右大将。「幕府」 は中国で将軍の幕営のこと。日本では「近衛府」のことを指す。この長官は「近衛大将」)。C説=1184年(公文所、問注所設置。これで政権の概要が整 う)。D説=1180年(鎌倉に本拠)。E説=1185年(いわゆる守護・地頭の設置)。F説=1183年(十月宣旨の獲得=東国支配権)。
・Aは根拠がない。3年で辞退しているし、頼朝後継者も常に征夷大将軍の地位にはなかった。田村麻呂は征夷大将軍だが、幕府を開いたとは言わない。
・Bも根拠がない。1カ月で辞任。後継者も就任していない。それで幕府がなくなったのかというとそんなことはない。
・C説では、1184年以前に政治・裁判がおこなわれていないことになる。実際には頼朝がおこなっていた。
・Dは鎌倉政権が動き始めた時期なので説得力はある。支配範囲が狭いし公認されていないという指摘。
・Eは全国に支配権がおよんだということで支持者が多い。しかし、実際には東国は1183年で支配権を獲得している。Eは厳密には西日本が対象。Fの方が よいという意見もでる。
・徐々に支配権を拡大したのであり、いつからというのは意味がない。

A 中 央機関の設置
 1 侍所(1180)
    従者となった御家人の統制、軍事、警察
    別当=和田義盛(東国武士団首長)

頼朝 配下の御家人武士を統制し、戦時と平時の勤務状況を監督する機関
・1180年、鎌倉に本拠を定めたときに設置し、311人が出席した。合戦中に侍所長官を買ってでた和田義盛が出欠をとり、別当となった。所司は次官で梶原景時が就任。

 2 公文所(1184 後に政所)
    政治・財政を助ける
    別当=大江広元(京から下った知識人貴族)

必要 な文書作成。財政事務=関東御領を管理して年貢を徴収する
別当の大江広元は東下りの公家。大江家は法律・学問の家 柄。一ノ谷の戦いの後、頼朝の書記になり、知恵袋と言われた。大人になってから一度も涙を流したことのない冷徹な人間。

Q2 武家政権なのにどうして貴族を用いたのか?

A2 武士は字が読めなかったのである。

・泰時が承久の乱で京都を攻めたとき、降参した公家側から講和文書が来た。正式文書は 漢文である。これが読めない。5000人の武士のうち、読めたのは藤田三郎一人だけだった。大半は仮名もわからないのが東国武士の状況だった。
・1185年または1191年に政所と改称されている。

 3 問 注所(1184)
    御家人の訴訟・裁判
    執事=三善康信(     〃     )

裁判 事務。判決は頼朝が下していたが、後には訴訟を引き受けた。
執事は三善康信。太政官書記官役の下級貴族。頼朝の乳母の 妹の子。
・頼朝が貴族を用いても武士から非難されることはなかった。貴族の都ぶりを好ましいものとは思わず、間違いを糺す姿勢があった。側近の東下りの貴族が贅沢 な衣服を着ていたのに対し、刀で小袖を切り落とす。「千葉常胤は善悪の判断もできない武士だが、衣服は粗悪なものを用い、贅沢を好まない。だから家は裕福 でたくさんの家人、郎等を養える。お前は財産の使い方も知らない」。

B 全国支配権の獲得

・1180年の挙兵後、御家人となった武士に対して本領安堵した。頼朝は流人の身であ り、勝手に本領安堵していた。

   1183年 東国支配権の公認(十月宣旨、義仲追討時)

・重要であり、再確認。
・内乱となって東国の荘園・国衙領からの年貢は中央に届けられず、貴族たちは生活に困っていた。

Q3 年貢を納めなかったのは誰なのか?

A3 現地支配者であり、多くは武士だった。もとの下司の連中であり、頼朝の家人になっていた者である。だから、頼朝が命令をすれば年貢は差し出すのであ る。

・法皇が頼朝の上京を促してきたのに対し、奥州藤原氏の脅威を理由に拒否し、一方で 「東海・東山道の年貢は中央に出すように」という勅令を出したらどうかと提案した。貴族たちは大歓迎した。
・1183年10月、「東国の年貢を差し出せ。命に従わない者は頼朝に連絡して実行させる」という宣旨が出る。これは年貢を出さない者は頼朝が強制できることを意味するので、東国の武士の親分は頼朝であり、支配権を持つことを京都の政権が正式に認めたものと 言える。
・今まで、武家の棟梁と家人の関係はあくまでも私的なものだった。これがシ ステムとして公認されたことになる。東国支配権の獲得。

   1185年 日本国総追捕使、日本国総地頭(義経追討時)

・義経追討の時、大江広元が発案。頼朝は総追捕使、総地頭になる。これは、隠れている義経を捜すため、御家人を守護・地頭に任命することができる権利を与えたも の。兵粮米を反あたり5升徴収できるようにする。北条時政が 強要して認めさせたという。

 1 守 護
    国内の御家人を指揮、軍事・警察
    1国1人、東国有力御家人の任命

・1190年、内乱終結で兵粮米徴収が停止された。この時から国内治安維持を職務とす るようになる。御家人を率いて大番役などを実施。

    大 犯三カ条(大番催促、謀反人・殺害人の検断)
 ※国司の持つ軍事・警察権を吸収

・大犯三カ条を役務とするが、この範囲を超えて活動し、国衙の権限を奪っていった。

 2 地 頭
    治安維持、土地管理、年貢徴収・納入にあたる
    国衙領、荘園ごとに設置、御家人となった荘官を任命

・公領の郡・郷・保、荘園ごとに設置され、年貢徴収と治安維持、土地管理をおこなう。

 ※荘園領主、国司の荘官任免権を吸 収=御家人所領支配権の保障

・今までの下司はたいていは武士であり御家人。荘園領主によって任命されていた。これ がこの時に地頭に変わる。幕府が任免することを朝廷が認めたため、以後は荘 園領主は地頭をクビにできなくなった。これにより、幕府は在 地領主の土地支配権を保障することになった。頼朝が総地頭として、武士である在地領主の任免権を得たことが重要。
・在地領主の武士にとっての最大の願いは、自分の土地が守りたいことだったことに留意。
・家人は土地を守って欲しくて主従関係を結ぶのだから、頼朝と家人の間には 土地を仲立ちとした主従関係が存在することになる。

 but荘園領主の猛反発
    →初期には平家没官領・東国のみに設置(関東御領= 頼朝直轄荘園)

・初期においては、全国一律に設置されていない。守護は総追捕使と称され、国単位でな く、その下にも置かれている。地頭も国に置かれている場合もある。
東国はすでにいた在地領主が地頭になるこの他は全国500カ所の平家没官領に設置され、もとの地頭・下司が解任され、幕府の 御家人が差し向けられた。これらが関東御領と呼ばれる頼朝の 直轄荘園である。
・一方、西日本の武士は頼朝と主従関係を結んでいないため、ここでは、地頭が置くことができなかった。
幕府は東国中心。遠江、信濃以東の15カ国は、1カ月単位 で鎌倉番役の義務。新たな守護・地頭にはこの地域の武士が任じられた。奥州遠征の東国武士は28万4千人。
・これに対し、近畿は頼朝の御家人が少ない。一国平均27人しかいない。

     承久の乱後、地頭任免権を持つ所領(関東進止所領) 拡大


・承久の乱では京都の公家勢力と幕府とが争った。幕府方の圧勝であり、これで京都方に ついた武士の現地支配権が幕府側に移った。ここには幕府が地頭を派遣でき、 関東進止所領という。

C 支 配組織の完成
    cf)朝廷内に腹心入れる=九条兼実(議奏)

・時政に命じ、頼朝は朝廷の人事異動を要求。反頼朝の法皇側近を免職。摂政藤原基通 (近衛家)に代わり、藤原兼実を内覧とする。内覧は公文書を出す際、天皇に伝える前に目を通すもの。摂政が務めていたが、基通の摂政職はそのままにして、 仕事だけを奪った。後に関白となって実権を持つ。
・1185年、藤原兼実など反法皇派・親幕府派の公卿を議奏とし、この合議 で政治をすることとした
・藤原氏はこの頃に分裂。藤原忠通の子・基実が近衛家を立て、その弟・兼実が九条家を立てた。兼実の曾孫2人が一条、二条を立て、近衛家から鷹司が分かれ る。五摂家

   1185年 京都守護、鎮西奉行

京都 守護を京都の治安維持、裁判、朝廷との連絡のために設置。初代は時政。
・九州では鎮西奉行(鎮西守護)が大宰府の実権を奪う。在庁 官人を使って荘園、国衙領の面積、持ち主、地頭以下の武士を図田帳に記して出させる。御家人名簿提出。実際には地頭の置かれた地域は近畿よりも少ない。

   1189年 奥州総奉行

・葛西氏を陸奥御家人奉行にして御家人統率と治安維持をさせ、伊沢氏を陸奥留守職にし て訴訟取り次ぎをさせた。合わさって奥州総奉行になる。陸奥と出羽には守護 が置かれず、その代わりをした。

 ※幕 府の確立=頼朝右大将(1190)→征夷大将軍(1192)

・1189年、奥州藤原氏を攻撃する際、征夷大将軍就任を望んで拒否された。
・1190年10月、頼朝は1000騎を率いて上京。後白河法皇と会談。征夷大将軍を望む。

Q4 どうして征夷大将軍を望んだのか?

A4 征夷大将軍は蝦夷討伐のために東国武士を自由に指揮する権利を与えられたもの。東国の支配者としての地位を象徴するものでもある。令外官であり、独 断専行が可能。東国武士にも人気があった。


・法皇は拒否し、常置の武官で最高の右近衛大将に任命。12月1日に拝賀した。しかし、頼朝は4日には辞職してしまう。自ら王朝の侍大将ではないことを示 す。
・しかし、律令の官職としては征夷大将軍よりも上である。頼朝は「前右大将」の称号は利用する。頼朝自身の署名と花押を記すことをやめ、「前右大将家政所 下文」の形式にする。公文所をこの時に政所に改称。
・1192年3月、後白河法皇は66歳で死ぬ。九条兼実は関白となり、弟の慈円は天台座主になる。7月、頼朝は征夷大将軍になる。

  東国武士の棟梁として君臨

・頼朝は周到な計算と駆け引きによって東国軍事政権を確立した日本史上有数の政治家。 頼朝は東国武士に細心の注意を払っていた。範頼に対し、「誰かに耳打ちなどして、武士から疎まれることがあってはならぬ」という。
・全ての御家人の容貌を把握。心をつかんでいた。1185年、勝手に朝廷から官職を与えられた者を処罰したときは、一人一人に「目はネズミのよう」「色白 で不覚をとったような顔」「臆病な声のやつ」とコメントしている。
・1191年、文書形式を政所下文に統一した。これに対し、千葉常胤は頼朝の花押がないことを嘆いた。東国御家人と頼朝の結びつきの強さを表している。

[鎌倉幕府の特色]
A 封建制度
 幕府−御家人=土地給与を通じ、御恩・奉公の関係

・封建制は土地を仲立ちとした主従関係。土地の保護を受けたい武士が頼朝のところに集 まってきた。御家人は源氏の祖先以来のものを累代御家人、頼朝の時になったものを新加御家人と呼んで区別した。
土地を保護してやる御恩の代わりに、御家人役として大番役、鎌倉番役、軍 役などの奉公を務める。

  御 恩=本領安堵、新恩給与
  奉公=京都大番役、鎌倉番役、軍役

大番 役は内裏諸門の警固役。衛士制が衰退したため、諸国武士を3年単位で動員することにしていた。頼朝はこれを御家人に課し、6カ月勤務とし た。10年に一回。
鎌倉番役は鎌倉の警備。遠江以東15カ国の御家人に1カ年 の勤務を課した。

   →御恩の代わりに奉公の義務

Q5 頼朝と御家人の主従関係が切れるとすれば、どういう時か?

A5 御恩と奉公はギブアンドテイクの関係であり、ドライな契約関係。ギブがなくなればテイクもなくなる。土地を安堵できなくったときに将軍は裏切られる ことになる。

B 公 武二元支配
   国 :朝廷=国司(一般政務)
      幕府=守護(軍事・警察 but後に国司の権限吸収)
   荘園:公家=荘園領主(中央での支配)
      幕府=地頭(現地支配 but後に荘園領主を無視)

C 国衙領・荘園体制の温存
   経済基盤=関東御領(頼朝直轄荘園)、

関東 御領は頼朝が本家・領家を務めていた荘園。源氏の本領、平家没官領500カ所、承久の乱後の没収地などからなる。政所が管理して年貢を徴収 した。

        関東知行国(頼朝知行国 9カ国)

関東 知行国は頼朝の持っていた駿河、伊豆、相模、武蔵、上総、下総、信濃、越後、豊後の9カ国。実朝時代に4カ国に減り、幕末までに4〜6カ国 で推移している。最後まで知行国だったのは駿河、相模、武蔵だけ。国司を派遣して国衙領から年貢を納めさせていた。

※鎌倉幕府の古代的側面


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