<平氏政権の成立と崩壊>
[平氏の政権獲得]
 1 平清盛の権勢

平清 盛は 36歳で父の遺領を継いで平氏の棟梁になる。「十訓抄」には、「清盛は家来の扱いがうまく、召使いとも呼べないような下っ端の者でも、人の見ている前では 一人前に扱ってやるため、大変な面目として心にしみてうれしく思い、一生懸命仕えた」という。専制性よりも意外な心配りの人。

    公卿(1160)→太政大臣(1167)への出世

・1160年、後白河上皇は清盛を公卿にして武力を取り込もうとした。昇殿はあっても 公卿(三位以上)は初。
・1162年、従二位。1166年、正二位内大臣。1167年、従一位太政 大臣で、8年の間に人臣最高の位に昇る。
・昇進したのは身分の高い者の落とし子だったからという説がある。怪しいのは白河法皇。寵愛の祇園女御を平忠盛に下さる。この時すでに妊娠していて、生ま れたのが清盛という。

     滋子の後白河入内→子・高倉天皇即位、徳子の入内

・妻・平時子の妹・滋子の存在も重要。後白河上皇妹に仕えているところを上皇の目にと まって懐妊して憲仁皇子を生む。
・1168年、清盛が大病して危篤になる。後白河は清盛を見舞うが、清盛は憲仁皇子を即位させてくれと頼み込む。清盛が死ねば、後白河院政に代わり、六条 天皇の親政を目指す一派が動いて大乱になる恐れもあるとして上皇が決断。高 倉天皇が実現した。平氏にとって最初の縁続きの天皇である。
・一転して清盛は平癒し、1171年、高倉天皇に娘・徳子を入内させる。 1178年、皇子誕生。すぐに皇太子に立てるが、成り上がり者に対して貴族たちの反感は募る。

     =一門の高位高官独占

・一門も出世。公卿16人、殿上人30人、受領・衛府など60人。「平氏にあらざるは人にあらず」

      but院の近臣の反発(鹿ヶ谷事件 1177)

・院は平氏の力が伸びすぎたため、抑えようとする。延暦寺の強訴に対して繰り返し平氏 の武力を使おうとし、1177年5月28日には清盛に延暦寺攻撃を命じる。
・29日、院の近臣・藤原成親、西光、俊寛が平氏打倒の謀議を めぐらした。祇園祭の時に平氏の六波羅邸に放火する計画。相談中に飲んでいた酒の瓶子が倒れる。「平氏が倒れた」「その首も取れ」と西光が徳利のクビを割 る。
・源行綱の密告。西光は捕らえられて拷問。清盛の取り調べに対して口をきわめて清盛を罵る。西光は斬罪。成親は備中配流。俊寛は喜界が島に流される。鹿ヶ谷事件という。 この事件には、後白河法皇も絡んでいたらしい。清盛は追及をしなかった。

 2 後 白河院政の停止(1179)
    清盛と院の対立→後白河法皇幽閉、外孫・安徳天皇即位

・事件後、後白河法皇は平氏抑圧に動いた。清盛の娘の盛子は摂政・藤原基実に嫁い でいたが、夫は24歳で死ぬ。この遺産を盛子が継ぐことになり、摂関家領や摂関家の家宝は盛子のものとなった。これが平氏の経済基盤でもあった。
・1179年、平盛子が死ぬと、法皇は摂関家領を没収した。この後、平重盛が死ぬと、知行国だった越前を没収している。これで清盛は法皇を引きずり下ろす ことを決断する。
・11月14日、清盛は数千騎で福原から上京。法皇を鳥羽殿に幽閉し、政権 を乗っ取る
・1180年2月、徳子が産んだ3歳の子を安徳天皇として即位させる。 形式上は父・高倉天皇の院政ということにしたが、実際には外祖父の清盛が権力を握る。

※外祖父として平氏が実権を握る

[平氏政権の特色]

Q1 平氏の政権獲得過程は何と同じなのか?

A1 藤原氏と同じである。最後は武力を用いているが、それまでは外戚関係の利用や高位高官独占など全く同じ。

A 院 の近臣としての貴族政権的性格
 1 外戚関係利用、高位高官独占(藤原摂関家と同じ)

・武士として政権を奪うことは無理だった。官職独占や外戚政策に走る。

 2 経済的基盤=荘園(500カ所、摂関領中心)、知行国(30カ国)

・摂関家に嫁いだ娘の盛子が継承した摂関家領の荘園である。
・知行国主となることで受領を全国に派遣。睨みを利かせた。「日本秋津島は わずかに66国、平家知行の国は30余国」。

B 武 士団の棟梁としての武家政権的性格
 1 主従関係の強化
    家人の地頭任命(荘園の現地管理権与える)

・源氏は関東、東北の軍事行動を通じ、多くの東国武士に棟梁と仰がれた。これに対し、 平氏は成り上がり者であり、家人と呼ばれる家来が少なかった。
・源氏に比べて弱かった家人との結びつき強化を図る必要がある。自分の所領 の他、国司や荘園領主の承諾を得て、公領や荘園に家人を地頭として任命した。仕事は現地管理と徴税吏。
・後の鎌倉幕府が設置した地頭とは異なり、荘園内での力は弱い。本主の命に背けばクビになった。鎌倉幕府の地頭は任免権を幕府が握っており、領主はクビに できなかった。
・律令制に基づく受領と御恩関係の地頭が支配基盤という過渡的性格。

 2 積 極外交
    日宋貿易による利益重視

・日宋間では民間レベルで貿易がおこなわれていた。
・保守的な貴族は宋人を毛嫌い。明州の長官から贈り物が来て、「日本国に賜う」とあるのを貴族がとがめ、モノを返して返事を出すなと言っていた。これに対 し、清盛は体面にこだわらず実利をとり、モノをもらって返事も出している。貴族ではできない行為。

      cf)大輪田泊(兵庫)修理、音戸の瀬戸開削

・清盛は福原の別荘に住み、兵庫港(大輪田泊)を修復。音戸ノ瀬戸を修築し た。宮島への最短経路。宋船は兵庫にしばしば来航している。貿易で巨利を博し、清盛邸では「楊州の金、荊州の珠、七珍万宝」に囲まれる生活だった。
・唯一の遺品、厳島神社の平家納経にしのばれる。巻き軸は 玉、料紙には金銀砂子を散らす。田舎育ちの平氏は、都で貴族文化を受け入れても、都には結果を残せない。厳島にあるところに武士の文化の地方性を示してい る。

   but古代的性格強く、全国の武士団の支持得られず

・伊勢平氏は源氏に対抗させるために用いられた成り上がり者。三代に渡って東国に根を張った源氏とは違って武士としての基盤が弱い。

Q2 平氏は瀬戸内の海賊退治で成り上がったのであり、郎等は西国武士である。東国武 士を基盤とする源氏に比べ、弱い点は何か?

A2 西国武士は所有土地面積が狭い。東国武士は大規模な開発によって広大な土地の在地領主となり、土地に対しての執着が強い。このため、その土地の所有 権を源氏の棟梁が保証することで、強い主従関係を築くことができる。平氏はこれができない。

[平氏の滅亡]
  治承・寿永の内乱(1180〜85)
 1 源氏の挙兵

・3月、高倉天皇が上皇となって最初の社参を、平氏の本拠・厳島神社におこなうとす る。従来は石清水八幡か春日社など、延暦寺や興福寺と関係する神社。これを強行したため、諸大寺が離反した。

  (1)源頼政の挙兵(以仁王の令旨)

・頼政は源頼光の5代の孫。平治の乱では源氏を裏切って後白河方に残っていた。清盛の 推薦で三位になる。74歳。二条天皇を悩ませるヌエを退治したことが「平家物語」にある。摂津源氏であるため、東国を基盤にした為義・義朝とは融合しな かった。
・4月9日、源頼政は後白河の第2皇子・以仁王と結んで挙兵する。諸国の源 氏と諸大寺の兵力をあてにして平氏追討の令旨を出す。

    平氏による鎮定 

・5月15日、以仁王は京都を脱出して園城寺に入る。21日、平氏は園城寺を攻撃して 捕らえようとする。頼政と以仁王は奈良に逃げ、途中、26日、宇治で追いつかれる。宇治橋の橋桁を外して抵抗するが討ち死に。10日で抵抗は終わる。

     but全国的挙兵促す cf)福原遷都

・以仁王の令旨は全国にばらまかれた。全国的に挙兵がされる可能性が高まる。
・6月3日、清盛は法皇、上皇、天皇を福原に移すとした。初 めは住むところもないが、京の屋敷を解体して筏で淀川を下して運ぶ。
・延暦寺大衆が反対。遷都をやめなければ山城・近江を攻め取るとした。平氏の中でも遷都反対論がでてくる。結局は還都している。延暦寺は源氏に味方すると した。

  (2)源頼朝の挙兵(北条時政の後見)

源頼 朝は義朝の長男。平治の乱に敗れて父が東国に落ちてゆく途中、関ヶ原付近ではぐれ、平氏につかまる。12歳。殺されるところを清盛の継母の 池禅尼が 「この子はこんなに小さいんだもの」といって命乞いをし、伊豆の蛭ヶ小島に 流されることになる。狩野川の中州の一つというが、実際にここに住んだわけでは ない。監視役が北条時政だった。
・流人ではありながら、源氏の武士が周りを固め、地方武士として過ごす。頼朝は貴種でありプレイボーイ。伊東の豪族・伊東祐親の娘と恋に落ち、千鶴という 子供もできる。祐親は平氏の目を気にして千鶴を川に沈め、頼朝を殺そうとする。頼朝は走湯権現に逃げて助かる。
・この後、北条時政の娘・政子が頼朝に接近。時政は大反対を して政子を監禁するが、豪雨の夜に脱出して結ばれる。結婚が認められ、頼朝31歳、政子21歳という。

・頼朝に対しては、何度も平氏打倒の誘いが来る。
・文覚は渡辺党の武士で、伊豆に配流されてきた。頼朝のところを訪れ、義朝の弔い合戦をするように説得。義朝の髑髏というものまで袋から出すが頼朝は乗ら ない。
・1180年、叔父の源行家が山伏姿となって頼朝のところに来る。諸国の武士に挙兵を促すために廻っていた。4月、以仁王の令旨を頼朝に手渡す。頼朝は動 かず、頼政は戦死。
・6月、平氏が諸国の源氏追討の命を出したという情報が京都から入り、挙兵 を決意する。

・頼朝の周囲は敵だらけ。駿河は平氏の長年の知行国。相模にも大庭景親など平氏方の武士が多い。伊豆の伊東祐親も平氏方。

Q3 頼朝が勝てるとすればどういう状況になったときか?

A3 源氏を棟梁と仰いできた東国武士を結集できたとき。そのためには関東にゆく必要がある。

・彼は流人であり、見張り役を打倒する必要がある。伊豆の目代は平氏によって派遣され ていた山木兼隆。北条時政は在庁官人として従っていたがトラブルが生じていた。最初に山木打倒を誘う。
・8月17日、三島神社大祭の日をねらって夜討ち。従者は祭りに行っている。奇襲は成功して山木を討つ。義朝が鎌倉にいたときの協力者・相模の三浦一族を 頼って300騎で脱出図る。

・この後、石橋山の戦いで頼朝は敗北を喫する。23日午後、 石橋山に到着。箱根の山が海に落ちるところ。大庭景親の軍3000が前をふさぎ、伊東祐親の300が後ろから迫る。袋のネズミ。三浦一族は酒匂川まで迎え に来ていたが、大雨で増水し、来られず。土砂降りの中の戦いで頼朝は敗退。
・頼朝は山中の大杉の根元に隠れる。大庭景親の一族・梶原景時が発見するが、頼朝を買っていたため見逃す。後に頼朝の一の家臣となる。頼朝は箱根権現の山 伏にかくまわれる。
・箱根から海路、安房に脱出。千葉常胤、上総広常が頼朝につく。 広常は2万騎の大軍。以仁王の令旨もあり、南関東の武士団は続々と頼朝につき、10月6日、鎌倉に入る。
・鎌倉は11世紀半ばに頼義が鶴岡八幡を建てた場所。前が海、三方が山で、切り通しを通らないと入れない要害の地。

 東国武士団結集に成功

Q4 頼朝は関東武士の結集に成功する。どうして関東武士は頼朝に手を貸すことにした のか?

A4 関東の武士は国府の在庁官人として郡司などを勤めていた。また、開発した土地を中央の権力者に寄進し、荘園の現地管理人として、荘司などを勤めてい た。これは不安定な立場である。

・強力な国司が下向してくれば、荘園を整理され、郡司も解任される恐れがある。した がって、土地の庇護者としての武家の棟梁が必要だった。鎌倉 に居を構えた源義朝は関東武士を結集したが、平治の乱で死んでいる。義朝に代わる存在として頼朝に期待したのである。

 →富士川の戦いに勝ち、東国制圧

・頼朝挙兵の知らせを受け、9月5日、平維盛・忠度を大将とする追討軍派遣を決定。こ れが富士川の戦いで、「平家物語」では7万騎と記す。
・10月17日、富士川西岸に陣取り、東岸には甲斐源氏4万騎が集結する。ここで平氏軍は、飛び立つ水鳥の羽音に驚き、戦わずして逃げ帰ったという。平維 盛が臆病だったというオチだが、実際は初めから勝ち目はなかった。
・この年、西日本は日照りのため、食糧が十分でなかった。養和の大飢饉といい、京都市内の餓死者の額に、坊さんが「阿」の字を記していったところ、2カ月 で42000に達したという。これに対し、東国は不作ではなかったという。
・当然、平氏軍の士気は低く、「平家物語」では7万騎と記すが、実際は4000騎だった。出発の日取りで暦の善し悪しを見て内輪もめをし、9月末にようや く出発する始末。
・この間、各地で武士が挙兵木曽義仲は信濃一国を支配し、甲斐では源氏の一派の武田氏が挙兵し、士 気の高かった平氏方の駿河目代3000騎は甲斐源氏と闘って壊滅していた。
・富士川の戦いの前、平維盛は斎藤実盛に東国武士がどんなものかを聞く。「東国武士の弓は三人張、五人張。一矢で2〜3人を射落とす。西国武士は親が討た れれば供養の法事を済ませて忌明けの後に戦うが、合戦には親も討たれよ、子も討たれよ、死ねば死体を乗り越えて戦う」。
勝ち目はない。撤退を決める。富士沼の数万羽の水鳥が一斉 に飛び立ったため、羽音を敵の夜討ちと思って敗走。バラバラになって京都には維盛以下10騎が逃げ戻る。

 (1180 本拠鎌倉)

・頼朝は西上して平氏を討とうと主張したが、東国武士は反対。東国を固めることとし た。
・頼朝に従う者=御家人。主人に従う者は郎等、家人といっていたが、鎌倉殿に敬意を表して「御家人」と呼んだ。
・以仁王の令旨により、頼朝は東国の国衙領、荘園の最高支配者であることを承認されたと主張し、論功行賞をおこなった。中央と相談なく家人を介や荘司など に任命し、彼らの持っていた所領を中央貴族に代わって安堵してやった。これで東国武士の願いが実現することになる。東国は頼朝を頂点とする独立国となった と言える。
・中央では1181年、年号を「治承」から「養和」と変えるが、頼朝は安徳天皇を認めず、「治承」を使い続けている。

・清盛は平安京に還都したが、1180年暮れ、もっとも近くの敵対勢力である南都の寺院を焼き討ちする。平重衡によって大仏殿炎上。
・翌年、高倉上皇が死に、清盛も熱病となり、10日間苦しんで死ぬ。南都焼き討ちの祟りとされる。清盛は遺言として、頼朝の首を持ってくることを言い残 す。
・1183年までは政情も安定。頼朝は尾張以東、関東までを押さえ、義仲は 信濃を拠点に北陸に勢力拡大。京都から西日本は平氏が押さえていた。平氏は義仲打倒のために大軍を北陸に向ける。

  (3)源義仲の入京

・5月11日、倶利伽羅峠の戦いで義仲圧勝。火牛を使って平氏軍を谷底に突き落とす。 この勢いで義仲は西上。平氏は6歳の安徳天皇と「三種の神器」を奉じて京都 を脱出して福原に移る。

    平氏の福原逃亡
     but都での略奪のため反感

・義仲が入京するが、京都は日照りで荒廃していた。略奪、暴行が相次ぐ。義仲は粗野な ため、貴族に嫌われる。猫間の中将のエピソードは、挨拶に来た中将にご飯を山盛りにして出して「さあ食べろ」といったものである。「猫は小食だな」といっ てあざける。
・解放された後白河法皇は義仲を平氏追討に駆り立てるが、船の戦のため苦戦。

    →頼朝が東国支配権認めさせ、義仲滅ぼす    

・内乱となって東国の年貢は中央に届けられず、貴族たちは生活に困る。法皇が頼朝の上 京を促してきたのに対し、奥州藤原氏の脅威を理由に拒否し、一方で「東海・東山道の年貢は中央に出すように」という勅令を出したらどうかと提案する。貴族 たちは大歓迎だった。
1183年10月、「東国の年貢を差し出せ。命に従わない者は頼朝に連絡 して実行させる」という宣旨が出る。

Q5 この宣旨を出させたことは、頼朝の作戦勝ちといわれる。「年貢を出さない者には 頼朝が強制できる」ことを意味するが、これはどういうことなのか?

A5 東国の武士は頼朝の言うことを聞かなければならないということを中央が宣言したのである。頼朝が東国の支配権を持つことを認めたことに他ならない。 東国支配権を獲得し、政権として認められたことを意味する。

・宣旨が出た後、木曽義仲打倒のために義経、範頼を差し向ける。 義仲は人気がなく孤立。東国軍に攻められ、北陸に逃げるところを近江粟津で敗死した。
・宇治川の先陣争い。頼朝から拝領したイケズキ、スルスミの名馬にまたがり、佐々木高綱と梶原景季が争う。梶原が先に行き、川の中に綱が張ってあるから気 をつけろと声をかけ、下を見たすきに佐々木が先陣を取る。

 2 平 氏の滅亡
    源義経の西下→一ノ谷、

・1184年1月、頼朝は平氏追討の勅令を受ける。平氏は瀬戸内、中四国、北九州を抑 え、福原まで進出している。
・2月6日、清盛の3年忌の法要を福原で平氏がおこなう。ここに後白河法皇の使者が来て、和平交渉のため休戦したいを申し出る。平氏がその気でいたところ を、東から範頼、西から一隊、北から鵯越で義経が突っ込む。一ノ谷の戦いと いう。
・崖の上から猟師に聞く。「馬が下りられるか」「鹿なら下りるが馬は無理」「鹿が下りられるなら大丈夫」といって落ちて行く。
・2〜3時間の戦闘で1000人の死者。忠度や敦盛などが討ち死にした。敦盛は16歳。(熊谷直実のエピソードは法然との出会いに絡めて鎌倉仏教のところ で触れる)
・屋島に逃げた平宗盛は「わざとだましたのか」と法皇に手紙を書く。

     屋島、

・法皇は策謀家。頼朝と義経を離反させるため、義経を検非違使に任命して優遇した。頼 朝は怒って平氏追討軍の指揮官の任を解き、範頼を指揮官とする。戦争 下手で慣れない船戦を続け、1185年1月には長門まで攻めるが、士気は衰え、侍所別当・和田義盛も関東に帰ることを訴える。
・頼朝は義経の起用に踏み切る。2月、大坂を出港して平氏の本拠地・屋島を攻略。背後から攻めて壊滅させる。屋島の戦いという。
・合戦の最中、平氏の軍船に扇が立てられ、手招きされる。「射て見よ」の意と理解し、弓の名手の那須与一が召し出され、射落としたというエピソードがあ る。

    壇 ノ浦の戦いで平氏滅ぼす(1185)

・義経は伊予水軍を味方につけて西下。3月24日、壇ノ浦の戦いで滅ぼす。午前中は潮の流れにのって平氏が優勢。義経は午 後になると潮が変わるからといって我慢させ、流れが変わると早潮にのって攻略した。
・安徳天皇を抱えて二位の尼は入水。「海の底にも都はあります」。母親の平徳子も入水するが熊手で髪を絡めて引き上げられて生き残る。帰京して出家。大原 寂光院で余生を送る。

   but義経と後白河が接近

・義経は義朝敗死の時は2歳。鞍馬山に稚児として入れられ、15歳で放浪し、奥州藤原 氏に身を寄せていた。富士川の戦いの時に頼朝に会う。僧兵、山伏などと通じた武士であり、東国武士の本流とは違う。戦術も奇策が多い。たくさんの従者を持 つ存在ではない。
・壇ノ浦の戦いでは三種の神器のうち、剱が海中に没する。貴族は天皇の証である神器を熱望していたため、これを入手できなかったことで頼朝は義経をとが め、再び仲違いをする。
法皇は頼朝と義経を争わせることで源氏の勢力削減をもくろむ。 義経を重く用い、院の昇殿を許して頼朝を刺激する。仕返しとして、頼朝は義経に恩賞として与えた所領を没収する。

  →頼朝追討を命ず(後白河の源氏抑圧策)

・1185年10月、畿内武士の支持を得て、義経は法皇に迫り、頼朝追討宣旨を獲得す る。しかし、兵が意外に少ない。挙兵をあきらめ、200騎で九州に下って再起を図った。

 3 頼 朝の覇権
   (1)頼朝軍(時政)の上京
     義経追討院宣を出させ、守護・地頭設置認めさせる(1185)

・頼朝追討院宣が出されたというニュースを聞いて頼朝は大挙上京の構えをとった。法皇 は近辺に武力を失い、今回のことはあずかり知らないことと弁明する。頼朝は「日本国第一の大天狗」と法皇を罵倒し、北条時政に1000騎を預けて上京させ る。
・11月、法皇に迫って反対に義経追討院宣を出させ、守護・地頭の設置を勝 ち取る。

      →義経の奥州脱出(藤原秀衡の保護) 

・義経は反頼朝勢力を頼って転々。延暦寺や興福寺など。頼朝はこれらに対して数万の兵 を差し向けるとして威嚇。義経は山伏姿となって奥州藤原氏を頼って脱出し た。弁慶の「勧進帳」は、途中、安宅の関を突破したときのエピソード。
・1187年秋、藤原秀衡は死ぬ。子の泰衡に対しては、義経を主君として頼朝を討つように遺言する。

      but頼朝の圧力で泰衡により滅亡

・頼朝は泰衡に対し、義経を差し出せば恩賞を与えると誘惑した。これにのせられ、 1189年閏4月、義経の館が襲われる。義経は「馬鹿な。泰衡もやられる ぞ」と言ったという。衣川の戦いで義経は討ち死に。弁慶も立 ち往生をした。義経の首は美酒につけて鎌倉に運ばれる。一方、義経は北海道に脱出し、ジンギス カンとなったという荒唐無稽の説もある。

   (2)頼朝軍の奥州攻略
     奥州藤原氏滅ぼす(1189)

・頼朝は28万4千の大軍で奥州平泉を攻撃。滅亡させる。

※東国武士団の支持受ける頼朝政権の 確立


目次に戻る   トッ プページに戻る

Copyright(C)2006 Makoto Hattori All Rights Reserved