<源氏と平氏の成長>
Q1 武士は武装して腕尽くで土地を守ったり言うことを聞かせようという輩。ヤクザの ようなものとも言える。錦3丁目のチンピラが、店に行ってミカジメ料をもらう際、他のチンピラと鉢合わせすると喧嘩になる。戦わずして喧嘩に勝つ方法は何 か?

A1 強い親分をバックに持つことである。稲葉地一家をバックに持ったり瀬戸一家をバックに持ったりする。稲葉地一家と瀬戸一家が対立すると、次はより強 い親分の子分になる。住吉連合や山口組をバックにつけてゆく。こうして二大暴力団が形成される。源氏と平氏も同じ。

・最終的に大武士団の統率者となった親分を棟梁という。

 中小武士団の統合→大武士団の棟梁による統率(地域的まとまり)       
  =二大武士団の形成

[源氏の成長]

 清和源氏=源満仲(経基の子)の摂津土着→摂関家に接近

源経 基は、純友の乱の平定で大宰少弐に出世。
・その子の源満仲は西日本各地の受領となり、私腹を肥やして 摂関家に奉仕。

Q2 満仲は摂関家に接近して出世するためにどのような手段をとったのか?

A2 安和の変の密告でさらに摂関家に接近。摂津国多田荘に住む。


・武士の身分は低い。源氏は摂関家の番犬として出世する。そのためには武功で名を挙 げ、付け届けを怠らないようにする。満仲の長男・頼光は大江山の酒呑童子を退治し、一方では道長の土御門邸新築の時は一切の家具を寄進している。頼信も道 長の近習となる。

A 関 東進出

・鎌倉時代の源氏の本拠は関東のはず。しかし、関東は平氏が勢力を持っていた。どう やって関東を乗っ取ったのか?
将門の乱後も、東国では平氏が力を持ち続ける。貞盛は陸奥 守鎮守府将軍。その子たちも東国の国司になる。
平忠常は上総介、武蔵国押領使、下総権介を歴任し、上総、 下総に大勢力を持つ。この乱を抑えたのが源氏だった。

   平 忠常の乱(1028)=上総介、中央に対抗・反乱

平忠常は 税や夫役を納めずに中央に反抗。1028年6月、安房に侵攻して国守を殺す。
・検非違使の平直方を追討使にした。200人で下向。貴族は下向の日は吉日にするようにといい、40日後に出発。この間に乱が拡大してしまう。
・1030年にはふたたび安房国が蹂躙される。千葉県一帯は荒廃し、上総国は2万町の作田が18町に減る。
・朝廷は直方を召還し、新たに源頼信を下向させることにした。

   →源 頼信が鎮圧

・頼信は甲斐国守に任じられ、次いで追討使となる。1031年春、頼信は東国へ下向。忠常は戦わずして出家して降伏。
・忠常がすぐに服属したのは、かつて常陸国守を勤めた頼信に非法をとがめられて5000の兵で攻撃され、それによって家来となっていたためとされる。その 後、重病となって死に、頼信は首を携えて上京。
・以後、頼信は美濃国守、河内国守などになる。死ぬ前に石清水八幡宮に願文を出し、源氏に八幡大菩薩の加護がもたらされることを祈った。以後、源氏の行く ところ、八幡社が勧請される。

 ※東国での平氏没落、源氏勢力の確 立

B 東 北の反乱の鎮定
   俘囚の反乱

・陸奥の蝦夷は坂上田村麻呂以後はおとなしくなり、安倍氏が統一した。服属した蝦夷の ことを俘囚と称した。安倍氏は俘囚の長で、北上川上流の奥6郡の郡司となり、民政をおこなう。朝廷は安倍氏に自治を認めて、てなづける。12の柵を設けて 軍事的にも半独立状態。
・1046年頃から安倍頼良が反乱を起こし、内郡まで勢力を伸ばして陸奥国 守と対立した。
・出羽でも俘囚の反乱が相次ぐ。

   →頼義(頼信の子)が陸奥国司となり抑える

・1051年、朝廷は頼信の子・頼義を陸奥守に任じて事態収拾をさせようとした。頼義は東国武士の棟梁となっており、源氏の棟梁が出てきたため頼良は帰服。 頼義と同じ読み方のため、頼時と改名して忠誠を誓う。

 1 前 九年の役(1051〜62)
    源頼義が安倍氏(俘囚長)の貞任・宗任を挑発

・頼義は奥州に勢力を伸ばすために来たものの、頼良が簡単に帰服したため、それができ ず。挑発の機会をうかがう。
・頼義の任期切れ直前、1056年、権守の子・藤原光貞の家が襲撃される。「安倍頼時の子・安倍貞任は、光貞の妹を妻に望んだが、家柄が卑しいとして断ら れ、これを恨んだのではないか」と言われ、貞任を召還しようとした。
・貞任はやっていないと言明。頼時は「貞任が愚かであっても、父子の愛が優先」とし、差し出すことを拒否した。安倍貞任・宗任が挑発されたのである。
・貞任は4000の兵を率いて河崎柵に依る。11月の寒気の中で食糧不足し、頼義は苦戦。兵は逃げ、出羽国に応援を頼んでも動かず。戦線は膠着。

    →清原氏(出羽の豪族)の援助で鎮定

・1062年7月、出羽の俘囚の清原武則が1万の兵で応援にかけつけ、頼義軍3000に合 流した。これによって勢いをつける。
・9月、厨川柵に依った安倍軍を総攻撃。貞任戦死。宗任は自首。 頼義が下向してから11年。乱が始まってから7年目だが、鎌倉の頃から前九年の役と呼ばれる。
・安倍氏の一族は西日本などに移される。その子孫を名乗るものが戦国の武将には多く、人気がある。
・平定の功により、頼義は正四位下となる。
清原武則は鎮守府将軍となり、奥6郡を支配。「当国のうち の人はみな従者なり」という勢いになった。

 2 後 三年の役(1083〜87)
    清原氏の同族争いを源義家が鎮圧

清原 氏は家衡、清衡の系統に分かれて争う。家衡は清原武則の実の孫であるが、清衡は血のつながりはない。かつて、藤原秀郷の子孫と結婚した安倍 氏の娘が未亡人となっていたため、武則が引き取って自分の子と結婚させた。その時、7歳で連れ子で来たのが清衡。
・陸奥守として赴任した義家は、清原氏の内紛に介入し、奥6 郡を家衡と清衡の2人に分けた。家衡は不満であり清衡の館を襲って妻子を殺害した。清衡は義家を頼る。
・1086年、義家は数千騎を従えて出陣。金沢柵を攻めるが、冬になって凍死者を出す苦戦。朝廷に追討の官符を求めるが断られる。
・戦のあと、「剛の列」「臆の列」に分けて座らせ、次の戦いでは「剛」に座るように激励。雁の列が乱れるのを見て伏せ勢のいるのを知る。金沢柵を包囲して 兵粮攻め。1087年11月に陥落。

    →乱後、奥州藤原氏の勢力拡大(清衡、基衡、秀衡)

清原 清衡は出羽と奥6郡を支配し、奥州藤原氏として君臨することになる。藤原三代は奥州の金で平泉に中尊寺金色堂などの黄金文化を築く。

C 源 義家の名声

・義家は家衡の首を持って勝利の報を朝廷に出し、恩賞を求めるが、「私闘には出せな い」と拒否。義家は首を捨て、私財で部下に論功行賞をおこなった。このため、東 国武士は感激し、義家に従う。

   関 東武士の従属一大武士団の棟梁へ

・源氏といえば鎌倉。鎌倉との関わりはどうだったのか。
・頼義は妻の父親の別荘のあった鎌倉に住む。前九年の役の時、戦勝祈願のために石清水八幡を鎌倉に勧請。源氏が鎌倉を東国の拠点とした初め。
・義家も鎌倉に住んで八幡宮を修復=鎌倉幕府の基礎。関東平氏のほとんどが義家の郎等になる。
・「八幡太郎義家」「天下第一武勇之士」。和歌もたしなみ、学者に兵法を学ぶ度量もあった。

  ∴荘園寄進集中、院の殿上人となる

義家 には荘園の寄進が集中する。その軍事力で守ってもらうことを期待した。1098年、白河上皇は義家に院の昇殿を許している。
・貴族たちは面白くない。本家・領家と仰がれるものは政治権力者であり、摂関家の侍に 過ぎない武士がその地位に昇ることをよしとしなかった。昇殿を許した白河政権も、その前の1091年には義家に田畑を寄進することを禁止している。

Q3 源氏の力が強くなることには、貴族としては警戒が必要である。どうするのがよい か?

A3 一つの武士団だけを用いるのはよくない。対抗させるのがよい。


  but白河上皇は平氏を重用、源氏抑圧

白河 上皇は、源氏に代わる武力として、伊勢平氏に目をつけていた。
・1106年、義家は68歳で死ぬ。この後、源氏は棟梁の座をめぐって内紛が起き、勢力が衰えることになる。

[平氏の成長]
 関東での平氏没落→伊勢平氏

関東 で没落した平氏は、平貞盛の子孫の維衡が1006年に伊勢守となり、伊勢に拠点を移した。これを伊勢平氏という。ここに所領を得たらしい。

 平正 盛・忠盛北面の武士(院の警護)院の近臣へ

・曾孫の平 正盛は白河上皇の娘の死後、設置された仏堂・六条院に荘園を寄進した。院と結んで北面の武士となる。北面の武士は院庁の中に設置され、院の護 衛をした。悪僧の強訴に対抗するためにも必要だった。強訴があると、平正盛は源為義とともに出動している。

  cf)源義親の乱、

源義 親は対馬守となり、人を殺したり官物を奪ったりした。義親を隠岐に流罪にすることにしたが、途中の出雲で目代を殺して官物を奪う。
・1107年、義親追討使に平正盛を起用する。わずか1か月 で義親を討ち、首を持って凱旋。白河上皇は恩賞に但馬国守に任じるが、貴族たちは下賤の者を一等国の守にするのはもってのほか、と噂。その後、義親を名乗 る賊が各地に出没しているため、本当に討ち取ったのかどうかは不明という。

    瀬戸内の海賊鎮定で台頭

・正盛の子・忠盛は備前守となり、1129年、瀬戸内海の海賊追討を命じられる。 1132年、鳥羽上皇のために白河千体観音堂を造営して内裏への昇殿が許される。これで正真正銘の貴族の仲間となった。
・忠盛は、院に取り入るために受領で儲ける。あとは外国貿易の利益を充てた。遣唐使廃止後も民間商船は大宰府に来ており、ここで官営貿易が続いていた。瀬戸内一帯に荘園ができると、領主は外国船を招いて直接貿易を して儲けた。宗像神社、箱崎八幡宮など、沿岸の寺社が多い。

 1 保 元の乱(1156)
    白河法皇と鳥羽天皇の対立

白河 法皇は堀河天皇が成人しても政治をさせず、堀河は音楽に走る。堀河が死に、その子が鳥羽天皇になる。5歳。引き続き白河院政がおこなわれる。
・白河法皇は藤原公実の娘・璋子を養女にしていた。これを鳥羽天皇の中宮とした。天皇16歳、璋子18歳。璋子は絶世の美女だった。実は白河は璋子に手を 出していて、翌年、鳥羽天皇に皇子が生まれる。月が足りないで生まれており、これを世に「叔父子」と呼んだ。白河法皇の子だという。

     →崇徳天皇実現

白河 法皇は、自分の胤の皇子が5歳になると鳥羽天皇を辞めさせてこれを即位させる。崇徳天皇。このやり方に対し、鳥羽天皇は白河を恨む。

    白河法皇の死→鳥羽上皇と崇徳天皇

・崇徳が10歳の時、白河は死んだ。天皇は親政が可能な年齢ではないため、鳥羽上皇はすぐに院政を開始して崇徳天皇抑圧に動いた。
・鳥羽上皇は璋子に代わって得子を妻とし、その間に生まれた皇子を3カ月で皇太子とした。1141年、崇徳に代わってこの子を即位させ、近衛天皇とする。
・近衛天皇は17歳で死ぬが、その後は鳥羽上皇の第4皇子、後白河が28歳で即位し、皇太子はその子が指定される。これで崇徳が院政を布ける目がなくな る。

     +藤原忠通と忠実・頼長の対立

・白河は関白藤原忠実の娘を鳥羽天皇に入れるように要求した。女性にだらしなく、忠実 は、白河に手込めにされることを心配して拒否。そのため、白河は忠実をやめさせ、子の忠通を関白とした。
・白河が死んで鳥羽上皇に代わると、鳥羽は院の近臣も入れ替えた。父の白河法皇が用いた藤原忠通に代わり、その父の忠実を内覧とし、事実上の関白に返り咲 かせた。
・鳥羽上皇に用いられた忠実は、白河法皇と結んでいた忠通を避け、その25歳年下の弟・頼長を可愛がる。藤原氏の長者が受け継ぐ朱器などを頼長に譲り、内 覧を嗣がせることにした。「日本一の大学生」と評価する。
・頼長は頭はよいが、性格的には冷たい人間。娘を近衛天皇に嫁がせて子をもうけ、外戚になることを期待したが、近衛は病弱で子ができない。近衛にプレッ シャーを与え、近衛は頼長を嫌いつつ、17歳で死んでしまう。
・この機をとらえ、忠通が「近衛が死ぬように呪詛したのは頼長」という噂を流した。このため、鳥羽上皇は頼長の内覧をクビにした。頼長は鳥羽に干されたた め、崇徳と結ぶようになる。後白河天皇は忠通を信任したので、忠通と頼長の 兄弟の争いも発生した。
・対立構図=鳥羽−後白河×崇徳。忠通×頼長。

    鳥羽法皇の死後、権力争い表面化

・鳥羽がいる間は怖くて対立は表面化せず。1156年7月2日、鳥羽法皇が死ぬ。

  後白河天皇、藤原忠通 × 崇徳上皇、藤原頼長

・後白河は崇徳・頼長が謀反を起こす心配ありとして武士を集め始める。崇徳と頼長はこ れに対抗するために、7月10日に募兵。

  源 義朝、平清盛 (傭兵) 源為義・為朝、平忠正

崇徳 方に召し出されたのは源為義、為朝、平忠正など。主力は源氏だが、郎等のほとんどは義朝について後白河方に行ってしまう。為義は67歳。高 齢のために断るが、無理に呼ばれた。
・軍議をおこなう。為義は3つの策を出した。第1は宇治まで退き、東国武士の合流を待つ。第2は東国武士の来るのが遅ければ、上皇が関東に落ちる。第3は 先手を打って内裏を攻める。
・頼長はそれほど急ぐ必要もないので、大和の兵が来るのを待とうと言って3策とも却下した。為義は為朝を推薦して意見を言わせる。内裏の夜討ちを勧める が、頼長は上皇対天皇の戦いに夜討ちはもってのほかといって却下した。為朝は「義朝は合戦の心得があり、必ず今夜、夜討ちをかけてくる。その時に慌てるだ ろう」と罵って帰る。
後白 河方は、禁中警護にでていた源義朝、平清盛などが召し出される。夜討ちがよいとの義朝の言葉に、藤原信西が許可した。
・義朝200、清盛300の手勢で院を攻略。信西は平氏を重く用いる路線のため、清盛 に先駆けを命じる。しかし、為朝の前に苦戦する。為朝は「鎮西八郎」と称され、弓の名手。五人張の弓を持ち、押し寄せる軍船を300メートル離れたところ から射て撃沈したという。
・清盛に代わって義朝が出てゆく。為朝は兄の義朝を威嚇するために弓を放ち、兜の緒を切る。義朝は弓の名手もそれだけかと言って院に火を放ったため、上皇方は敗北した。
・崇徳は仁和寺に逃げていたが13日、投降。頼長は奈良にいた父・忠実に助けを求めたが拒否されて自害。
・武士については清盛に叔父・忠正の首をはねさせ、義朝に父・為義の首を斬らせる。崇徳は讃岐に配流される。為朝はつかまるが、弓勢を惜しまれ、ヒジの腱 を抜いて伊豆大島に配流。後に、ここを脱出して琉球を建国したという伝説ができる。

Q4 保元の乱の意義は何だろうか?

A4 天皇家・貴族の私闘が武士の力によって解決された点である。これで武士の発言権が伸びることになった。

  =武士の力で後白河天皇勝利
  ※武士の発言力の増大

 2 平 治の乱(1159)
    保元の乱後、後白河院政開始

・一方の勢力が完全に壊滅したので、後白河は天皇親政を始めることができた。しかし、 親政2年で二条天皇に譲位。今様好きの後白河は上皇として自由に振る舞いたかった。信西も、上皇の元での方が専制ができる。

     藤原信西(院の近臣)が台頭

・保元の乱の際、後白河方を仕切ったのは藤原通憲。出家して信西といっていた。頼長に 劣らぬ読書家、学者。しかし、出世志向が強く、鳥羽上皇の扱いは冷たかった。後白河の乳母を妻にしたことで後白河に取り入ることに成功する。

Q5 信西の権勢の根源は天皇−上皇ラインである。権勢を維持するためにはこのライン のライバルを押さえる必要がある。何か?

A5 摂関家とその番犬の源氏である。

     →摂関家、源氏を抑圧

摂関 家は抑えないといけない。摂関家抑圧のため、忠実、頼長が持っていた摂関家領を没収。
・源氏は長らく摂関家の家人。源氏を抑えることが摂関家を抑えることになる。 平氏は北面の武士なので重く用いたい。
・保元の乱の時、信西は平氏に先駆けをさせて手柄を立てさせようとした。源氏の活躍で勝ったのだが、恩賞は源氏より平氏に厚くする。
・源氏に対しては、薬子の変以来の死罪を復活。子・義朝に親・為義や幼い弟を情け容赦なく斬らせる。義朝は戦功を理由に命乞いをするが無視。

    藤 原信頼と対立

・藤原信頼は、早くから後白河に取り入っていたため、信西のライバル。大将にしてくれ と信西に頼んだところ拒否され、反対に信西は信頼を失脚させようとする。

  =信 頼、義朝のクーデター、信西討たれる

信頼 は義朝を誘ってクーデターを計画。1159年12月9日、信西の用心棒・平清盛一家が熊野詣でに出たすきに実行した。義朝が兵を率いて院を 攻撃。後白河たちを内裏に移して幽閉し、政権を乗っ取った。
・信西を探すが見つからず。13日、山中に穴を掘って身を隠している信西を発見。首を斬って槍の先につけ、持ち帰ってさらし首にした。信頼は論功行賞をお こなって大臣大将となる。

 but平 清盛が鎮圧

・16日、清盛は引き返して六波羅邸に入った。25日、二条天皇を女装させて内裏から 脱出させ、上皇も逃げる。上皇と天皇を取り戻したので清盛は総攻撃に移る。 六条河原の戦いで義朝軍を下す。義朝は東国に逃げるところ、野間大坊で入浴中、内海の長田忠致(ただむね)に殺される。「せめて木太刀でも あれば」。頼朝も捕らえられる。

 ※平氏の政治的発言権増大、源氏勢 力の追放

・東国武士に与えた影響→貴族は雲の上の人と思っていた。武士の合戦の勝敗により、さ らし首にもなる。武士の力のすごさを自覚。


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