6 貴族政治の変容と武士の成長 <院政の成立>

 藤原頼通は娘を天皇家に嫁がせたものの、外孫をもうけることができず、後冷泉天皇の死去に伴い、170年ぶりに非外孫の[1]天皇が即位する。天皇は摂 関家を抑えるために(2)を登用し、(3)と呼ばれる枡への統一など「延久の善政」と呼ばれる政治を展開した。(4)年に出された[5]は、1045年以 後の新立荘園と券契不分明荘園を停止するもので、[6]と呼ばれる役所を置いて整理の徹底を図っている。この政策では藤原摂関家の荘園もいくつか整理され たと言われ、摂関家を上回る天皇家の力が示された。以後、荘園を守るための寄進先とし天皇家が重要となってゆく。
 [7]年に(1)上皇が亡くなると、[8]天皇は8歳の子に譲位し、幼少の[9]天皇に代わって執政する院政を開始した。院政は摂関政治に代わる代理政 治であり、この後、[10,11]上皇が受け継いで約1世紀続くことになる。上皇は白河や鳥羽の地に住み、上皇の持つ荘園などに対する執政の場として [12]を置いた。上皇の出す命令は[13]と呼ばれ、天皇の出す宣旨以上の効力を持った。(12)に仕えた役人を(14)と呼び、院の取り巻きという観 点から[15]とも言われた。多くは摂関家に抑えられていた(16)層などの中下級貴族で、地方で得た豊富な資金で院政を支えた。天皇や上皇の(17)を 務めた者の一族も、(15)に迎えられた。
 天皇OBの上皇は法に縛られず、天皇への遠慮もなかった。この点で私的専制的性格が強く、成長した天皇に譲位を迫って新たな幼少の天皇を即位させて院政 を継続させるなど、その強引な手法は対立の火種となった。世俗のトップの上皇たちは出家して[18]となることで宗教界のトップともなり、荘園領主として 力を持つ寺社をも支配しようとした。仏教の保護にも積極的で、(8)法皇の(19)など[20]と総称される寺が建てられている。また、[21,22]な どへの参詣も頻繁におこなわれた。
 しかし、(18)となっても寺社の力を抑えることはできなかった。多くの寺社は荘園を守ったり他の寺社との抗争に打ち勝つため、武装した僧侶である [23]を多数抱えていたが、彼らの強訴が激発したのである。特に[24]と称された比叡山[25]と奈良の[26]は有名で、前者は(27)の神輿、後 者は(28)の神木を用いて強訴をおこなった。「鴨川の水、双六の賽、山法師」は(29)と呼ばれ、(18)でも抑えられないとされ、強訴を阻止するに は、神罰を恐れない武士の登用が欠かせなくなる。
 院政の経済基盤は、(15)が出世のために提供した成功費用であり、寄進される荘園であった。特に[30,31]という荘園群は院政を支える存在であっ た。また、この頃になると一国の支配を特定個人に委ねる[32]の制度も確立している。本来、国衙領は朝廷が国司を派遣して支配し、租税は国庫に入れた 後、禄などとして貴族たちに支給されていた。しかし、地方政治に対しての熱意が失せると、一国ごと特定個人に政治を任せ、自由に国司を派遣させて租税を収 入にさせた方が面倒でなくなった。これは朝廷が政治を放棄したことを意味し、(32)は支配を任された(33)の私有地と化したのである。このような政治 の私物化が院政期の特徴である。ここでは中央集権体制は完全に崩壊し、封建制の萌芽が見られるのである。

<解答>
(1)後三条 (2)大江匡房 (3)延久の宣旨枡 (4)1069 (5)延久の荘園整理令 (6)記録荘園券契所 (7)1086 (8)白河  (9)堀河 (10)鳥羽 (11)後白河 (12)院庁 (13)院宣 (14)院司 (15)院近臣 (16)受領 (17)乳母 (18)法皇  (19)法勝寺 (20)六勝寺 (21,22)高野山、熊野 (23)僧兵 (24)南都北嶺 (25)延暦寺 (26)興福寺 (27)日吉山王社  (28)春日大社 (29)天下三不如意 (30,31)長講堂領 八条女院領、(32)知行国 (33)知行国主


<源氏と平氏の成長>

 武士たちは自分より強い主人に保護を求めた。大武士団を率いる主人が[1]で、天皇の血を引く貴種であった清和源氏と桓武平氏が二大武士団を形成する。
 清和源氏は、藤原純友の乱を鎮定した[2]の子、[3]が摂津に土着し、(4)の変以後は藤原摂関家に接近して台頭する。当時、関東では桓武平氏が勢力 を張っていたが、1028年、上総介に任じられていた[5]が中央への税を奪って乱を起こすと、(3)の子の[6]が鎮圧に向かい、(5)を屈服させた。 以後、平氏は東国でその勢力を失ってゆく。一方、奥州では平安初期の遠征以後、蝦夷は帰順して(7)と呼ばれるようになり、その長である[8]氏が支配し ていた。しかし中央政府の弱体化に伴い、11世紀に入ると反乱が相次ぎ、彼らを抑えるため(6)の子の[9]が下向した。(9)は(10)らを挑発し、最 後は出羽の豪族[11]氏の援助を得てこれを叩いた。この戦いを[12]と呼ぶ。この後、奥州は(11)氏が支配したが、今度はここで同族争いが生じ、 (9)の子の[13]が介入して(14)が勝利を収めた。この戦いを[15]と呼ぶ。(14)は改姓し、以後、(16,17)の三代にわたり奥州[18] を拠点に君臨する。この戦いを制した(13)は関東武士の多くを従える一大武士団の(1)となり、荘園の寄進を受け、院の(19)となって貴族の仲間入り を果たした。
 しかし[20]上皇は清和源氏を抑えるため桓武平氏を重用することになる。東国で勢力を失った桓武平氏は拠点を(21)に移し、[22,23]が院の警 護に当たる(24)に任じられる。僧兵の強訴鎮圧の他、対馬守(25)の乱の鎮圧でも活躍し、また、瀬戸内の海賊鎮定で武名を高め、中央政界での清和源氏 と桓武平氏の立場は逆転する。
 彼らの力が発揮されるのは12世紀半ばの政治抗争である。(20)法皇は堀河天皇の死後、[26]天皇に対する院政を布いていたが、圧力をかけてその子 に譲位させ、[27]天皇が即位した。(26)上皇はこの行為を恨み、(20)法皇の死後、(27)天皇をやめさせて弟の近衛天皇を立てる。そしてこの天 皇の後には[28]天皇を即位させ、(27)上皇が院政を布けないようにした。こうして(27)上皇と(28)天皇の権力争いが表面化する。一方、関白の 藤原忠実は白河院と対立し、その子の[29]が関白となった。白河法皇が死ぬと藤原忠実は(29)を避けてその弟[30]を関白と同等の内覧とし、 (29)と(30)の対立が生じた。前者は(28)天皇、後者は(27)上皇と結ぶことになる。(26)法皇が死ぬと両勢力の対立は武力抗争に発展する。 天皇方の傭兵には源氏の[31]、平氏の[32]、上皇方には源氏の[33,34]、平氏の[35]が集まった。この戦いが(36)年の[37]であり、 天皇方が勝利する。乱後は(28)天皇が上皇となって院政を布いたが、上皇と結んで台頭した院近臣の[38]は摂関家と源氏を抑圧する方針をとり、 (31)と院近臣の[39]の恨みを買った。彼らが起こしたクーデターが[40]である。しかし、乱は(32)によって鎮圧される。一連の出来事は、天皇 や貴族の政争が武士の力によって解決されたものであり、鎮圧された源氏に代わり、平氏が政治的発言力を高める結果となった。

<解答>
(1)棟梁 (2)源経基 (3)源満仲 (4)安和 (5)平忠常 (6)源頼信 (7)俘囚 (8)安倍(9)源頼義 (10)安倍貞任・宗任  (11)清原 (12)前九年の役 (13)源義家 (14)清原清衡 (15)後三年の役 (16)藤原基衡 (17)藤原秀衡 (18)平泉  (19)殿上人 (20)白河 (21)伊勢 (22)平正盛 (23)平忠盛 (24)北面の武士 (25)源義親 (26)鳥羽(27)崇徳  (28)後白河 (29)藤原忠通 (30)藤原頼長 (31)源義朝 (32)平清盛(33,34)源為義、源為朝 (35)平忠正 (36)1156  (37)保元の乱 (38)藤原信西 (39)藤原信頼 (40)平治の乱


<平氏政権の成立と崩壊>

 平治の乱後、平清盛は短期間で出世し、1167年には[1]に任じられた。一族の娘滋子が後白河上皇に入内し、生まれた子を(2)天皇として即位させる ことに成功すると、これに娘の(3)を嫁がせている。このように、平氏は外戚関係を利用して一門で高位高官を独占したが、これに対する院近臣の反発が強ま り、1177年には藤原成親や西光、俊寛らが平氏打倒を企てる[4]が起きている。事件後は後白河法皇と平清盛の対立が深まり、1179年、清盛は法皇を 幽閉して政権を奪い、外孫[5]天皇を即位させて政権を掌握した。
 平氏政権は後白河法皇との関係を利用して台頭した点で院近臣としての貴族的性格を持つ。経済的基盤は摂関家に嫁いだ娘が継承した500カ所の(6)や 30ヵ国に及ぶ(7)であった。一方、清盛は武士団の棟梁として家人との関係を強化した点で武家政権的な性格も持っている。家人は荘園の在地領主が武装 し、清盛と主従関係を結んだものであったが、清盛はこれを[8]に任命し、現地管理権を保証している。土地を仲立ちとすることで主従関係を強化したのであ る。ここでは、在地領主が中央の荘園領主から荘官に任じられている場合、二重の任免関係を持つことになった。また、貴族が敬遠していた外国との交渉にも前 向きで、[9]の利益を重視し、航路として(10)を開削したり港として[11]を修築している。しかし、平氏政権は古代的性格が強く、これを支持した西 日本の武士の所有する土地が狭かったこともあって、土地を仲立ちとする封建関係を十分に機能させることができなかった。
 平氏の独裁に対する反発は激しく、1180年、(12)が後白河法皇の子[13]を奉じて挙兵した。間もなく鎮圧されたが、平氏打倒の令旨は全国に及ん で挙兵が相次いだ。平氏は(14)への遷都を図ったが失敗し、源義朝の子[15]の挙兵を招く。(15)は平治の乱の罪人として伊豆に流されていたが、在 庁官人の娘[16]と結ばれたことから[17]の後見を受けていた。石橋山の戦いでは敗れたものの、関東に脱出して源義家以来、源氏に思いを寄せる東国武 士の結集に成功し、(18)の戦いに勝って[19]を本拠に定めた。一方、木曽谷にあった[20]はいち早く上京を果たして平氏を(14)へ追いやった が、都での略奪もあって後白河法皇と離反し、法皇は(15)に(20)打倒を求めた。(15)は東国年貢の抑留に悩む貴族に対し、東国武士への年貢納入を 指令する権限を求めて認められ、事実上の東国支配権を獲得する。弟の(21,22)の上京で(20)は敗れ去り、次いで平氏打倒に向かう。(23,24) の戦いを経て(25)年、[21]は[26]の戦いで平氏を滅ぼした。しかし、法皇は源氏抑圧のために(21)に接近して(15)の追討を命じる。この企 ては失敗し、逆に(15)軍の上京を招き、(21)逮捕のため、国ごとに[27]、荘園国衙領に(8)を設置することを認めさせられることになった。 (21)は奥州の(28)の保護を得ていたが、その死後、子の(29)は(21)を裏切ってこれを滅ぼしている。(30)年、(15)は後難を避けるため 奥州に遠征し、背後の最大勢力である(29)を倒して東国を安定させた。これにより(31)と呼ばれる内乱に終止符が打たれ、幕府政治が本格的に展開して ゆくことになる。

<解答>
(1)太政大臣 (2)高倉 (3)徳子 (4)鹿ヶ谷事件 (5)安徳 (6)荘園 (7)知行国 (8)地頭 (9)日宋貿易 (10)音戸の瀬戸  (11)大輪田泊 (12)源頼政 (13)以仁王 (14)福原 (15)源頼朝 (16)北条政子 (17)北条時政 (18)富士川 (19)鎌倉  (20)源義仲 (21)源義経 (22)源範頼 (23,24)一の谷、屋島 (25)1185 (26)壇ノ浦 (27)守護 (28)藤原秀衡  (29)藤原泰衡 (30)1189 (31)治承・寿永の内乱


<貴族社会の文化>

 894年の遣唐使の廃止により、それまで貴族が手本としていた中国文化の流入が妨げられた。このため、平安時代の中期、摂関政治の時期には文化の国風化 が進むことになる。貴族の邸宅建築として、板敷きの床と桧皮葺の屋根を持つ建物を渡殿で連結した(1)造が登場したのもこの時期である。
 宗教では密教がますます盛んとなり、前代に生じていた神仏習合の考えが定着して仏を主、日本在来の神を従とする(2)が説かれた。真言宗では曼荼羅を用 いて日本の神を説明し、こうして成立した神道を(3)と称している。これも仏教の国風化の表れであるが、もっと重要なのは現世よりも来世の幸福、すなわち (4)を願う(5)と呼ばれる信仰が登場したことであろう。これは旧仏教が世俗化するとともに、没落する中小貴族たちが現世に望みを失ったことを背景に、 釈迦入滅2000年後に荒れた世の中が到来するという(6)思想が流行したことが理由である。日本では(7)年から(6)に突入するとされた。ここでは、 (8)にすがることで(4)がかなうと説かれ、平安京では市聖と言われた(9)が現れて民間布教をおこなった。(8)への帰依を宣する「(10)」の6文 字を唱えることを(11)と呼び、その効用が説かれた。また、(12)は(4)を遂げたという人たちの伝記として「(13)」を著わし、(14)は 「(15)」を著わして(4)を達成する方策を示した。貴族たちは(8)を祀る堂として(16)を建設し、藤原道長の(17)、藤原頼通の(18)などが 著名である。一方、貴族は様々な俗信にとらわれていた。この世に恨みを残して死んだ者の祟りを恐れて神として祀ることもおこなわれ、これを(19)信仰と 呼ぶ。菅原道真を祀った(20)の建立はその表れである。また、暦に示された陰陽五行の考えが日常生活を規定し、日によって外出を控える(21)や出かけ る方角を気にかける(22)などがおこなわれた。このような暦の信仰を(23)という。
 平安京で流行した(5)は、平安時代の末期になると地方に伝播してゆく。これは地方貴族や武士の力が強くなり、文化の担い手となったからであり、多くの (16)が建てられた。東北では、後三年の役の後に岩手県の(24)を拠点に勢力を拡大した(25)氏が(26)を残しているし、福島県いわき市の (27)、大分県豊後高田市の(28)などもこの時期の地方(16)の遺構である。
 美術の分野でも国風化は進んだ。仏像では(5)の信仰対象となった(8)が多く製作されたが、それまでの一木造では増大する貴族の需要に応えることが難 しかったこともあり、仏師(29)の手によって(30)の造像手法が完成された。その遺作は(18)に残されている。また、絵画でも従来の異国風の画題に 対し、和歌や物語を題材とした(31)が創始された。(5)との関連では、(8)は臨終にあたりたくさんの菩薩を率いて来臨すると信じられたため、その様 を表した(32)が描かれている。(31)は平安時代末期になると、詞書と絵を交互に展開することで物語を進行させる(33)として独自の発展を見せる。 紫式部の長編物語に題材を得た(34)、修行僧命蓮の法力を描いた(35)、動物に仮託して人間社会を風刺したともいわれる(36)、応天門の変の顛末を 描いた(37)が残されている。また、平氏一門が厳島神社に納めた装飾経である(38)、四天王寺に伝わり、庶民生活を描いた(39)などもこの時代の遺 品である。
 書道でも前代の唐風に代わって和様が尊ばれ、(40〜42)の書家が(43)と称されている。
 文学でも国風化の流れは顕著に認められる。固有の文字を持たなかった日本では、漢字を用いるしかなかったが、その場合は漢文で表記する場合と万葉仮名の ように漢字の音を利用して日本語を表記する場合とがあった。真名である漢字は男が用いたのに対し、仮名は女の用いる女手とされ、一段下に見られていたが、 日本語の細かいニュアンスは漢文よりも仮名の方が表しやすかった。このため、女流による文学が隆盛を極めることになったのである。彼女らは女房として宮中 に仕えて一種のサロンを形成し、摂関政治を支える役割も演じていた。物語文学はその祖といわれる「(44)」、在原業平を主人公としたという歌物語の 「(45)」を経て、長編の「(46)」が一条天皇の后となった彰子の女房、(47)の手で著わされている。日記では、紀貫之が女性に仮託して記した 「(48)」、右大将道綱母が藤原兼家との結婚と不和を記した「(49)」、受領の家に生まれた菅原孝標女が記し、紀行文でもある「(50)」などが知ら れている。随筆では一条天皇の中宮となった定子の女房の(51)が残した「(52)」が名高い。さらには歴史文学が成立したのもこの時期で、藤原道長の栄 華を描いた「(53)」や「(54)」が知られ、後者は辛辣な史論を特徴として後の鏡物の嚆矢となった。戦記物としては平将門の乱に題材を取った 「(55)」、前九年の役を記した「(56)」がある。また、「今は昔」で始まる説話文学の作品として「(57)」が残されている。
 詩歌でも国風化は著しく、前代に盛行した漢詩に代わり和歌がもてはやされ、最初の勅撰和歌集として紀貫之らが「(58)」を編さんしている。これは、以 後「新古今和歌集」に至る(59)の初めとなった。ここで批評された在原業平や小野小町などの6人は(60)と称され、平安初期を代表する歌人となってい る。一方、平安時代末期には白拍子と呼ばれる男装の芸人の歌舞が流行し、その七五調4句の歌を(61)と称している。これは当時の流行歌謡であり、庶民か ら発生した舞を伴わない歌謡である(62)とともに貴族たちにも愛好された。後白河法皇が撰した「(63)」は、これら古代歌謡の歌集である。

<解答>
(1)寝殿 (2)本地垂迹説 (3)両部神道 (4)極楽往生 (5)浄土教 (6)末法 (7)1052
(8)阿弥陀如来(阿弥陀仏) (9)空也 (10)南無阿弥陀仏 (11)念仏 (12)慶滋保胤(13)日本往生極楽記 (14)源信 (15)往生 要集 (16)阿弥陀堂 (17)法成寺阿弥陀堂(18)平等院鳳凰堂 (19)御霊 (20)北野天神 (21)物忌み (22)方違え (23)陰陽 道(24)平泉、(25)奥州藤原 (26)中尊寺金色堂 (27)白水阿弥陀堂 (28)富貴寺大堂 (29)定朝 (30)寄木造 (31)大和絵  (32)聖衆来迎図 (33)絵巻物 (34)源氏物語絵巻 (35)信貴山縁起絵巻 (36)鳥獣戯画 (37)伴大納言絵詞(絵巻) (38)平家納 経(39)扇面古写経 (40~42)小野道風、藤原佐理、藤原行成 (43)三蹟 (44)竹取物語(45)伊勢物語 (46)源氏物語 (47)紫式 部 (48)土佐日記 (49)蜻蛉日記 (50)更級日記 (51)清少納言 (52)枕草子 (53)栄華物語 (54)大鏡 (55)将門記  (56)陸奥話記 (57)今昔物語 (58)古今和歌集 (59)八代集 (60)六歌仙 (61)今様 (62)催馬楽 (63)梁塵秘抄

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