6 貴族政治の変容と武士の成長
<院政の成立>
[摂関政治の没落]

・後朱雀天皇が病気となり、天皇位は後冷泉天皇にゆく。皇太子には尊仁を立てるように 頼通にいう。
・尊仁親王の父は後朱雀天皇、母は三条天皇の娘なので外孫ではない。頼通は不満で返事もせず。皇太子の印である「壺切の剣」を23年間も渡さなかった。
・頼通は遅く産まれた寛子を後冷泉天皇に嫁がせ、皇子をもうけさせるつもり。頼通の弟・教通も歓子を嫁がせた。
・尊仁は身の危険を常に感じる。検非違使が盗賊をつかまえに東宮に来たとき、自分をつかまえに来たと思って準備。
・寛子も歓子も皇子どころか子供も産めず。後冷泉は病気となって1068年に死ぬ。頼通は気落ちして関白を辞め、宇治に引退する。

 非外 孫の後三条天皇即位(170年ぶり)

非外 孫の後三条天皇即位。宇多天皇以来170年ぶりに母方外戚に藤原氏を持たない天皇。35歳で即位したのも久しぶり。

1 藤 原摂関家抑圧
 大江匡房の登用

・後三条の政治は延久の善政と呼ばれる。今までおさえられていた腹いせに摂関家を抑圧する政策を実施してゆく。
・東宮時代の補佐役・大江匡房を用いる。文章道(漢詩や歴史 を学ぶもの)の学者の家系。
・律令では唐の大升を用いることになっていたが、実際には私升が横行。1072年、延久の宣旨枡設定。公定枡であり鎌倉時代まで公的に通用。1升は現在の 6合7勺。

2 延 久の荘園整理令(1069)

・諸国の荘園が朝廷の許可なく公田をとるのは天下の大害として整理をおこなった。
・皇室は9世紀設定の勅旨田も分割によって減っていて、荘園整理をしても実害はない。頼通の時に口頭で摂関家の荘園とするものが充満したため、天皇が整理 を考えた。

Q1 荘園整理を強く願った勢力は誰か?

A1 国司である。荘園が整理されて公領が増えれば収入増につながる。

Q2 従来も荘園整理はたびたびおこなわれたがほとんど効果がなかった。なぜか?

A2 従来の荘園整理は藤原氏が国司を使っておこなった。藤原氏は最大の荘 園領主であり、自分の荘園には整理の手をつけない。藤原氏の勧学院領を整理しようとしたら道長が待ったをかけている。

・国司の方は、受領になってしばらくは積極的に整理をおこなうが、任期が切れる頃にな ると、整理を進めれば権門勢家ににらまれ、次のポストが来ない可能性がある。急に手の平を返して荘園を認め出す。実際には整理することは不可能だった。

 記録荘園券契所設置

・整理の徹底を図るため、1069年、記録荘園券契所を設置。役人には藤原氏と無関係の源氏など を用いる。

 寛徳2年(1045)以後の新立荘園、券契不分明荘園の停止

・荘園領主から書類を出させ、審査して基準に合わなければ廃止。1045年以前の成立 で確かな証拠のあるもの、国務の妨げにならないものは認める。
・1045年は、頼通の意見で荘園整理がおこなわれたときなので、その時に認めたものはそのままにした。頼通の顔を立てて荘園整理をしようとしたもの。

  →摂関家の荘園もいくつか停止、国衙領に入る

・領主と国司の書類を比較し、疑問のあるものは国司が裁決をした。
・東大寺、摂関家も対象とする。石清水八幡宮=34カ所の荘園のうち、21カ所しか認められなかった。
・文書提出を求められた頼通は「領主が寄進すると言ってきたものを受け付けただけ。書類はない。遠慮なく廃止しろ」。後三条は頼通の荘園は除外したと伝えられるが、実際にはいくつか停止されている。 摂関家は頼りにならないことを知る。

※摂関家を上回る天皇の力を示す

[院政の開始]
 後三条の譲位・死→白河天皇即位

・後三条天皇は4年で19歳の貞仁親王に譲位し、その2歳の弟・実仁親王を皇太子にす る。白河天皇の実現。
・貞仁親王は摂関家から妻を迎えていたため、これに皇子が生まれると摂関政治が復活する。貞仁親王に子ができる前に、実子の実仁親王を皇太子にしておけば 安全。
・「愚管抄」には院政をする意図があったとする。譲位後、院庁の院司を任じ、反摂関家 の人材を抜てきしている。院政をおこなう意図もあったのかも知れないが、譲位後半年で死んだため、実現せず。40歳。
・後三条の死に際し、頼通は「末代の賢主も早く亡くなられた」と嘆息。頼通も翌年、83歳で死ぬ。

A 白 河上皇の政治

・白河天皇の即位後間もなく、頼通、教通など、摂関政治全盛期の生き残りが全て死んだため、白河天皇は好き勝手ができた。
・皇太子の弟は6歳で疱瘡で死んだため、白河天皇は自分の子を8歳で皇太子に立てた。母は藤原氏から迎えた賢子。

Q3 ここで考えられる不安材料は何か?

A3 白河が若くして死んでしまうと、摂関政治が復活する可能性がある。その目を消すには、その日のうちに譲位し、幼少の天皇に代わって自分が政治をすれ ばよい。

 堀河天皇(8歳)への譲位、天皇の政治を代行(1086)

堀河 天皇が実現し、白河上皇は院庁で執政することにした。

  →摂関政治に代わる代理政治(院政)

・摂関政治から院政への変化は、結婚形態の変化を受けて生じた現象である。
・それまでは招婿婚で男が妻の家に転がり込んでいた。これが経営所婚に変わ る。妻の家族と同居せず、別個に新居を構えるもので夫婦単位 の生活となる。外祖父の影響力が低下し、父親の権限が強くなる。

 =白河、鳥羽、後白河3代続く(約1世紀)

白河 院政=堀河、鳥羽、崇徳3代、43年間。鳥羽院政= 崇徳、近衛、後白河3代27年間。後白河院政=平氏政権との からみがあるが、5代30年以上。

B 院政の特色
 1 院庁での執政
    院司院の近臣

Q4 院司となって院政を支えたのはどういう階層の者か?

A4 摂関政治で押さえつけられていた中下級貴族である。受領をしていた連中。

     中下級貴族、乳母の一族)の勤務

・一方、天 皇や上皇の乳母の関係で信任を得る者もあった
・貴族の子どもは母親ではなく、乳母によって育てられる。授乳するのは下賤なことだった。母親は授乳しなければ、ホルモンの関係で次の妊娠が期待できる。 たくさん子をもうけることが大切だった。
・このように、院の取り巻きは私的なつき合いでのし上がってきた者ばかり。

    院 宣、院庁下文が効力持つ

・天皇の宣旨と院の命令は同じものと考えられた。実際には、天皇は幼少であり、院宣が優先される。院宣の他、院の家政機関である院庁から出る下文も同様の力を持つ。

Q5 摂関政治も院政も、天皇に代わって別人が政治をするもの。どちらが好き勝手がで きるのか。その理由は何か?

A5 院政である。摂関は臣下だから天皇にまだ遠慮がある。上皇は天皇の父だからやりたい放題。

 2 私 的専制的性格
   法に縛られない天皇OB

・摂関政治も私的性格が強いが、あくまでも臣下による政治であるため天皇に対しての遠 慮がある。摂関は法に縛られ、天皇あっての摂関なので、権威の根源である天皇をないがしろにするとまずい。
・院政は天皇OBがおこなうもの。天皇親政であれば様々な規制がかぶってくるが、OBのやることには規制がないし、権威はあるので天皇を自由に操ってやりたい放題。
「治天の君」。白河法皇に対し、大江匡房は、「今の世のこ とは、全てまず上皇の顔色をうかがうべき」と記す。
・法勝寺完成の供養式で雨が降り延期。3度延期して4度目に雨で決行。白河上皇は雨を器に入れて獄につないだ。鳥羽上皇も常識外れの振る舞いが多かった。
・上皇が院政を続けるためには、常に幼少の天皇を即位させなければならない。成人すると反抗することがあるからである。堀河が13歳の時、白河天皇は32 歳の妹を嫁がせる。今までも10歳年上ぐらいはあったが、これは20歳近くも年上。子供ができない。次いで藤原氏から妻を取らせて子を産ませ、すぐに皇太 子に立てる。堀河が死ぬと天皇とした。これが鳥羽天皇。
・したがって、院政は親子関係が極端に悪くなる政治体制である。幼少の天皇が成長してさてこれから政治をやるかと思ったとき、父親によって辞めさせられ、弟に譲位を迫られることになる。おとなしい子供なら反発しないが、普通は怒ってしまう。そうして起きたのが保元の乱であった。

   成功による近臣の国司任命

成功 で寺などを建ててくれた近臣を優先的に国司に任じていった。右大臣中御門宗忠は「法に関わらず叙位・除目をした」「まったくの専制の主だ」 と記している。

   国費による仏教保護(上皇→法皇
    ex)六勝寺の造営、熊野・高野への参詣

・上皇たちは出家して法皇となっている。上皇は世俗の最高権力者だが、当時、多くの荘園を所有して大きな力を振るっていた寺社に対しても支配の力を及ぼすには、宗教界の最高権力者である法皇になる必要があった。
六勝 寺=法勝寺(白河)、尊勝寺(堀河)、最勝寺(鳥羽)、円勝寺(鳥羽皇后)、成勝寺(崇徳)、延勝寺(近衛)。院政の時期に上皇たちが造営した寺院の総称である。
熊野詣も盛ん。熊野は死者の行く先でフダラク渡海をする。 修験の道場だった。京都から熊野までに王子の社が造られ、99王子という。
・907年、宇多法皇の行幸が最初。亀山上皇までの400年間に100回出かける。莫大な経費。成功費用で捻出。

     but過保護

Q6 寺を過保護にするとどういう問題が生じるのか?

A6 過大な要求を腕づくで突きつけてくるようになる。

    →僧兵の強訴招く cf)南都北嶺=天下三不如意 

・元もとは僧侶になるには修行が必要で、国家公認で得度をした。9世紀になると統制が 緩み、2年の修行でよくなり、しまいには修行はあとですればよくなった。一度に数千人単位で得度する。
・寺には祈祷の依頼が殺到しており、布施収入が大きく、寺領もあるので生活には困らない。ごろつきがどんどん集まるようになっていた。延暦寺には3000 人の僧侶。闘争に勝つために寺領から兵士を募集し、これが僧兵である
院政期に強訴は60回。「鴨川の水、双六の賽、山法師は天下三不如意」と 上皇は嘆いた。

Q7 強訴は、いうことを聞かないと罰が当たるといって威すものである。仏は慈悲の存 在なので罰を当てるにはふさわしくない。僧は何を使って罰を当てるとすごむとよいのか。

A7 神罰が当たるというのである。神は敬わなければ恐ろしい存在とされていた。

延暦 寺は日吉山王社の神輿、興福寺は春日大社の神木を奉じて大挙して上京。朝廷や法皇に直訴した。神仏習合なのでできたことでもある。神罰を恐 れる連中は言い分を聞いてしまう。

Q8 僧兵の強訴を防ぐにはどうするか?

A8 僧兵の強訴を防ぐため、神罰を信じない武士が欠かせない。

  ∴武士の登用

・永久の強訴(1113)では武士が興福寺と延暦寺の強訴を退散させた
・興福寺支配下の清水寺の別当があいたとき、法勝寺の仏像を作った円勢を別当にした。円勢は延暦寺で出家した者なので興福寺は怒り、神木を持って強訴。略 奪もする。朝廷は強訴を受け入れて興福寺出身者を別当にした。
・今度は延暦寺が怒り、日吉神社の神輿を持って京都に強訴。清水寺を破壊。白河法皇は困ったが、延暦寺の言い分を聞くことにした。
・興福寺は南都七大寺の衆徒に呼びかけ、吉野などから兵を集める。数万という。延暦寺もこれに対抗して兵を集める。
・興福寺衆徒の上京に対し、白河院は検非違使の平正盛、忠盛を宇治に差し向ける。対峙していたところ、鹿が飛び出す=春日明神の使い。衆徒は神の応援だと 喜んだが、これを武士が射ようとした。神罰を恐れる衆徒がひるむと武士が押し返す。
・武士は神木も神輿も恐れない。僧兵対策として武士が重宝されるようになっ てゆく

 3 経済的基盤
    受領層の成功費用
    荘園整理の継続

・白河は後三条の荘園整理令を継続する方針を出す。院の近臣となった受領は、積極的に 荘園整理をすることが可能。

Q9 摂関家の荘園などは没収されてしまう。荘園を守りたい荘園領主はどうすればよい か。
 
A9 寄進先は院にした方が守れることになる。その結果、莫大な院領荘園が作られる。

     院への荘園寄進 ex)長講堂領、八条女院領

長講 堂は後白河法皇の持仏堂。死に先立ち、堂の護持と仏法興隆のために荘園が寄進された。ここに預けておけばとられないため、180の荘園が集 中。
八条女院は鳥羽天皇の三女で、4歳の時に鳥羽上皇から12 カ所の荘園をもらう。母が死ぬと遺領を受け継いで230カ所に増える。

     (職の秩序成立、不輸不入権一般化)
    知行国の登場(一国の租税収入を個人収入とする制 度)

・各国の租税は国司が集めて国庫に入れ、ここから禄などを支給していた。10世紀末頃、上皇や女院の収入のためには、特定の国を指定して、そこから上がる税を とらせるようになった。租税をとること=土地を支配することであり、この権利を知行権という。この段階のものを院宮分国制と呼んだ。
・これが他の公卿にも拡大したのが知行国制である。12世紀 末には寺社や武士に知行国を与えることが始まり、13世紀には全国の3分の2は知行国になった。

      cf)国衙領の私有地化徹底
        知行国主−国司−在庁官人=本家−領家−荘官

知行 国主は近臣を国司にし、そいつが目代(在庁官人)を派遣して政治をやらせる。収入は国庫に入らずに知行国主がとるので私領と同じ
・ここでも、一つの土地を仲立ちとして二重三重の用益権が形成されている=職。

※政治の私物化の進行

・荘園や知行国だらけになったとき、国家収入は途絶える。国家財政は存在せず、私的収 入だけで政治がやられてゆく→公権力が存在しない時代。



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