<地方政治の混乱と動乱>
[国司の腐敗]

 国司(最高の地方行政官)=徴税執行、私腹を肥やす

・国司は地方政治の最高責任者であり、勧農をおこない、良吏としての国司もいた。大江 匡衡(まさひら)は赤染衛門(三十六歌仙、和泉式部と並ぶ女流歌人)の夫。尾張国司として赴任し、大江用水を開く。稲沢付近が国府。尾張学校院の開設。勧 農に力を注いでいる。
・こういう者は多くない。私腹を肥やしてあくどく儲ける国司も多かった。 徴税のため、武装した一族郎党を連れて下向する。取った収益のうち一定額の税を納めれば、あとは自分のものとすることができる。

A 富 の収奪
 受領=現地赴任者、中央への租税を横取り

受領は 国司交替の書類を前任者から受領したことから名となる。調・庸の劣悪化をくい止めるなど、中央政府の命令には消極的。政府稲の高利での貸付で私腹を肥や し、徴税強行のための武装集団として従者(郎等)を持つよう になる。

  ex)藤原元命「尾張国郡司百姓等解文」圧政を訴えら れる

尾張 国郡司百姓等解文は漢字9000字。写しが大須観音にある。大須観音は真福寺といい、もとは美濃の大須にあった。真福寺文庫には国宝の書物 がたくさん伝えられている。
・988年、藤原元命の非法を訴えた。31カ条。元命は普段 は京都で遊んでいて、徴税の時期になるとオオカミのような一族郎等を率いて百姓の家に乗り込み、不当に高い税を徴収し、拒むと財物を奪う。税でとった良質 の糸はくすね、悪いのを買って都に送る。蓄えは京都に運び、次の出世のために賄賂としている。用水管理費などを着服して荒れ放題にしている。
・任期を1年残して解任されるが、賄賂を贈り、その子は石見国の国司になっている。役人はいつもあくどい。
・尾張国は国司を訴える伝統があり、4人の国司を訴えている。他国と比べて多い。

  cf)「受領ハ倒ルル所ニ土ヲツカメ」(藤原陳忠「今昔物語」)

・「今昔物語」にある話。藤原陳忠は 信濃守で任期が終わり、御坂峠を越えて京都に戻る。在任中の儲けを馬に積んで行列。ここの懸け橋から馬もろとも転落。馬は谷底に落ちていったが陳忠は木に 引っかかる。篭を下ろせというので下ろすと、平茸があがってくる。最後に陳忠が平茸を握ってあがってきた。どうしたと聞くと、「木に引っかかったところに たくさん平茸が生えていた。もっとたくさんあり、惜しいことをした」。あきれていると、「受領は倒れるところに土をつかめというではないか」といって怒る。

 →土着し地方豪族化する者も出現

・国司任期中に農民を使って土地を開墾。平安京に戻るとそれを政治資金として猟官活動 ができる。しかし、摂関家が幅を利かしているのでタカが知れている。そのま ま土着し、地方で貴種として権威と物質力を使った方が得。

B 売 位売官
 国司職の利権化生じる

・国司は儲かる。上国の国司がよい。中原師平は淡路守の時は米6000石、塩500石 の収入。土佐守になり、米3万石、絹30万疋の収入となる。上国の国司になるため、賄賂を贈るようになる。

 1 成 功=寺社造営による官職獲得

・国の収入が減るので、国家予算では寺院が造れなくなった。金を持っている国司から寄付を募り、見返りとして出世させる。院政期に 盛んとなり、受領が米1万石、布1万疋を進上している。
・平忠盛は院政に取り入った武士。1132年、得長寿院を建てて但馬守となっている。
・藤原惟憲は道長の家司だったが、播磨守から大宰大弐に転任した。この時は道長に1万石、頼通に3000石の賄賂を約束。任地で儲けて摂関家に貢納し、ま た赴任することを繰り返した。
・道長邸新築の時には調度などを全て受領が負担している。華やかな摂関政治 を支えたのは賄賂である。

 2 重 任=成功による国司任期延長

・せっかく手塩にかけて儲けるようにした国の国司職を手放すのはもったいない。重任は寺社造営の功で国司任期を伸ばしてもらうことである。

C 代 理政治

・国司は儲かるが田舎暮らしは嫌である。

Q1 田舎で暮らしたくないが国司はやりたい。どうするか?

A1 代理を派遣してそいつに国司の仕事をさせる。自分は京都で暮らしていればよい。

 遙任=目代の派遣、収入のみ確保

・良房・基経の時代から増える。一族、子弟などを派遣し、自分は京都に住んで次の出世 のために駆け回る。目代は国司の四等官の「目」の代官の意。

 →現地:役所=留守所、役人:在庁官人(地方豪族任命)

※朝廷経済基盤(国衙領)の変質

・各国は国家財政をまかなう場ではない。国司が儲ける場所。国司はその中の規定分を中央へ租税として出せばよ い。

[武士団の形成]

律令 制の軍団制は崩壊していた。軍団を動員しなければならない戦乱はあまりなく、国司の私用に使われる。だんだんと弱体化し、桓武天皇の780 年に健児制に変わった。なお、陸奥・出羽や大宰府管内は軍団存続。
健児は専門の戦闘集団である。富裕な百姓などで弓馬の才能 のある者を徴発して兵士とした。世襲の職人である。実際には働き場がなく、だんだんとアウトローになってゆく者も出て山賊、海賊ともなる。一方、「兵の道」という武士道精神も作られてくる

  地方の治安の乱れ、国司の荘園侵略→在地領主が武装化で対抗

・地方では山賊や海賊が出没しても国司は守ってくれない。のみならず、開発領主が開い た土地を国司が取りに来る。在地領主は自ら武装して守るしかない。

  土着国司、在庁官人=大武士団 
  開発領主=中小武士団

A 武士団の組織
   家子(同族)、郎等(従者)による武装集団 

家子 は武士の一族で、それ自身が小武士団の長。それぞれに郎等を 持つ。郎等はずっと主君に仕えてゆく。この配下に下人や所従 を持っている
・武士団の郎等は世襲する場合もある。これに対し、受領の郎等はその都度の雇われ部隊。受領が替わればクビ。

   cf)侍、検非違使、追捕使、押領使、滝口の武士(宮中警備)に任じられる

・武芸を持つ者はガードマンとして便利であり、侍、検非違使、追捕使、押領使、滝口の武士など、貴族に雇われてゆく。

Q2 侍の語源は何か?

A2 侍は「さぶらい」が語源。主君の側に仕える者でガードマン、ボディガードである。

・追捕使は令外官で932年が最初。山賊や海賊の逮捕のために設置。初めは臨時で後に 常置。平安末には荘園にも神社にも置いた。
・押領使も令外官で、地方の内乱の鎮定、盗賊逮捕をおこなう。初めは在地土豪を臨時に任命して手兵を使った。純友の乱以後に常置。
・滝口の武士は蔵人所に付属し、宿直して禁中の警備。宇多天皇の時に設置。定員は10名、後に20名。

B 承 平・天慶の乱(939前後)
 1 平将門の乱
 (桓武平氏=平高望上総介赴任で土着)

桓武 天皇の曾孫・高望王は890年に臣籍に入る。上総介として赴任した。上総は守は置かれず、介がトップ。任期が切れても都に帰らないで土着化する。
・子供は中央政権に接近し、鎮守府将軍や関東諸国の受領の地位を獲得。国香は常陸国司、良兼は下総国司である。
平将門は都に出て関白藤原忠平の家人となった。国司として 出世をするためには中央とのパイプが必要。しかし、宮仕えには向かず、下総岩井に戻る。従者(郎 等)を持ち、周辺農民(伴類)と結びつく。伴類は将門配下となることで、国府の支配・収奪から逃れようとした農民。いざというときには、土 地を守るために 将門の指揮で武器を持って戦う部下である。

Q3 将門と叔父たちは対立関係になる。どういう構造か?

A3 将門は、国司の収奪から自らの土地を守る立場であり、叔父たちは収奪をする立場である。将門は平一族の中で浮いた存在となる。

将門は叔父たちと対立するようになり、935年、常陸掾国 香と戦って殺し、936年、良兼の数千の兵と戦って圧倒した。敗走する良兼に退路を開いて逃がす。政府から召還命令を受けるが、「伯父が先に攻めてきた」 と言い、元の主人の忠平の計らいで微罪とされる。
・その後も関東では騒乱が続くが、将門が勝利して名を挙げる。国香の子・平貞盛は左馬允に出世しており、将門追討を目指すようになる。

Q4 国司たちと戦って勝ちを続ける将門は、どのような者に頼られるようになるのか?

A4 関東の郡司たちである。郡司は国司の収奪にさらされていた。このため、国司と対立する将門を頼ったのである。

 平将門が下総で反乱、地方豪族と結合、

・938年、武蔵国足立郡の郡司・武芝が武蔵守の興世王、介の源経基と対立。将門が仲 介をおこなったことで、以後、関東の郡司勢力は将門を頼るよ うになる。
・興世王は任期が切れて土着する。新任国司と対立した。藤原玄明は常陸国司に税を納めずに対立。いずれも将門の下に走る。
・939年、将門は国司勢力を叩くため、常陸国府を攻撃して放火。国衙の印と倉の鍵を奪う。興世王は「一国を討ったので責めを受ける。関東全土を奪おう」 という。

 関東8カ国支配、新皇と称す

・940年、将門は数千の兵で下野国府、上野国府を攻略。遊女に八幡菩薩(応神天皇) がつき、神託を口走る。「八幡菩薩の位を将門に授ける」。将門は喜んで新皇 を称した
・南関東の武蔵、相模は巡検しただけで国印を差し出す。関東8国を手中に収 めた

  →平貞盛、藤原秀郷が鎮圧

・朝廷は関東の変事を知って大狂乱。西では純友が挙兵していて挟み撃ちの恐怖。強力な常備軍がなく、鎮圧不 可能。将門の首級を挙げれば五位を授けるとした。藤原忠文を征東大将軍とする(将門戦死の6日前)。
・現地では、一族の平貞盛が将門打倒を目指して下野国押領使・藤原秀郷を味 方にする。押領使は土豪であるため、土地の者を集めやすい立場。4000人の兵を集める。
・940年2月13日、岩井を攻略する。

Q5 将門側は普段は8000人の兵を集めることができた。しかし、この時は集めるこ とができずに負けてしまう。どうしてか?

A5 旧暦2月は田を耕す農作業期。伴類を帰していたのである。伴類はあくまでも農民であり、農閑期の戦いにのみかり出されている存在。

・将門側は400人しか手勢なし。14日、貞盛軍と合戦。最初は強い追い風にのって将門側優勢。貞盛軍3000は敗走。追撃をやめて本陣に帰る際、風向き が変わり、貞盛軍が逆襲。敵の矢を受けて将門は死ぬ。
・秀郷は下野国守となり、武力を持つ国司として君臨するようになる。

<将門の乱の後日談>
・将門の首は塩漬けにして都へ送られる。天皇に見せたところ、にやっと笑う。その後、三条にさらされるが、毎晩光を発したという。胴体を恋しがって高笑い ととともに東へ飛ぶ。武蔵国の住人が光を発して飛ぶ首をみて、矢で射落とす。その場に首塚が作られる。
・首塚は東京大手町にある。一等地なので移そうとするが、そのたびに工事関係者に怪我が相次ぐ。近くの会社では、首塚に尻を向けて座る位置にいた人の具合 が悪くなる。現在も都心にそのまま。
・江戸では将門は反逆の英雄として神田明神に祭る。三社祭りは江戸で一番の祭り。

 2 藤 原純友の乱
  海賊を率いて瀬戸内で反乱→源経基、小野好古が鎮圧

藤原 純友は伊予国掾となるが、任期が切れても帰京せず。郎等を持って海賊に接近。日振島を拠点に1000の船を操る。
・939年、摂津に進出し、播磨介を拉致。940年、従五位下を授けて懐柔を試みるが失敗。淡路を襲う。追捕使・小野好古は京に攻め上る可能性を指摘する が、向きを変えて讃岐、伊予、周防を攻略する。
小野好古の下に源経基をつけて攻略。純友は筑前に上陸して 大宰府攻略。941年、博多湾の合戦。800艘の海賊船を捕獲して勝利した。純友は逃げるが捕らえられ、獄中で死亡。
経基は出世して大宰少弐になり、清和源氏台頭のもとを作る。 この子が安和の変で摂関家に接近した満仲。
・将門岩が比叡山頂にある。純友とともに京を見下ろし、天下二分を話し合ったという。

 ※中央政府の弱体ぶりを示す


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