<荘園の発展と農民>
[公地制の解体]
(8〜9世紀)
 班田おこなわれず口分田世襲、農民把握困難

Q1 班田がおこなわれないということは、もらった口分田はどうなってゆくのか?

A1 取り上げられないのでそのまま世襲される。

・税をとる必要はあるので、戸籍計帳は作られる。しかし、郡司も仕事がたいへんなの で、以前は直接生まれた子供を確認したりしていたものが、いい加減になり、偽 籍が横行する。
・783年の阿波国田上郷戸籍では、435人中女子は376人。口分田を手放したくないため、死んでも除籍しないこともある。70歳以上が3分の1もい て、いずれも不課口。

A 税 体系と農民の変化
   庸調収入(人頭税)の悪化

Q3 中央財源の庸調が納められなくなることに対し、どのような手を打つ必要があるの か?

A3 農民が把握できないため、国司は人間単位の郷戸に課税することができない。土地はごまかせないので、人頭税から土地税に変わる。


    →田租(土地税)中心の税制へ

国司 は租の率を高めて徴税し、これで庸調の品物を買って中央に送るようになった。事実上、庸、調が土地にかけられることになり、女子も負担する ことになる。

   田 堵(指導層的農民、班田農民を指揮)=田租負担を請け負う

・土地単位に税をかけるとき、誰を負担責任者にするかが問題となる。従来は郷戸だった が、これを把握する戸籍がいい加減になっている。戸主もいなくなっていたりする。
・その地域の有力者は、一族が世襲した口分田を大量に集めて農業経営を していた。田堵と称される。田堵は「田頭」で、現地の意味 だった。

    cf)請負耕地=

・土地は本来は国のものなので、「名」は世襲していても国有地である。毎年春に貸し出して耕させる契約を結ぶことになった。請作といい、没落したような農民を招き寄せて手下として働かせ、秋に収穫の一部を税と して出す。人単位から名単位で課税されるのである。
・院政期の学者・藤原明衡の「新猿楽記」には、田堵の暮らしぶりが記される。その年の気候を予想し、鋤鍬を用意。土地の善し悪しを見て植え付けを考える。 堤防をなおし、ため池などを整備。作人を使って実施する。農業のプロ。 「春に一粒蒔けば秋に万倍」。

   but土地への権利弱い

田堵 が土地を自由に使えるのは契約期間の1年間だけ。私有地のように扱って売ることはできない。

    cf)大名田堵の出現

大規 模に請作をした実力者が大名田堵。11世紀に出現した伊賀国東大寺領には、48町歩の久富名を請作する大名田堵が出ている(近世農家の48 軒分)。

Q4 力のある大名田堵は、毎年契約する不安定な関係をどのような形に変えてゆくだろ うか?

A4 永久に請作できるように求めてゆく。11世紀になると実現する。

・田堵は荘園内にも発生し、土地耕作を請け負って租を負担した。

B 直 営田の開設
   財源の確保→公営田、官田

・口分田からの庸調が入らないため財源がない。租税を確保するために直営荘園を設置することにした。
公営田は823年、大宰少弐小野岑守の建議で設置。大宰府 は租税滞納で事務ができなかった。管内の上田を選んで1万町を公営田とし、6万人を動員して耕作させる。9世紀終わりまで続く。貧民が多かったため、食料 の給付程度で働かせることができた。
官田は位禄や季禄をとるための田で、879年に畿内に 4000町を設定。

    cf)勅旨田=天皇家の荘園

勅旨 田は勅旨によって荒廃地、空閑地を囲い込み、国司が班田農民や浮浪人を使って開墾。土地の経営は国司がおこない、班田農民は単なる労働力。 これで皇族の収入確保。

   but耕作者の反対で失敗

直営 田の増大は農民の生産活動を妨げる。自分の土地が耕せない。こきつかわれるのでだんだんと人が集まらなくなる。

C 公 地制維持の努力=延喜の荘園整理令(902)
   897年以後の勅旨田停止、院宮王臣家の山野独占の禁止→最後の班田収授

902 年の荘園整理令によって、897年以降の勅旨田は停止され、直接経営をやめて農民に請作させた。この時に最後の班田収授をしている。

[寄進地 系荘園の登場](10世紀)
A 有力農民(大名田堵)、地方豪族の開墾=開発領主

・大名田堵などたくさんの家族や手下の農民を持つ者は、余剰労働力を使って開墾するよ うになる。開発した土地の領主なので開発領主という。現地を開いて現地の土地を領する者という点で初期荘園の領主とは異なる。

  but国司、他豪族に侵略される

・国司は多くの税をとりたい。支配地の全ての土地は輸租田が原則なので、課税したり侵略したりしてくる。これを排除する必要が生じる。

Q5 国司の侵略を防ぐにはどうするとよいのか?

A5 その土地が、国司を雇っているものの土地とすれば、国司はクビにされるのを恐れて手出しをしなくなる。

B 開 墾地の寄進 cf)鹿子木の事
   有力貴族・大寺社(領家)に土地寄進、保護受ける

・鹿子木の事=肥後国の荘園。1029年、元は寿妙が開いて子孫が継承してきた。孫の 中原高方の時、1086年、権威を借りるために大宰大弐・藤原実政に寄進し て領家となってもらう。年貢400石を出した。高方は現地支 配者の預所職となる。

   荘 官として現地経営(定額年貢納入)
     cf)公文、下司、荘司、地頭
    but領家が侵略を防げないとき→摂関家、皇族(本家)に寄進

・実政の曾孫・願西は力がなく、国司が侵略してきたため、1139年頃、鳥羽天皇皇 女・高陽院内親王に寄進して本家となってもらった。年貢 400石のうち、200石を出す。

  (職務と収益権(職)が一荘園に重層的に存在)

・一つの荘園の持ち主が何人にもなってくる。当時は土地を所有するということは、実際の地面を持つということでなく、地面から得られる収 入をとるという観念だった。その収入は、土地に対して一定の役割を果たすことで得られるため、収益権のことを職という。

※寄進により、荘園が摂関家の経済的 基盤となる

一番 安全なのは最高権力者の摂関家に寄進すること。「宇治殿の時、一の所の御領がやたらに増え、国司の仕事ができなくなった」(愚管抄)とか 「天下の地、悉く一家の領となり、公領は立錐の地も無き」(小右記)と記される。

[荘園の独立]
  貴族、社寺が地位を利用して達成
 1 経済的独立=不輸の権(租庸調免除)(10C〜)

・庸調が納められなくなってくるため、代わりに土地にかかる3%の租が高率化して負担 がたいへんとなる。
不輸租の権利を獲得できれば儲かる。平安初期から、国家の ために祈祷する寺社には認められていた。権力を使ってこの真似をする。

     cf)獲得手続=立券荘号
    官省符荘=太政官、民部省の許可(9C〜)

不輸 の権獲得のため、官符を太政官に、あるいは省符を民部省に申請。認められると官省符荘となる。

Q6 太政官が許可するということは誰が許可することなのか?

A6 藤原摂関家である。摂関家が名義上の持ち主になっている荘園であれ ば、フリーパスで不輸の権が認められる。これが政治の私物化である。

    国 免荘=国司の許可(11C〜)

・官省符に書かれた以外の新しい土地は、その都度、国司の許可で不輸租とした。そのう ち、官省符がなくても国司の免判だけで不輸租にできるようになった。
・ここでも摂関家が国司に圧力をかけていることは確か。

 2 政 治的独立=不入の権
    検田使(検田、徴税のため国司が派遣)の立入拒否

・不輸の権を持っていても、新しく開いた土地があるはずだとして、国司が検田使を入部させ、検田や徴税をおこなうことがあった。これを不入の権で阻止。

※完全に私的に土地・人民支配

Q7 不輸の権を持つ荘園が増えると国家財政はどうなるのか? 国家としては荘園はあ るべきなのかないべきなのか?

A7 国家財政が圧迫され、禄が入らなくなって破綻する。荘園はなくしたい。

Q8 有力貴族の立場では、荘園はあるべきなのか、ないべきなのか?

A8 国家財政が破綻して禄が支払われなくなってきたため、荘園が貴族の収入源であった。

・院政時代の政治家・藤原伊通「公卿の封戸、俸禄がないため、荘園がないと生きてゆけ ない」と言っている。荘園は公地制を否定するものだから、本来は取り締まる 必要。しかし、これが貴族の財源であるから積極的に整理したくない。ダブルスタンダードなのである。

[荘園公領体制の確立]

・荘園と公領が混在する土地制度を荘園公領制と呼ぶ。

 荘園= 私有地
 公領=国司支配地(国衙領)、郡・郷・保に再編→いずれも 有力農民の請作にゆだねる

・元の里 を郷と改称し、国−郡−郷の体制になった。こ れが解体して、国の下に郡、郷、保が並立するようになる。郡 を支配する郡司が没落したため、郡司支配地の郡を小さくして、その中の郷を郡と並立させた。新しい開墾地を保として、郡・郷と並置した。それぞれ郡司、郷司、保司を置いて徴税を図る。
荘園も公領も班田はおこなわれないため、農民に請作させる。

1 名 主(←田堵)(11C〜)
   永続的耕作権確保(耕地=名田

・11世紀になると、田堵は永続的な耕作権を認められるようになった。土地に対しての権利を 拡大して「名」の主となり、名主と呼ばれる。名は名田と呼ばれた。

   年貢等負担責任者→作人、下人、所従らに耕作させる
    cf)大名主→開発領主へ

・大名主となれば、開発領主として荘園の持ち主にもなってゆく。
    
2 農民の負担
   年貢(租=米)、公事(調=山野河海の収益への税)、夫役(庸=労役)

・1134年、山城の淀あたりに相模窪という荘園の記録がある。藤原実房が「愚昧記」 という日記を書くため、この文書の裏白を利用した。相模窪の在家は26軒。荘園領主に対して26軒が負担していたものの中味がわかる。
・年貢=地子として稲800束、公事=五月に菖蒲・盆にウリとナス・年末に薪、夫役=京都から淀川を利用してどこかにゆくときの輿かき・屋形船のお供。反別2束2把だった地子がかなり高くなり、庸調は軽減されている。


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