<摂関政治の完成>
[後期摂関政治の確立]
A 摂関の常置

・村上天皇には、南家の藤原元方の娘・祐姫が嫁ぎ、広平親王を生んだ。長男なので皇太 子となる可能性はあるが、南家では家柄が劣るため、北家の娘が入内して男の子を産むとまずい。
・北家の側では、師輔が安子を村上天皇に入内させた。安子は懐妊し、元方は生まれるのが皇女であることを願う。
・庚申の日、宮中で徹夜双六がおこなわれ、師輔と元方が出る。師輔は「今度生まれるのが男の子なら六のぞろ目が出るよう」と祈り、ぞろ目を出した。元方は 顔面蒼白になる。
・皇子が生まれ、憲平親王となる。元方と祐姫は落ち込み、間もなく亡くなる。元方の怨霊は、以後、70年間祟る。
・最初に祟りは憲平親王にかかり、狂気となる。顔かたちは美しいが時々おかしくなる。一日中蹴鞠の鞠を蹴り、天井の梁にのせようとする。足を怪我しなが ら、必死の形相。清涼殿の番小屋の屋根に座ったり、大声で歌を歌う。宮中に伝わる名笛を刀で削る。後には道長の屋敷・東三条南院に放火を図り、火事になっ て逃げるとき、「庭火」という神楽歌を歌う。

  冷泉天皇即位(藤原実頼関白)、

・967年、村上天皇が死に憲平親王が冷泉天皇として即位した。18歳だが狂気である。師輔は 960年に死んでおり、実頼が関白となる。外祖父ではないた め、権力はさほどではない。

  次をめぐる対立

・冷泉天皇に子ができる保障がなく、弟から東宮を立てる必要。為平親王か守平親王が候 補。
・為平には源高明が娘を嫁がせた。高明は醍醐天皇の子で7歳で臣籍に下り、右大臣となり、次いで左大臣に出世。皇子ができれば高明が外戚になる可能性が高い。実頼はこれを避けるた め、守平親王を立太子した。

 1 安 和の変(969)
    源高明に謀反の疑い(源満仲の密告)→左遷(他氏排斥の完成)

969 年、高明が冷泉天皇廃位をたくらんだとして、源満仲が謀反の密告
・源氏はどの天皇の子かということで嵯峨源氏、清和源氏、醍醐源氏、村上源氏など9氏族あった。満仲は清和源氏の嫡流。多くの源氏は中央の貴族として仕え るが、清和源氏は武装して上級貴族の番犬となる道をとっていた。 満仲は同じく貴族の番犬となった者を失脚させるため、謀反の密告をした。高 明は巻き添えを食ったのであり、大宰権帥に左遷される。守平のライバルの為平は姿を消す。

    円融天皇即位=実頼摂政(以後、摂関常置)

・安和の変の5カ月後、冷泉天皇が退位し、守平親王が即位して円融天皇となった。11歳なので実頼が摂政。これで他氏排斥は完成 し、以後は北家の中で争うことになる

 2 藤 原氏内部の争い
    摂関の地位をめぐる対立
    兼通・兼家(兄弟)→兼家

・実頼の後は師輔の子・伊尹(これただ)が摂政となる。その弟の兼通(兄)は参議、兼家(弟)は大納言で、弟の方を出世させた。兼通は 不満。
・伊尹が重態となったとき、兼通は村上天皇に嫁いだ姉妹の安子からもらったお墨付きを出す。「摂関は兄弟順で選ぶように」。このため、兼通が弟を超えて関 白になる。兼通は今までの仕返しで弟の昇進をストップさせる。
・977年、兼通が重態となったとき、兼家は兄が死んだら関白にしてもらおうと参内の動き。兼通の家の前を通る。兼通の家来は兼家が来ると報告。兼通は 「さすがに兄弟。見舞いに来るとはしおらしい」と迎えの準備をする。兼家は家の前を通過したため激怒。重態を押して先回りし、「最後の除目をおこなう」と 言って、実頼の子・頼忠を関白にしてしまう。
兼通が死んだので、兼家の天下となる。円融天皇に詮子を入 れ、懐仁親王を生ませる。これが天皇になれば外祖父となって摂政の可能性が出る。
・円融天皇の後は冷泉天皇に嫁いでいた伊尹の娘・懐子の産んだ子が即位して花山天皇となった。兼家はこれを追い落として懐仁親王を即位させたい。
・花山天皇の妻・弘徽殿の女御は妊娠8カ月で死ぬ。天皇は大いに悲しむ。兼家は懐仁を即位させるチャンスと見る。兼家の子の道兼が「女御の菩提のため、出 家するのがよい。お供する」といって宮中から連れ出して出家させる。しかし、道兼は出家の前に親に挨拶をしてくると言って逃げる。花山天皇は19歳で坊主 にされてしまう。
懐仁親王が即位して一条天皇。7歳。外祖父の兼家が念願の摂政となる。

 道長・伊周(おじ・甥)→道長

・兼家には4人の子。長男の道隆が摂政となる。4男の道長は23歳で権中納言。
道隆は伊周、隆家、定子をもうけ、定子を一条天皇の中宮とする。 伊周は21歳で内大臣となり、道長を超える。
・道隆が死ぬと、道長は天皇の母にあたる姉妹の詮子に関白に推薦してもらう。伊周は不満。
・伊周は太政大臣藤原為光の三の宮に思いを寄せて通っていた。ここに花山法皇が四の宮目当てに通うようになる。伊周は三の宮をとられるものと見誤り、隆家 に相談した。隆家の家来が花山法皇の袖を射抜いたことで問題化し、伊周は逮 捕されて大宰権帥に左遷される
・この時、定子はお産で実家に戻っていたが、髪を切って尼になる。21歳。しかし、一条天皇は定子がお気に入りのため、出家したものを宮中に呼び戻した。
道長は一条天皇と定子の間を裂く必要がある。彰子が12歳になるのを待っ て入内させた。髪は背に5〜6寸余り、才色兼備。内裏に出張所を作り、女房40人を揃え、豪華な調度を準備した。
・定子は懐妊して第一皇子・敦康親王を生むが、後見の不足のために立太子されなかった。道長は彰子を中宮にするため、定子を皇后にする。定子は三番目の子 の出産に際して死ぬ。25歳。

Q1 藤原氏にとって、娘は権力獲得の武器である。どうやって育てるのがよいのか?

A1 よい家庭教師をつけて教養を身につけさせるのがよい。

清少 納言は定子お付きの女房、紫式部は彰子お付きの女房である。定子が一条天皇に気に入られたのは、その教養故であったと言える。これに対し、 彰子は教養という点では今ひとつ。性格はおとなしくてよいが、参考書ばかり買い込んで困っているお嬢様タイプで、紫式部には物足りなかった。

 cf) 清少納言(定子)、

清少 納言の 父は清原元輔で歌人、肥後守。離婚後、17歳の中宮定子に仕える。雪が降ったとき、定子が「香炉峰の雪はどうかしら」と聞くと、清少納言は御簾を巻き上げ て雪景色を見せた。白氏文集に「遺愛寺の鐘は枕をそばだてて聴き、香炉峰の雪は簾をかかげて看る」に因んだやりとり。「やっぱり清少納言がいないとね」と 誉められたことを臆面もなく書く。手柄話のオンパレード。「何でも一番に思われたい。二番三番は死んでもいや」という自信家で高慢ちき。紫式部は清少納言 を自慢屋で鼻持ちならないとこき下ろす。「結末はろくな事がない」。
・定子の崩御の後、清少納言は行方不明となる。「古事談」には、清少納言の末路が記されている。没落し、あばら屋に住んでいる前を「清少納言もひどいこと になった」と殿上人が話して通ると、鬼のような尼姿の清少納言が出てきて、「駿馬の骨を買わないの」。燕の国王が賢者を集めたいとして郭隗に相談。「昔、 名馬を求めた国王があり、使いは大金を出して名馬の骨を買ってきた。王が怒ると、死んだ馬の骨でさえ名馬であれば大金を出して買ったことが知れれば、黙っ ていても名馬が集まると言ったという。賢者を集めるにはまず郭隗を厚くもてなしてくれ」。「まず隗よりはじめよ」

 紫式部(彰子)

紫式 部の 父は越前守、越後守などを歴任。30前に40代後半の男と結婚し、3年で夫は死ぬ。この後、「源氏物語」を8年かけて執筆。原稿用紙2000枚の大作。こ の評判で彰子に仕える。その間に「源氏物語」を完成させ、清書して豪華本などを作っている。「紫の上」の人気があがったことで、父の官職の式部丞をとって 通名とした。

・ちなみに平安美人の条件は第一に髪が長いこと。背よりも1尺も長い。顔は白くてツヤ があり、ふっくらと小太りで目尻は下がっているのがよい。眉は抜いて額にぼんやりと描く。お歯黒。清少納言は髪が縮れていたようであり、容貌に自信がな い。初めは小さくなっていたと記される。
・寝殿造りの建物の中は暗い。白い顔でないとどこにいるかわからない。厚く白粉を塗るため、笑うとひびが入る。笑わないようにするため、扇で顔を隠す。
・体育館のような建物を御簾や衝立で仕切っただけなので寒い→重ね着必要。十二単は重い。10圓20圓發△襪里任燭い悗鵝瓮肇ぅ譴呂まるでないとだ め。
・入浴は暦をみて月に4〜5回。悪日に入浴すると即死するとされる。2メートルの髪を洗うのは月に一度。ゴミは櫛でくしけずる。死因の10%は皮膚病。風 邪をひくとニンニクをばりばり食べる。
・源氏物語のラブシーンも、排泄物とニンニクの臭いのする中、抱き合っていても重ね着なので、2人の間は何十僂發慮さの布で隔てられている。色気がな い。

B 藤 原道長の権勢
   4人の娘の入内、3天皇の外祖父として執政 

一条 の後は冷泉の子が即位。三条天皇。母は道長の姉・超子。これに道長の娘・妍子を入内させる。しかし、道長は天皇と馬が合わず、一条の子を早 く即位させたい。
・1014年、内裏が焼失し、彗星が出現。天皇は左目を失明し、片耳も聞こえなくなる。道長は圧力を加えて退位させる。後一条天皇が9歳で即位。引替として、三条の子・敦明親王を皇太子とす る。
・道長は摂政となるが、1年後に頼通に譲る。非外孫の皇太子の世話をする者もなく、敦明親王は皇太子を辞退。後一条の弟が立太子。
・1017年、道長は太政大臣になる。翌年、後一条天皇に威子を入内させる。天皇は11歳。威子は20歳。天皇の 母・彰子の妹なので叔母に当たる。1018年10月16日、皇后にする。

    cf)「小右記」藤原実資

威子 が嫁いだとき、道長は祝宴をはる。実資は「小右記」に一家で3人の后を立てるのは初めてだと記す。道長は和歌を詠むので返歌を詠めと命じ る。「この世をば、我が世とぞ思う望月の、欠けたることもなしと思えば」。 実資はあきれるが、「いたって優美。返歌は無用なので一同で繰り返したい」。
・道長の晩年は哀れであった。来世を考えて法成寺を建立。 1025年、麻疹が流行し、後朱雀天皇に嫁がせた嬉子が19歳で死ぬ。あきらめられず、魂を呼び戻すまじない。葬儀では声も出なかった。1027年、妍子 が34歳で死ぬ。「一緒に連れていってくれ」と悲嘆。この後、道長は下痢が激しく、法事にも座れず。背中に腫れ物ができ、法成寺阿弥陀堂に移る。9体の阿 弥陀仏の前で北枕、西面し、阿弥陀仏から引いた糸を手にとって念仏。12月4日、死ぬ。62歳。

C 藤 原頼通の権勢
   3代50年間(後一条、後朱雀、後冷泉)摂関務める
   荘園の寄進集中
    but外戚政策に失敗→非外孫の後三条天皇即位

・道長のあとを受けた藤原頼通は、親父が残した外戚政策の成果により、3代の天皇の摂関を務める。 しかし、頼通には娘があまりいず、嫁がせても皇子を生まなかった。このため、最終的には非外孫の後三条天皇の即位を招き、藤原氏の勢力を失ってしまう。

[摂関政治の特色]
 1 摂関常置の慣例化

Q2 摂関政治は天皇に代わる代理政治である。摂関家は天皇を立てたのかないがしろに したのか?

A2 摂関は天皇をある程度立てていた。権威の根源であるため、ないがしろにすることはできない。摂関政治は親族関係でおこなった律令政治の一種で、太政 官制に依拠している。


 2 藤原氏による要職独占

・公卿は大臣、大納言、中納言、参議など20人くらい。蔵人頭から参議に出世するのが コース。兼家が強引に子息を公卿に引き上げたことで藤原氏で独占するようになる。1017年、23人の公卿のうち、19人が藤原氏一門。

    摂関家が官吏任免権を握る

・除目は春秋の2回。初めに位官を欲しい者が申文という申請書を出し、理由を示す。蔵 人頭が集約し、内容チェック。申請者はコネを使って根回し。申文を見て公卿 が叙位任官を決めるが、決定は天皇か摂関。
・決定権は摂関が握っているため、摂関家に対しての付け届けが多くなる。

    政所の設置(藤原氏の家政機関、家司が運営)→政所下文の力

政所 は貴族の家政機関。荘園の収入などを管理。家司が勤務。 ここから出る政所下文が力を持ったという説が強かったが、実際には証拠がな いらしい。

 3 政 治の私物化、消極化
    政治=官位昇進のみが目的→地方政治の乱れ cf)朝廷=儀式の場

・政治は年中行事と叙位任官が中心。

 4 経済基盤=寄進される荘園



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