5 貴族の政治と律令国家の解体 <藤原北家の台頭>

 嵯峨天皇のもとで蔵人頭となった[1]以後、彼の一族である[2]が天皇との関係を利用して台頭する。その権力獲得方法は娘を入内させて生 まれた子を即位させ、いわゆる[3]の地位を利用して政治に介入するというものであった。当時は夫が妻のもとに通う(4)や、夫が妻方に同居する(5)と いう婚姻形態がとられ、生まれた子供は母の実家で養育されたため、娘の子にとり母親の父である(6)と、(7)と呼ばれる娘の子の関係は緊密であった。天 皇家では妻は内裏に居住するが、出産は実家でおこない、生まれた子は母方で養育された。また内裏焼亡の際に天皇が妻方に居住する里内裏の習慣があり、やは り母方の祖父の力が強かった。他の貴族が同じ手段で天皇家と結びつくことを阻止するため、陰謀による[8]も欠かせなかった。
 (1)は娘を仁明天皇に嫁がせ、道康親王が生まれていた。(1)の子の[9]は親王の即位を目指し、邪魔になった皇太子[10]に謀反の嫌 疑をかけ、その支持者である[11][12]とともに処分した。これが842年に起きた[13]である。彼は即位した文徳天皇に娘を嫁がせて(14)に出 世し、天皇が亡くなるとその子を9歳で即位させた。幼少で政治のできない[15]天皇に対し、(9)は人臣初の[16]として執政する。866年、朝堂院 正門の放火事件が起きると、大納言[17]は左大臣(18)が犯人であると密告したが、(9)は逆に(17)を処分した。この[19]により、古代以来の 名族大伴氏は政治生命を断たれることになった。
 (9)の養子となった[20]は、対立した陽成天皇を退位させ、即位する可能性のなかった高齢の[21]天皇を立てた。天皇は(20)を成 人天皇に代わって執政する[22]に任じた。(21)天皇の死後、即位した[23]天皇も(20)に(22)を要請したが、その文書をめぐって(20)は 天皇と対立して政務を見ず、最終的には文書を作成した橘広相を処分して天皇が謝罪することになった。この事件を[24]と呼ぶが、(2)の力が天皇をしの ぐものであることを示す出来事となった。
 (20)の死後、(23)天皇は(16,22)を置かない親政を始めた。(20)の子の[25]はまだ若く、天皇は学者の[26]を重用し て(2)を抑えようとした。この親政を(27)と呼び、王臣寺社の土地囲い込みを抑制し、唐の衰退により[28]年には[29]を廃止した。天皇は [30]天皇に譲位し、(25)は左大臣、(26)は右大臣となったが、(25)は(26)が謀反を企んでいると天皇に密告し、901年、(31)に左遷 することに成功した。(32)は(26)の怨念を鎮めるための神社である。
 一方、(30)天皇は親政をおこない、902年には勅旨田を全廃する[33]を発し、最後の(34)を実施した。また、一代おいた[35] 天皇も親政を実施し、最後の皇朝十二銭として[36]を発行している。この時代は、後の世から[37]と称され、天皇親政のもとで善政がおこなわれた時代 として賛美されたが、実際には荘園が拡大し、大規模な地方反乱である[38]が起きている。914年に(39)が出した意見封事には地方政治の混乱が説明 されており、律令体制は地方から崩れていっていた。

<解答>
(1)藤原冬嗣 (2)藤原北家 (3)外戚 (4)妻問婚 (5)招婿婚 (6)外祖父 (7)外孫 (8)他氏排斥 (9)藤原良房 (10)恒貞親 王 (11)橘逸勢 (12)伴健岑 (13)承和の変 (14)太政大臣 (15)清和 (16)摂政 (17)伴善男 (18)源信 (19)応天門の 変 (20)藤原基経 (21)光孝 (22)関白 (23)宇多 (24)阿衡事件 (25)藤原時平 (26)菅原道真 (27)寛平の治 (28) 894 (29)遣唐使 (30)醍醐 (31)大宰府 (32)北野天神社 (33)延喜の荘園整理令 (34)班田収授 (35)村上 (36)乾元 大宝 (37)延喜天暦の治 (38)承平天慶の乱 (39)三善清行


<摂関政治の完成>

 藤原師輔は村上天皇に娘を嫁がせて外孫を生ませ、これを冷泉天皇として即位させた。しかし、天皇は政治をおこなう能力を欠き、師輔の弟[1]が関白を務 めた。皇太子は天皇の弟から立てることとなったが、(1)は左大臣[2]とつながる為平親王を避けて守平親王を立て、さらに(2)が謀反を企んだという密 告を受けてこれを左遷した。[3]年に起きたこの事件が[4]であり、藤原北家の他氏排斥事件の最後となった。密告した[5]は、以後、藤原摂関家と結び つき、中央政界での源氏の台頭に道を開くことになる。事件後、守平親王は即位して(6)天皇となり(1)が摂政となった。この時から、本来は臨時の役職で あった摂関は常置となる。
 他氏排斥が一段落すると、今度は藤原北家内部で氏長者の地位をめぐって争いが起きた。(1)の後は師輔の子の伊尹が摂政となるが、その後をめぐって (7)と(8)の兄弟2人が対立した。(7)が重篤の際にも2人が争った話は「(9)」に記されているが、最終的には(8)が氏長者となる。(8)は (6)天皇に娘を嫁がせて懐仁親王を得ていたが、策略をめぐらせて花山天皇を退位させ、7歳の親王を(10)天皇として即位させて念願の摂政となった。
 彼の後は長男の道隆が摂政となり、その娘の(11)が(10)天皇の中宮となる。このため、道隆の子の(12)が氏長者を継承する公算が高まった。しか し、道隆が亡くなると(8)の四男の[13]が天皇の母との関係を利用して台頭する。花山法皇をめぐる事件で(13)は(12)を失脚させ、娘の(14) を(10)天皇の中宮に入れて外孫を得ようと画策する。(10)天皇に愛されていた(11)は皇后となったが亡くなってしまい、(13)の権勢が確立する こととなった。ちなみに、藤原氏が外戚政策を成功させるためには娘が天皇に気に入られることが重要であり、知性あふれる女性として育てる必要があった。 (11)についた女房が(15)、(14)についたのが(16)であり、彼女たちを取り巻く宮廷世界がこの時代の王朝文化の中心であった。
 (13)は(17)(10)(18)(19)天皇に娘を嫁がせ、3人の天皇の外祖父として執政をした。摂関政治の全盛期は彼の時代であり、3人目の入内 の際の様子は[20]の日記「(21)」に記されている。「この世をば我が世とぞ思う」というそのとき詠まれた歌には、その得意の様がうかがわれる。彼が 多くの娘を入内させたお蔭で、ついで氏長者となった[22]は(18)(19)(23)天皇の3代にわたって摂関を務めることになった。この時代には摂関 家に荘園の寄進が集中することになる。しかし、(22)は娘に恵まれず、天皇に嫁がせても皇子をもうけることができなかった。このため、非外孫の(24) 天皇が即位すると摂関家は力を失うことになる。
 摂政関白は官吏の任免権を握っていたため、藤原氏一族で要職を独占することになった。また、藤原氏は多くの荘園を持っていたから、その管理のために家政 機関を置く必要があった。これが(25)である。ここに勤務していた役人を(26)といい、(27)と呼ばれる文書を発行している。摂関政治の時期、朝廷 は儀式の場となり、政治は年中行事と叙位任官が中心となっていた。そして寄進される荘園が摂関政治の経済基盤となっていた。

<解答>
(1)藤原実頼 (2)源高明 (3)969 (4)安和の変 (5)源満仲 (6)円融 (7)藤原兼通 (8)藤原兼家 (9)大鏡 (10)一条  (11)定子 (12)藤原伊周 (13)藤原道長 (14)彰子 (15)清少納言 (16)紫式部 (17)三条 (18)後一条 (19)後朱雀  (20)藤原実資 (21)小右記 (22)藤原頼通 (23)後冷泉 (24)後三条 (25)政所 (26)家司 (27)政所下文


<荘園の発展と農民>

 8世紀から9世紀にかけての地方政治の混乱で戸籍計帳は作成されなくなり、班田収授の実行や庸調という人頭税を課すことが不可能となった。このため、国 司は土地に対する租を高率化し、それで庸調の品を調えて中央に送るようになる。このとき、税の負担責任者とされたのが指導層的な農民である[1]であり、 班田農民を指揮して公地の耕作を請負った。この請負地を[2]と呼ぶが、契約は毎年更新で土地に対しての権利は弱かった。多くの土地を請負った者は[3] と呼ばれるようになる。
 一方、財源確保のため政府は自ら荘園を経営した。大宰府が開いた(4)、貴族の禄をとるために畿内に置かれた(5)がその例で、天皇家は(6)を開いて いる。しかし、これらは周辺農民の賃租に委ねたもので、負担の増した耕作者の反対で維持できなくなる。902年の[7]では897年以後の(6)を停止 し、荘園開設のため院宮王臣家が山野を独占することを禁じ、公地制維持のための最後の努力をしている。
 10世紀になると(3)や地方豪族が原野を開き、自らその荘園を所有する[8]となっていった。彼らは国司の侵略や高率の税を課されたため、国司の上司 である中央の貴族にその荘園を寄進し、名目上の持ち主となってもらうことで介入を排除しようとした。このような荘園を[9]、寄進を受けた者を[10]と 呼ぶ。(8)は現地の管理者である[11]に任じられ、定額の年貢を(10)に納める代わりに収益の大半を手に入れた。(11)は(12〜15)のように も呼ばれる。(10)が国司の介入を防げない時は、(10)はさらに権力を持つ摂関家や皇族に荘園を寄進し、(8)からの年貢の一部を納めて国司を抑えて もらおうとした。ここで寄進を受けた者が[16]である。当時の土地に対しての権利は所有権ではなく、職務とセットになった収益権であり、これを[17] と呼ぶが、(9)では(17)が重層的に存在することになった。
 荘園は課税対象であり、土地税の高率化でその負担は大きかった。このため、寄進を受けた貴族や寺社は、その地位を利用して税免除の権利である[18]を 獲得するようになる。この手続きを(19)といい、太政官や民部省がそれを許可した。こうした荘園を(20)と呼ぶ。11世紀になると、国司に税免除を認 めさせる(21)も現れてくる。また、国司は新たな開墾地に課税するため、荘園に(22)を派遣してくるが、この立入りを拒否する[23]を獲得する荘園 も出現し、完全な私有地になってゆく。 日本の土地は私有地である荘園と、公地として国司が支配する[24]の二本立てとなった。荘園の場合でも、その耕 作は(1)に委ねられ、両者は構造的にはよく似ている。国司の配下にはもともと郡司が置かれ、その下に里を治める里長がいた。やがて里は(25)と称さ れ、郡司の力が失われると郡から独立し、里長は(26)として郷の支配をおこなった。また、新たな開墾地は(27)と呼ばれ、(28)が支配した。
 やがて(1)は土地に対しての権利を強め、永続的な耕作権を勝ち取って[29]と呼ばれるようになり、その土地は[30]と称された。(29)は一般農 民の[31]や隷属的身分の(32,33)に土地の耕作を委ね、年貢を集めて国司や(10)に納めた。なお、農民の負担にはもとの調に由来して山野河海の 産物に対する[34]、庸に由来して労役である[35]もあったが、中心は租に由来して米を納める年貢であった。

<解答>
(1)田堵 (2)名 (3)大名田堵 (4)公営田 (5)官田 (6)勅旨田 (7)延喜の荘園整理令 (8)開発領主 (9)寄進地系荘園  (10)領家 (11)荘官 (12~15)公文、下司、荘司、地頭 (16)本家 (17)職 (18)不輸の権 (19)立券荘号 (20)官省符荘  (21)国免荘 (22)検田使 (23)不入の権 (24)国衙領 (25)郷 (26)郷司 (27)保 (28)保司 (29)名主 (30)名 田 (31)作人 (32,33)下人、所従 (34)公事 (35)夫役


<地方政治の混乱と動乱>

 地方で実務に携わる国司のことを[1]と呼ぶ。平安中期には政治に前向きでなく、政府稲を貸し出して高利を稼ぎ、武装した従者を率いて悪辣な徴税をおこ なう者が現れた。その中の一人、尾張国司となった[2]は「[3]」によってその悪政が訴えられている。また『今昔物語』には東山道の山中で崖下に転落 し、キノコを手にして救出された(4)の話が載せられ、その強欲ぶりは「(1)は倒るるところに土をつかめ」の言葉で示されている。彼らの中には在職中に 地方で権力を拡大し、任期が切れた後も都に戻らず、そのまま土着して地方豪族として勢力を張る者も多かった。
 一方、儲かる国司職は利権視され、売位売官がおこなわれた。寺社造営などの功績で官職を獲得することを[5]と呼び、それによって国司任期を延長させる ことを[6]という。また、地方生活を嫌い、任命されても現地に赴任せず、代理を派遣する[7]も横行した。この場合、現地には[8]という代理人が赴任 し、現地の豪族を用いて執政した。正規の国司のいない国衙を(9)と呼び、現地で雇用された役人を(10)と呼んだ。いずれにしても国衙領は国家財政をま かなう場ではなく、国司が儲ける場となったのであり、この意味では私有地と変わりがなくなった。
 武士はもともと武芸で主人に仕える職能者である。徴税執行のために国司の従者たちが武装し、山賊や海賊も横行するようになると、開発領主層も土地を守る ために武装していった。彼らは(11)という同族で結集し、従者である(12)を率いていた。彼らは貴族の護衛をする(13)、京都の警備をする (14)、山賊や海賊を逮捕する(15)、地方の内乱を鎮定する(16)、宮中警備をする(17)などにも用いられた。このような武士の登場の中、10世 紀半ばに起きた東国と瀬戸内の乱が[18]である。
 天皇の子で臣籍降下した者は新たに姓を与えられることになる。そのうち、武士の家柄として有名になるのが[19]と[20]である。(19)は桓武天皇 の曾孫にあたる(21)が(22)として赴任し、そのまま土着したことで東国に勢力を張った。土着した(19)の中には開発領主となって農民に請作させる 者や、関東各地の国司に任じられる者もあった。[23]は(24)国の石井を本拠とし、周辺の有力農民を(25)と呼ばれる従者として従えていた。 (25)は普段は農業に従事し、ことあるときは武装して戦う者である。開発領主と国司は徴税をめぐって対立する関係にあり、(23)も国司を務める叔父た ちと戦ったが、やがては開発領主層のリーダーとして、武蔵国足立郡司の武芝や、土着国司の興世王など国司の侵略に悩む人々から頼られる存在となっていっ た。939年、(23)は国司の勢力を叩くため、常陸国府を襲撃し、その後、関東8ヵ国を襲って自ら(26)と名乗った。中央政府はその鎮圧に手をこまね き、結局は一族の(27)、下野国押領使の(28)によって鎮圧される。
 一方、伊予国掾から土着した[29]は日振島を拠点に海賊を率いて反乱を起こし、瀬戸内から大宰府一帯を荒らしている。こちらも最終的には(20)の (30)と(31)によって抑えられたが、これらの反乱の鎮圧には地方武士の力が必要だったのであり、それは中央政府の弱体化を物語るものであった。

<解答>
(1)受領 (2)藤原元命 (3)尾張国郡司百姓等解文 (4)藤原陳忠 (5)成功 (6)重任 (7)遥任 (8)目代 (9)留守所 (10)在 庁官人 (11)家子 (12)郎等(郎党) (13)侍 (14)検非違使 (15)追捕使 (16)押領使 (17)滝口の武士 (18)承平天慶の乱  (19)桓武平氏 (20)清和源氏 (21)平高望 (22)上総介 (23)平将門 (24)下総 (25)伴類 (26)新皇 (27)平貞盛 (28)藤原秀郷 (29)藤原純友 (30)源経基 (31)小野好古

戻 る

Copyright(C)2007 Makoto Hattori All Rights Reserved