5 貴族の政治と律令国家の解体
<藤原北家の台頭>
[前期摂関政治の確立]
 藤原冬嗣蔵人頭就任で天皇家に接近
 →権力獲得方法=外戚の地位利用(娘の入内、外孫の即 位)、

Q1 外戚になるとどうしてよいのか? 祖父は2人いるはずだが、母方の祖父の力はど うして強いのか?

A1 招婿婚のためである。

  cf)妻問婚や招婿婚のため、母方の祖父の力が強い

貴族 の婚姻は妻問婚→招婿婚→嫁入婚へと変化している(高群逸枝「招婿婚の研究」)。
妻問婚は男が女のところに通い、一生同居しないもの。子供 は母親の元で育つ。この時、女は別の男も受け入れるので多夫多妻になる。大化以前のものだが、平安中期まではおこなわれていた。

<妻問 婚>
・この例として藤原兼家の場合が挙げられる。兼家は道長の父 親。6人の妻がいたが本妻や妾の区別はない。そのうち一人が「蜻蛉日記」の作者である右大将道綱の母。美人の家系で和歌の名手。18歳の時、26歳の兼家か ら恋歌をもらう。当時は恋愛は和歌の贈答で開始。女の方では家族で相談して返事をするかどうか決める。最初は断りの歌を返し、繰り返して恋歌が来れば乗り 気になる。
・兼家はまだ出世前でぱっとしなかったが、秋に結ばれた。兼家は夜通ってきて、翌朝、後朝の文を交わす。3日通った後、三日の餅の式を女の家でおこない、 正式な結婚となる。この後、女の家に住んでもよいし、通い続けでもよい。兼家ははじめは通ってきていたが、女に子ができた頃から来なくなる。道綱の母がふ てくされ、久しぶりに来て戸を叩いた時に開けなかった。そうするとよその女のところに行ってしまう。「嘆きつつ一人ぬる夜のあくるまは、いかにひさしきも のとかは知る」。
子は母の元で成長し、父からの援助はない。父親の顔など知 らないということもあるが、氏は父親の氏になる。男のところに引き取られる 女性は実家に経済力がない場合に限られていた。通ってこなくなれば離婚となる。この間に、別の男が通ってくることもあるので多夫多妻制だっ た。
・知多半島先端の篠島では現在も妻問婚の伝統がある。夕食は自分の家で食べ、夜は奥さんのところに泊まりに行く。朝食は奥さんのところで食べて仕事に出 る。洗濯物は自分の家で洗う。稼いだお金も自分の家に入れ、奥さんのところには払わない。子供が生まれても一緒で、夜だけ通い続ける。父の親が亡くなる頃 になると父親の家を相続し、ここに引き移る。子供にとっては父よりも母方の外祖父の力が強い。

<招婿 婚>
・妻問婚に対し、大化頃から招婿婚が始まっていた。通ってきた男が妻の家に 移り住むもの。子供はここで育つが、やはり男親の氏を名乗る。他の女のところに通うことは認められるので一夫多妻制になる。家は女の側が 作ったり、相続させる。女の親が婿の世話を全てするため、舅と婿の関係は強 化される。婿を離婚しても外孫は残る。これが南北朝期まで続く。

Q2 このわかりやすい事例は何か? 

A2 磯野家のふぐ田マスオさん。

・招婿婚の例は藤原道長の場合である。道長は父・兼家がいる東三条邸で育つ。源雅信の 娘と結婚し、土御門邸に移り住んだ。頼通はここで育つ。兼家が死んでも道長は東三条邸には戻らない。屋敷は女子が相続。この家は兼家の娘・詮子が相続して 一条天皇を生んだりしている。

<天皇家の結婚生活>
・相手が天皇の場合、女の所に通わせることはできないため、自宅の出張所として宮中に局を作る。妊娠すれば自宅に下げて出産させ、子供はここで養育する。いつも一緒にいる男の人は母 方の祖父になるため、その子に対しての影響力は大きい
・実際には、天皇は奥さんの家に住むことも多かった。960〜1068年まで20回内裏が炎上している。その都度、再建されるまでは外戚のところで住んで いた。里内裏という。

Q3 外戚政策をとるメリットは大きい。藤原氏としては、何に気をつけなくてはならな いか?

A3 同じことを他の貴族がやると困る。

  他氏排斥

娘を 入内させるような貴族については、陰謀をめぐらせて徹底的に排斥し、没落させている。

A 藤 原良房の権勢(冬嗣の子)

・最初にこの2つの方法で権勢を獲得したのが藤原良房
・嵯峨天皇は、兄の平城天皇を叩いた罪滅ぼしとして、自分の子供ではなく弟を皇太子にする。嵯峨天皇は14年間の在位で飽き、弟に譲位。淳和天皇となる。 以後、嵯峨上皇は30年間を悠々自適の生活。
・淳和天皇は兄の嵯峨天皇に気を使い、嵯峨天皇の子を皇太子とする。10年の在位で譲位し、仁明天皇が即位した。ここで2上皇1天皇体制となっている。
・今度は仁明天皇が淳和天皇に気を使い、その子の恒貞親王を皇太子と した。譲り合いの体質であるが、これが成り立つのは大御所の嵯峨上皇が頑張っているため。恒貞親王には伴健岑、橘逸勢が仕えている
・藤原良房は仁明の皇太子時代に仕え、即位後は蔵人頭になっていた。仁明には姉妹の順子(冬嗣の娘)が嫁いでおり、道康親王が生まれている。良房としては 道康に即位して欲しい。
・840年、淳和上皇が死去。842年、嵯峨上皇が重態となる。嵯峨上皇が死ぬと恒貞親王の後ろ盾がなくなる。伴健岑、橘逸勢は慌てるが、上皇は7月に死 ぬ。

 1 承 和の変(842)
  皇太子・恒貞親王に謀反のぬれぎぬ(良房の密告)
   →橘逸勢、伴健岑とともに処分
  甥の立太子

・これとほぼ同時に伴健岑、橘逸勢は謀反の疑いで逮捕される。中納言・良房が事件をでっち あげたもので、2人は流刑。
恒貞も関わったとして廃太子となる。8月には仁明の子の道 康親王が皇太子となる。

 2 良房の出世

・良房は右大臣となり、緒嗣の死によって藤原氏の代表者となる。

  文徳天皇即位→太政大臣

・850年、仁明天皇は41歳で病没し、道康が即位して文徳天皇になった。皇太子を立てる必要がある。
・文徳天皇は皇太子時代、紀名虎の娘を妻とし、惟喬親王をもうけていた。これに対し、良房は娘・明子を道康に嫁がせて対抗し、第四皇子を生ませることに成 功していた。文徳天皇は7歳の第一皇子・惟喬を推薦したが、良房は、同居している生後9カ月の惟仁親王を推薦して押し切った。天皇は自分を即位させた義父 に気を使わざるを得ない。
・857年、良房は太政大臣となる。生前に就任した臣下は仲 麻呂と道鏡だけ。

  外 孫・清和天皇即位(9歳)→外祖父として人臣初の摂政(政務 代行)

・858年、文徳天皇が32歳で急死する。皇太子だった惟仁はまだ9歳だったが即位して清和天皇となる。大化以来19代の天皇 で10歳以下は例がない。太政大臣として良房が政権を掌握し、事実上の摂政と なった(後に正式となる)。
・清和天皇に対しても外戚政策を進める必要がある。良房は明子以外に娘はいなかったので、兄・長良の娘・高子を嫁がせた。高子は惟仁より9歳年上で、在原 業平の妻であったものを引き裂いて一緒にする。
・良房は権力争いには手腕を発揮するが、政治には無関心。班田も828年以降実施していない。このため、戸籍計帳も国司が少なくつけて租税を横領するのが 当たり前となる。
・良房は子供には恵まれなかった。男の子がいないので、長良の子の基経を養 子にとる

 3 応 天門の変(866)

・866年春、大内裏内の朝堂院の正門である応天門が炎上する事件があった。すぐに大納言伴善男は、失火は左大臣源信の仕業であると右大臣藤原良相(よしみ)に訴えた。 良相は参議・藤原基経に逮捕するように命令するが、基経は養父の良房に相談する。伴善男は源信と仲が悪く、陥れようとしていると判断。良房は嵯峨源氏に恩 を売るため、不問とした。

   伴善男と源信の政治的確執→善男に放火のぬれぎぬ、処分

・5カ月後、今度は伴善男がその子と共謀して放火したという密告がされる。善男の家来の子 供が喧嘩をし、こてんぱんにやられる。この喧嘩に親が出ていって相手を叩きのめしたところ、向こうの親が出て来て口論となる。「大納言は放火犯。訴えて出 たらお前もただでは済まない」。これが町の噂になった。良房は善男を尋問。容疑を否定するが、そのまま伊豆に配流した。これで古代以来の名門伴氏を没落させる
清和天皇は良房に「天下の政を摂行」させ、正式に摂政とした。

B 藤 原基経の権勢(良房の養子)
 1 基経の出世

・872年、惟喬親王が出家し、小野に隠棲してしまう。天皇の座を横取りした清和天皇 は気に病む。大極殿炎上もあり、876年に27歳で譲位した。高子の生んだ貞明親王が9歳で即位して陽成天皇となる。基経に摂政を求める。

  陽成天皇廃帝→光孝天皇即位

・陽成天皇は882年に元服すると基経と対立するようになった。気性が激しく、禁中で 馬を飼って基経に咎められる。内裏で天皇の乳母の子が殺される事件があり、犯人は天皇という噂が立つ。基経は政務をボイコットしたため、884年、陽成は 譲位してしまう。
・基経は、娘を陽成天皇に嫁がせていたが、次の天皇にはあえて娘が生んだ親王ではなく、仁明の子(従兄弟)を立てた。光孝天皇55歳であり、老成の好人 物。
光孝天皇は基経に感謝し、太政大臣の基経に政治を委ねる詔を出した。 次は基経の外孫が皇太子に立てられることを予想し、他の皇子には源氏の姓を与えて臣籍に落とす気の使いよう。

   =親政おこなわず、基経を関白(成人天皇の政務代行)(884)

 2 阿衡事件(887)
  光孝の死、宇多天皇即位→関白要請を拒否、天皇謝罪

・887年、光孝天皇は重態となる。基経は外戚関係がなく、臣籍降下していた第七皇子 を戻して即位させることにした。宇多天皇で21歳。
宇多天皇は基経に気を使い、橘広相に「みな太政大臣に関白し、しかる後に 奏下」という詔を書かせる。基経は慣例にしたがってとりあえず辞退した。天皇は広相に依頼して重ねて依頼。「よろしく阿衡の助けをもって任 とすべし」。「阿衡」の意味の分からない基経は藤原佐世(すけよ)に相談した。佐世は広相を学者としてライバル視していたので嫌がらせを考えた。「阿衡」 は関白の別名だが、「位は上だが仕事はないもの」と説明される。
基経も外戚でない天皇の出鼻をくじきたかった。仕事をしないことにし、国 政が半年間停滞した。天皇は言葉遣いが悪かったことを認めて屈服する。天皇は屈辱感を胸に刻む。

※藤原北家の力が天皇を上回る

[天皇親政の復活]
A 宇多天皇の政治
 基経の死で摂関停止→菅原道真の登用

・890年、基経は死去。長子・時平は21歳で、まだ参議ではなかった。時平の姉妹の温 子は宇多天皇に嫁いでいたが皇子は生まれていない。24歳で年上の天皇の 親政が可能になる。摂関を停止した
・藤原摂関家への対抗方法は3つ。第1に21歳の時平を参議とし、一方で源氏を参議に引き入れて対抗勢力とした。第2に基経系の女子の腹ではなく、傍流の 藤原高藤の娘の産んだ子(後の醍醐天皇)を皇太子とし、時平をけん制。第3に国司経験者の菅原道真を参議とした。太政官メンバーは藤原7人、源氏6人、菅原1 人。
・道真は三代続く儒官の家。文章博士、讃岐守。宇多と道真は学問好きという点で意気投合。道真の娘は宇多天皇の子供と結婚した。

 (寛平の治)

・中央の中下層貴族は危機感を持っていた。国家財政が窮乏し、官人への給付が減ってい る。受領になれば実入りがよいが、荘園の拡大で打撃を受けていた。律令制の再建を願う。
・問民苦使を派遣。王臣寺社が土地囲い込みをおこなうことを制限し、受領の権限を認める。

  cf)遣唐使廃止(894) ∵唐の衰退

・894年、道真は遣唐大使を任命される。当時、新羅は政治が乱れ、海賊が九州沿岸に 出没していたため、唐との通交で抑えようとした。道真は得るものがないとして遣 唐使を廃止

B 醍醐天皇の政治(延喜の治)

・宇多天皇は政治に飽きて自由に王朝的享楽を味わいたかった。897年、31歳で譲位 し、まだ13歳の醍醐天皇が即位する。時平と道真が内覧として政治をみることになった。 時平29歳で左大臣、道真55歳で右大臣。

  cf)藤原時平の陰謀→道真大宰府左遷(901)

・901年、上皇が出家すると、時平は道真追い出しを企てた。「道真が法王と結び、道 真の娘が嫁いだ皇弟を即位させようとしている」と讒言。天皇は道真を大宰権 帥に左遷した。法王は天皇に会いに来るが衛士によって阻止される。
・遣唐使廃止もあり、大宰府は完全に衰退していた。「去年の今夜清涼に侍す。恩賜の御衣今ここにあり。奉持して毎日余香を拝す」。道真は大宰府で半年後に 死ぬ。
・時平は醍醐天皇に妹・穏子を嫁がせ、第二皇子を生むと立太子する。
・この後、道真は祟るようになる。人が恨みを残して死ぬと御霊となって祟ると考えられていた。908年、密告をした藤原菅根に落雷。909年、時平が39 歳で病死。910年から疫病流行。923年、時平の後押しを受けていた皇太子が死去。その息子を3歳で立太子するが、925年に5歳で死ぬ。930年、清 涼殿に落雷、大納言らが雷死。天皇はショックで病気となって死ぬ。

Q4 祟りを防ぐにはどうするのか?

A4 神として祀るしかない。北野天神に祭られる。

Q5 天神は、今はどのような神か?

A5 学問の神である。もとは雷神であり、道真が学者であったことから学問の神となった。

 律令制の再建
  ex)延喜の荘園整理令→班田収授実行(902)、三代格式完成


・それでも、醍醐天皇は律令制再建に努力したとされる。902年の延喜の荘園整理令では、院宮王臣家の厨全廃。醍醐天皇即位以後の勅旨田全廃。院宮王臣 家の山野囲い込み禁止を実施している
・一方では最後の班田収授を実行し、三代格式の最後になる「延喜格式」を作 成している。
・914年、文章博士・三善清行が、「三善清行意見封事」を醍醐天皇に提出。 令制が始まった頃は善政がおこなわれていたが、奈良〜平安の造寺造仏で国家財政破綻したと説いている。備中の邇磨郷は、660年に優れた兵2万人を出した ことから郷名がついた。それが760年には成年男子は1900人、9世紀後半には70人、893年には9人、911年には0になっているという。土地が荒廃したり、偽籍がおこなわれたりしているのである。対応策とし て、中央政府の改革、経費節減、水害・干害対策、口分田班給方式の改革などが必要と訴える。

C 村 上天皇の政治(天暦の治)

・村上天皇も摂関を置かずに親政をおこなう。

  乾元大宝(最後の皇朝十二銭)
※後世から賛美 but実際は律令制解体=荘園の拡大、承 平・天慶の乱(939)

延 喜・天暦の治は後世から理想の時代と賛美された。後醍醐天皇は、醍醐天皇にあやかり、生きているときに贈り名を決めている。実際には、この 時代の政策には全てに「最後の」の形容詞がつく。荘園拡大、地方での反乱が生じており、この後、律令制は完全に解体してゆく。
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