<律令制下の文化>
<特色>


・文化史で大切なのは政治史とは別の時代区分がされていること。区分するということは 文化様式が異なるということなので、その時代と特色を最初に頭に叩き込む必要がある。

【飛鳥文化】
・推古朝7世紀前半の文化
・中国・南北朝、ギリシア・ローマの影響。それは忍冬唐草文や法隆寺回廊の柱に見られるエンタシス様式にうかがわれる。遠くギリシャ・ローマの模様や様式 が、シルクロード経由で中国に及び、それが日本に入ってきているのである。

【白鳳文化】
・天武・持統朝7世紀後半の文化
・唐が建国され、日本はその国を手本とすべく遣唐使を送っている。だから中国初唐の影響が濃い。建国間もない時期なので清新な文化様式である。

【天平文化】
・聖武朝8世紀、奈良時代の文化
・中国盛唐の影響下にある。もっとも充実していると言ってよい。

【弘仁・貞観文化】
・嵯峨朝9世紀前半、平安時代前期の文化
・中国晩唐の影響を受ける。中国ナイズはここに極まる。

<宗教史>
・飛鳥〜弘仁・貞観の文化は、いずれも仏教を中心に据えている。仏教は、もともとが個 人の信仰から出発したが、寺院が権威の象徴となったため、奈良時代になると国家がこれを保護育成することで政権の権威を示すものになる。

【飛鳥文化】
  皇族・大豪族の寺院建立(個人の寺)
  (古墳に代わる権威の象徴)

・仏教について教義を理解している者は少なかったとされる。寺は緑赤白の極彩色で塗ら れており、古墳に代わる権威の象徴だった。

     ex)飛鳥寺、

最古 の寺は飛鳥寺とも呼ばれる法興寺(元興寺)である。蘇我馬子が 588年から609年にかけて造営。718年に平城京に移転した。飛鳥の地には安居院が残り、止利仏師の釈迦如来座像がある。1956年からの発掘で、塔を中心に東 西北に仏像を安置する金堂があったことが判明。

      四天王寺、

・541年、聖徳太子が別地に建てたのがもとといい、593年に現在地に移転。塔の背 後に金堂がある。

      法隆寺

・607年に完成したものという。
・法隆寺は「日本書紀」には606年の条に登場しているが、670年に焼失したとも書かれている。このため、現存のものは再建という説が出てくる。これに 対し、建築様式が古いので、書紀の記述が誤っていてもとのものが残っているという説があった。
・1939年、若草伽藍の発掘。これで再建は確かめられる。 四天王寺と同じ伽藍配置だった。現在の法隆寺も様式が古いので、建立が670年以降ということはないとの説が強い。
・法隆寺の古い様式はエンタシス(ギリシア文化の影響)、雲形肘木・卍崩し高欄・人字形割束(中国六朝様式)に見られる。
・五重塔の一番上は初重の半分の幅。上にゆくにつれて柱の長さを短くしているので安定感は抜群。

  cf)三経義疏=法華経、維摩経、勝鬘経(聖徳太子撰、経典注釈)

・聖徳太子は仏教の教義を理解していたという。「三経義疏」の撰をしているのがその根拠とされる。

【白鳳文化】

 国による仏教保護始まる
  ex)官立大寺院建設=薬師寺(東塔現存)

薬師 寺は後の持統天皇の病気平癒を願って、680年に天武天皇が藤原京に建てる。698年完成。この時には持統は文武に譲位している。平城遷都 で移転する。この時に仏像は持っていったが、建物は新築したという。塔が二つある薬師寺式伽藍配置。
東塔は730年のもの。一見すると六重塔で、裳階がついて いる。水煙にはフェノロサが「凍れる音楽」といった飛天の透かし彫り。

Q1 伽藍配置の変遷は何を意味するか?

A1 塔が周囲に追いやられている。

Q2 塔とはどういう役目のものか? もとはストゥーパで卒塔婆と呼ばれる。今はどこ に建てているのか?

A2 墓所である。釈迦の真骨を納める場所で、インドでは最も重要な建物だった。しかし、仏舎利はたくさんない。代わりに水晶玉などを入れていた。本物で はないので、だんだんと周囲に追いやられてゆく。釈迦の遺骨が重要=日泰寺。

・初期の寺院は大陸の様式を受け継ぐ。塔を中心に門と講堂が並ぶ中国南北朝時代に形成され、四天王寺、創建時の法隆寺など多い。飛鳥寺 は1塔3金堂で類例が少ない。
白鳳時代には左右対称を破って塔と金堂を並べる。左右対称 としたものが薬師寺の2塔形式になる。
奈良時代には伽藍の中心が金堂になる。塔は門の外に置かれ る。東大寺の七重塔は回廊の外。高さ100m。
平安初期は山地伽藍なので配列が適当になる。

【天平文化】

 鎮護国家のための仏教保護(国家仏 教)

・仏教の力で国の安泰を祈ろうとする考えが登場したのが奈良時代。そのための教典とし て金光明最勝王経を読む。聖武天皇は自ら「三宝(仏法僧)の 奴」と称していた。

 国分 寺・東大寺の建立(三月堂・転害門現存)

・東大寺の中心部は焼き討ちなどで焼失したが、周囲の建物が残る。三月堂は3月に法華 会をおこなうところ。法華堂が正式名である。13世紀増築の礼堂がついている。転害門も当時のままに残っている。

 南都 六宗=仏教研究の6学派(三論、成実、倶舎、法相、律、華厳)

・南都六宗は経典の学問研究所である。当時の寺院は信仰の場というよりも学問の場だっ た。

 戒律の伝来=唐僧鑑真による

・僧になるためには戒律を守ることを先輩の高僧が約束させることが必要で、これを授戒 という。授戒がないと正式な僧とは言えなかった。ところが、日本には授戒のできる僧がいなかったため、中国から授戒僧を招くこととした。
・733年、唐に渡った栄叡、普照が授戒師として鑑真に来日を招請する。鑑真は「仏法のためである」として日本行きを快諾するが、唐では高僧の流出が禁止 されていた。そのため、密航することにした。743年の渡航の企ては失敗、748年には海に出たが漂流して海南島に漂着し、鑑真は失明してしまう。6度目 にしてやっと成功する。753年に来日した鑑真は東大寺に戒壇を設けて授戒をおこない、759年に唐招提寺を建てる。「唐大和上東征伝」がその経緯を記し ている。

  →唐招提寺建立(金堂・講堂現存)

・金堂と講堂。講堂は平城宮の朝集殿を移築し、後にはかなり改築されている。

  cf)社会事業・民間布教開始=行基、悲田院・施薬院
  but 仏教の政治介入生じて混乱(道鏡)

・仏教は国家によって管理されていたため、民間への布教や社会事業は禁じられていた。 これをおこなった行基は弾圧され、小僧と呼ばれて蔑まれたが、圧倒的な民衆の支持を受けていたため、東大寺大仏造立の際には政府から迎えられて大僧正とな り、寄付集めに奔走している。
・極端な仏教保護は、道鏡のような政治を左右する僧を生み出したため、一定の反省がされるようになっていった。

【弘仁・貞観文化】

 南都仏教(都市仏教)の抑圧
  →新宗派(山林仏教)の保護(政教分離)

・道鏡の政界進出などで政教分離が問題となる。そのため、都市から離れて山中で修行を する宗派に保護が加えられた。

Q3 山中に寺が建てられると、都市の寺とは構造が異なってくる。唐招提寺金堂と室生 寺金堂を比較して、どこが違うか。

A3 室生寺金堂のように、山中に建てられた寺では瓦を用いずに檜皮葺きになる。重い瓦を麓から持ち上げることはできない。山中の資源を有効に使うことを 考える。平面を見つけては建物を建てるため、伽藍配置もまちまちとなる。

 天台 宗(法華経の信仰)
  最澄=比叡山延暦寺

最澄は 12歳で出家し、17歳で得度。804年に入唐。天台法華の法門をくぐり、禅や密教も学んで翌年帰国。法華経は万人平等思想であり、これが一番重要な経典だとした。清少納言 は、「いつも一番じゃないと嫌」と言っていたため、「法華経のような人ね」と言われている。法相宗の徳一と争論し、一切の人間は成仏できるとした。
延暦寺は平安京の鬼門にあたり、王城鎮護の寺とされた。東 大寺にしかなかった戒壇を比叡山に作りたいと申し出る。南都の反対のため、死後になって実現する。

Q4 大乗戒壇を延暦寺に置いた意義は何か?

A4 独自に後継者を養成できることである。これにより、延暦寺は日本の仏教のメッカとなる。鎌倉新仏教の開祖は、一遍以外はここで学んでいる。

 真言宗(密教=加持祈祷で現世利 益)

空海 が学んできたのは密教だった。これはチベットあたりで完成された仏教の一派である。
顕教は経典によって学び、修行して悟りを得る。哲学的。密教は呪術を重視。大日如来が世界の中心であり、真言を唱えて印を結ぶ と仏と一体の心境になる。これが即身成仏。神秘的な宗教的体験が重視される。
加持祈祷と呼ばれる呪術が発達し、これで現世利益が得られるとした。

  空海=高野山金剛峰寺、京都東寺 (東密)

・空海は官人を目指して讃岐の国学から大学に進む。暗記ができずに困った時、修行僧か ら救聞持法で虚空蔵菩薩の真言を一日2万回×50日唱えるとよいと聞く。「ノウボウ、アキャシャギャラバヤ、オンマリキヤ、マリボリソワカ」。満願の時に 頭がすっとしたという。
・804年に最澄と同時に入唐。恵果から潅頂を受け、密教用 具を集める。長期留学生だったが、唐には学ぶものがもう何もないとして、806年帰国。嵯峨天皇から京都での布教拠点として教王護国寺(東寺)をもらう。
・最澄は空海から潅頂を受けて弟子になった。弟子の泰範を空海に預け、密教を学ばせようとするが、泰範は最澄のもとを去って空海に付く。「理趣釈経」を借 りようとしたところ、空海に断られて絶交。書物重視の最澄と修行重視の空海の路線の違いだった。空海から最澄への手紙が「風信帖」として国宝になる。

  cf)天台宗の密教化(台密)

・勉強すれば悟りが開けるというのに対し、密教の方がマジカルな分だけ人気が出る。天 台宗にも密教のしきたりが入り込んでいった。

    円 仁=山門派(延暦寺)

・15歳で最澄の弟子になる。838年に入唐。戻ってからは延暦寺の3代目座主にな る。著しく密教化を進めた。「入唐求法巡礼行記」を記す。

    円 珍=寺門派(三井寺)

・853年に入唐。帰ってから5代目の座主になる。別院として三井寺を建てる。993 年に山門と寺門は喧嘩別れして争うようになる。

  cf)神道との習合(神仏習合

・在来の神道と仏教の関係はどういうものなのかを説明するため、神仏習合説が登場し、両方とも同じということになる。
・八幡神は豊前の宇佐氏の氏神だったが、銅を産するところから銅の神とされる。これが中央に進出してきた。

Q5 銅の神が中央に進出する絶好の機会は何か?

A5 大仏鋳造である。東大寺鎮守として手向山八幡宮ができる。また、薬師寺の鎮守として休丘八幡が建てられる。いずれも寺に神社を建てたのであるから神 仏習合ということになる。

     =神宮寺・鎮守社建設、僧形神像)

・朝廷は八幡神に大菩薩の号を贈ったため、八幡は僧形の神となる。

    修験道へ

・密教は人里離れたところでの修行を優先するため、在来の山岳信仰に密教がミックスされる。ここから生まれたのが修験道であり、密教の山岳での修行と修験道は区別が付かなくなる。
・天台宗の僧になるためには延暦寺に入る。ここで肉や魚を断って1年間修行。
・千日回峰は1000日間、一日50キロほど山中を駆け回る。比叡山では京都大回り。大峰山では吉野の蔵王堂から大峰山上ヶ嶽まで。午前1時に起きて滝に 打たれる。夜中の2時半に出て3時半まで走りっぱなしで帰ってくる。7時に寝る。台風でもやめられない。
・四無行は9日間飲まない。食べない。横にならない。眠らない。行の前に親族と「生き葬式」。不動明王と蔵王権現の真言を10万回唱える。隣の部屋には侍 者がいて寝そうだとたたき起こす。5日目からはうがいが許される。水の入ったドンブリの水を含んで同じ大きさのドンブリに吐く。唾液の分だけ増える。5日 目からは声も出ない。皮膚の色が黒ずんで死臭が漂う。明治以降14人がやった。
・山伏は修行によって超能力を確保し、まじないによって現世利益の欲求に応えていった。病気を治したりする。
・奥三河では今もホウエンさんという修験者がいる。田峰玉峰院の嶋さんは墓移しなどで活躍している。

<美術史>
【飛鳥文化】
(仏像の種類)

・仏像として表されるものにはパターンがある。本来は釈迦=仏の姿を表現したもの。
・釈迦はインドの王子で、妻も持ち、子供もできて幸せに暮らす。「四門出遊」はどうして仏教を開いたのかのエピソード。東に老人、南に病人、西に葬式、北 に出家。生老病死の苦しみから逃れるにはどうしたらよいか。苦行をするがわからない。これをやめてスジャータから乳粥をもらって飲む。菩提樹の木の下で瞑 想して悟る。結論はこだわらないこと。受け入れることだった。

Q6 如来と菩薩の違いは何か?

A6 如来は悟ったあとの釈迦がモデル。羅髪、水掻き、頭部 の盛り上がり。悟りを開いたので質素な衣装。菩薩は修行中の 釈迦がモデル。娑婆っ気があるのでアクセサリーをつけている。

・仏は釈迦だけではない。釈迦は経典の中で様々な仏の話をしたので、それらも仏像とし て彫られた。
天部はインドの神。仏教の守り神。明王は密教の仏。厳しい修行をするので慈悲の姿よりも憤怒形がよい。

(仏像の素材)
仏像彫刻(古拙)
 北魏様式=釈迦三尊像、救世観音像(鞍作鳥)(法隆寺)

・技術者は百済あたりから来るので、一昔前の中国の様式を持ってくる。
法隆寺釈迦三尊像は、623年に聖徳太子の冥福を祈って鞍作鳥(止利)が作ったものといい、聖徳太子の等身大。止利様式で正面 観照の仏である。横から見ると平べったい。アルカイックスマイル。北魏石窟寺院の仏像と類似。
救世観音像は聖徳太子に似せたという。夢殿の秘仏。布で巻 かれていたため保存よい。フェノロサが公開させた時、秘仏を見ると落雷があるとして寺僧は逃げてしまった。

 南梁 様式=百済観音像(法隆寺)、半跏思惟像(中宮寺・広陵寺)

広隆 寺の半跏思惟像ものは松材。朝鮮伝来と伝える。韓国には同様の像が多い。国宝第一号。抱きついた学生によって指が折られる。人間をどう救う かを思惟している形という。

工芸 天寿国繍帳、玉虫厨子(密陀絵)

天寿 国繍帳は聖徳太子の死後、妃が作らせた。太子の行った天寿国の様子。100個の亀の甲を描き、4字ずつ銘文。当時の服装がわかる。
玉虫厨子は透かし彫り下に2563匹の玉虫の羽根を入れ る。
密陀絵は密陀僧による油絵。近年は漆絵とされる。「捨身飼 虎」=釈迦が前世で7匹の子虎を連れた親虎に会う。崖から身を投じて食わせる。

【白鳳文化】
仏像彫刻(金銅像中心) 薬師三尊像、聖観音像(薬師寺)、仏頭(興福寺)

薬師 三尊像は679〜728年の間に作られている。リアルでバランスがよく、ロダンの彫刻に比べられる。止利様式からは格段の進歩。
興福寺仏頭は1937年、興福寺東金堂本尊台座下から発見 された。山田寺講堂の薬師三尊の本尊。蘇我石川麻呂の氏寺で、石川麻呂の供養のために685年に作られる。その後、興福寺が1180年の南都焼き討ちで焼 失。再興するとき、山田寺の本尊を奪ってきた。1411年、落雷で焼失し、本尊台座下に納めてそのままになっていた。

絵画 法隆寺金堂壁画(アジャンタ壁画と類似)、高松塚古墳壁画

法隆 寺金堂壁画は東=薬師、西=阿弥陀、北=弥勒、南=釈迦の四浄土を描いたもの。西が最高傑作とされ、アジャンタ、敦煌石窟の流れを汲むもの だった。戦災にも会わなかったが、昭和24年1月24日、模写作業中、電気座布団の漏電で焼失。文化財保護デーとなる。
高松塚古墳壁画は7世紀後半〜8世紀初めの古墳。1972 年の発掘で四神と星座、人物像が出る。南側は盗掘されていて壊れていた。高句麗人物像と共通。

【天平 文化】
仏像彫刻(塑像、乾漆像の発達)

・天平時代になるとたくさんの寺院を建て、仏像を作る必要から、従来からの金銅像、木 像の他に様々な造仏技法が揃うことになった。
金銅仏=型の中に流し込む。本尊向き。
木像=本来は檀材という南方の香木を使う。日本では楠や 桧。一木造→心材を使う。手足は別材。
塑像=芯に粘土をくっつけて彩色を施す。重いので火事の時 は持ち出せない。脇侍用。
乾漆像=粘土で作って麻布を巻き、漆で固めて彩色。あとか ら粘土を抜く。火事の時には担ぎ出せるので、比較的よく残っている。

 不空羂索観音像、日光・月光菩薩像、執金剛神像(東大寺三月堂)

東大寺三月 堂の不空羂索観音像は360cmの大型像。綱を投げて人を救う。乾漆像で、宝冠は2万個以上の宝石で出きる。
執金剛神像は三月堂北側の厨子に入っている。秘仏だったた め、彩色がよく残る。

 四天王像(東大寺戒壇院)

・東=持国天、南=増長天、西=広目天、北=多聞天。国土安全を任とし、四天王護国寺 にも祀られたはず。戒壇を守るもの。

 鑑真和上像(唐招提寺)

・唐招提寺の鑑真和上像は乾漆像。死んですぐに作られたもの。「若葉して、おん目の 雫ぬぐわばや」。ルーブルからモナリザが来た代わりに要求されたもの。

 阿修羅像(興福寺)

興福 寺阿修羅像は八部衆の一人。もともとは異教の神だったが、仏の眷属になって仏教を守るとしたもの。

絵画 吉祥天像、鳥毛立女屏風

・薬師寺の吉祥天画像は正月の吉祥悔過会の本尊。女帝出現が女性仏像を盛んにした という。
・正倉院御物の鳥毛立女屏風は鳥毛で衣装を表していた。中国 製か国内製かでもめていたが、下張りに天平勝宝の文字を発見。

工芸 正倉院御物(聖武天皇遺品)

・正倉院は33×9メートルの巨大建物。床下は2mの高さ。中は屋根裏を合わせて3階 建て。三角材を組み上げる校倉造りで、これは湿度調節の効果があるとされたきた。
・御物は光明子が聖武天皇の遺愛の品を入れたもの。大仏開眼式に使ったものが多い。勅封倉。天皇の許可がないと開けられなかったため、中のものが残る。
・多いのは薬種。漢方薬でありその後も取り出された。香料も多く、「蘭奢待」は名香として、信長や秀吉が切り出す。
・螺鈿紫檀五弦琵琶=タイマイを張って螺鈿でラクダ上の人を描く。

【弘 仁・貞観文化】
仏像彫刻(一木造、翻波式

・山中に寺を立てたため、金銅像は少なくなり、木像が増える。翻波式は切り口を立てて衣紋を表したもの。

 釈迦如来像(室生寺、金堂・五重塔現存)

室生 寺は竜穴があるとされ、桓武天皇の病気平癒を祈願。興福寺の僧が竜穴神の神宮寺として創建する。

 如意輪観音像(観心寺)
 薬師如来像(神護寺)

絵画 両界曼陀羅(=密教の宇宙、
神護寺)、黄不動(三井寺)

曼荼 羅は密教の説く宇宙を示したもの。金剛界=大日如来の知徳によって仏の世界を表す。胎蔵界=大日如来の慈悲によって仏の世界を表す。

書道(唐風) 三筆=空海「風信帖」、橘逸勢、嵯峨天皇

<渡来文化>
紙・墨・絵の具=曇徴(高句麗)による

曇徴は 高句麗王の命で来日したという。

暦=勧勒(百済)による

勧勒は 602年に来日。604年から太陰太陽暦を正式に採用した。辛酉紀元節に基づいて日本紀元を定めたのもこの時とされる。

<文学・教育史>
【天平文化】
 漢詩=「懐風藻」 大津皇子→淡海三船、石上宅嗣(芸亭=最古の図書館)

「懐 風藻」は751年成立。淡海三船、石上宅嗣らの編さんといわれる。全120首。

 和歌=「万葉集」 柿本人麻呂、額田王
    →山上憶良、山部赤人、大伴旅人 大伴家持(万葉仮名、東歌、防人歌)

「万 葉集」は20巻。大伴家持が現在の形にまとめたと言われる。仁徳天皇から759年まで4500首。4期に分ける。壬申の乱から奈良遷都まで の第2期がもっとも充実していると言われる。天皇から農民、乞食、兵士の歌までを含んだ国民歌謡。

 教育=大学(中央)、国学(地方)(官吏養成機関)

【弘仁・貞観文化】
 漢詩 勅撰=「凌雲集」「文華秀麗集」「経国集」 空海= 「性霊集」

・もっとも中国かぶれの時期。勅撰は「凌雲集」か最初で、782年から814年頃の作 品91首。「文華秀麗集」は嵯峨天皇の勅で藤原冬嗣らが編さん。818年頃成立。「経国集」は178人の作者の詩文が入り、平安初期漢文学の全盛を示して いる。

 教育 大学別曹(貴族の学寮)、弘文院(和気氏)、勧学院(藤原氏)、学館院(橘 氏)、奨学院(在原氏)

・寄宿施設で学費の支給もした。

 cf)綜 芸種智院(空海の庶民教育機関)

・大学、国学に身分的に入れなかった者のために開く。空海死後、売却される。

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