<平安遷都と律令国家の再建>
[桓武天皇の政治]

・光仁天皇の子として即位した桓武天皇は、平城京からの遷都を考えた。

Q1 桓武天皇は、せっかくの奈良の都をどうして移そうとしたのか?

A1 理由は寺院勢力との絶縁、天皇権威の高揚のためなどと言われている。

 政治刷新の継続→人心一新、政教分離のための遷都

・しかし、実際には別の理由も取りざたされている。
・光仁天皇は天智系から出た天皇という負い目があった。皇后は聖武の娘の井上内親王だったため、皇太子には井上の子の他戸(おさべ)皇子を立てる。
・藤原百川は山部皇子(桓武)を見込んでいた。光仁天皇に井上内親王が天皇を呪い殺そうとしていると密告。天皇は怒って井上と他戸皇子を捕らえて幽閉し た。2人は3年後に同時に死ぬ。
・百川の思惑通り、37歳で山部皇子が立太子し、781年に即位したのが桓武天皇である。桓武天皇は、本来は即位するはずだった他戸皇子と井上内親王の怨霊に悩むことになる。
・この時期は怨霊を恐れる考えが強かった。怨霊は恨みを残して死んだ土地にとどまって祟るため、そこから逃げる必要がある。

 cf)長 岡京遷都(784)

・最初は、水陸交通の要地として長岡京が候補だった。宇治、木津、桂川が合流するところで、京都・大阪 間の隘路でもある。藤原種継(式家、百川の甥)が推挙し、母方の血族・秦氏の協力を得て建都しようということになった。
・784年6月に建設に着手し、完成前ではあるが11月に遷都している。

 but造都長官・藤原種継暗殺で中止

・785年9月、種継が暗殺される。夜10時、2本の矢で射殺された。犯人は逮捕された が、藤原氏抑圧を目指す大伴一族の仕業との説が出て、その黒幕は大伴家持だと言われる。長岡京遷都で藤原氏が力を発揮すれば、ますます権力を身につける。
・家持は万葉集の編者とされるが、大伴氏の代表者として、政争に巻き込まれていた。しかし、東北任地で事件前に死亡しており、貴族からの除名処分を受けて いる。
・桓武天皇は光仁天皇の希望により、弟の早良皇子を皇太子に立てていた。しかし、家持が東宮太夫として早良に仕えていたため、早良皇太子(桓武弟)も事件 に関わったとして逮捕されることとなる。早良は無実を主張して絶食し、10日後に死んだ。天皇は遺体を淡路に配流し、新しい皇太子には皇子の安殿親王を 12歳で立てた。桓武の策謀であったと言える。
・しかし、桓武は早良の怨霊にも悩むことになる。皇后が死 に、安殿親王が病となり、疫病が流行した。怨霊は怨念を残して死んだ土地にとどまるため、天皇は長岡京からの脱出を希望した。

A 平 安京遷都(794)
 和気清麻呂の建議、長安をモデル→1080年間の王城の完成

・794年、和気清麻呂の建議で長岡京の北東に遷都することになる。これが平安京であるが、鴨川を東に動かすつけ替え工事が必要となった。南北 5.3辧東西4.6劼世、右京の南は低湿で、人家はあまりなく、王都としては問題が多かった。
・「平安京」のネーミングは怨霊から逃れたいためで、桓武にとっての平安京だった。

B 律 令制の再編

・怨霊におびえる桓武天皇は、一方では崩れてきた律令体制の再建に乗り出している。

Q2 律令体制という中央集権体制が崩れるとすれば、中央と地方のどちらから崩れてゆ くのか? 誰が崩しているのか?

A2 目が届かない地方であり、国司が中央の統制を離れて勝手なことをするようになるのである。

 1 国 司の不正防止

・当時の国 司は、出挙で稼いだり正倉の米を横流しするなどの悪事もおこなって私腹を肥やしていた。調・庸はよいものは手元に残して売却し、その代わり に粗悪なものを求めて中央に送ることも横行する。赴任すると雑徭や兵役で農民を召集して開墾をおこない、任期中に墾田所有者になる者も多かった。
・国司には任期があるため、交代の時にそれまでの悪事がばれてしまう。交代に際しては、新任者は前任者から正倉の会計報告を求め、よければ解由状を渡して 前任者の任を解くのだが、不正が多いため、なかなか解由状が渡らずに国司の交代がされなかった。

  勘 解由使設置=解由状(国司引継書類)の授受監督

・桓武天皇は、国司交替期間を120日以内とし、この間に解由状がもらえない者は国司 としての禄を停止することにした。しかし、賄賂を渡して解由状をもらう場合もあり、797年以前に、交替業務の監督のために勘解由使を設置している。
・799年には、仕事をしないで農業経営ばかりする者が多いという声を受け、国司の不法に対する陳情を受けるために問民苦使を派遣。

Q3 律令制の動揺の根本的原因は何だったか?

A3 農民の負担加重であった。

 2 農 民の負担減

Q4 軽減すべき農民の負担は何か? 国司に悪い者が現れてきていることから考えよ。

A4 国司が農民に課している負担を軽減する。中央政府には打撃にはならない。

  雑 徭の半減(30日)、軍団兵士制廃止

雑徭 は795年に半減
・兵士も軍団の名目で国司にこき使われていた。戦いとなっても貧窮農民では役に立たな い。792年、軍団兵士制を廃止。防人もなし。

   →班田励行(12年1班で確実化)

・口分田には上田と下田がある。貴族や国司、郡司はよいものを農民から取り上げて独占 していた→防止のためには班田必要。桓武の時代24年間に3回の土地調査と2回の班田。国司層は消極的だったため、全面的に分割ができなかった。
・造籍→校田→班田を3年間でおこなうサイクル。だんだん遅れてゆく。782年には造籍3年後に校田がされ、794年には、班田と造籍が同じ年になってし まう。このままでは追い抜かれてしまうことになる。801年、班田は12年 1班とした。

     cf)勅旨田の拡大

・王臣家、寺社は浮浪者を招いて開墾。荒廃した口分田を再開墾して荘園とする。桓武は 先手を打って荒廃地や未開墾地を押さえて勅旨田とする。天皇家の荘園であ る。

 3 兵 士の質の向上
  健児の制=郡司子弟の志願兵制度

・国別に人員を定める。30〜200人。

C 蝦 夷の攻略

・蝦夷には田夷として農耕をおこなうようになる者、山夷として狩猟・漁労をする者がい た。
・朝廷は浮浪人を集めて開拓に当たらせる。田夷を公民に編入することを目指し、服属しない者は俘囚として分散させる方策をとった。

   蝦夷の多賀城攻撃(780)

・奈良朝中期から蝦夷に対しての攻略実施。多賀城の北に桃生城、伊治城を作る。伊治郡 の酋長・伊治呰(あざ)麻呂は朝廷に味方し、蝦夷攻略に手を貸して郡司となる。
・780年、陸奥鎮守府副将軍紀広純は3000人の兵で伊治城北方の蝦夷攻略に向かう。呰麻呂は裏切って広純を殺害し、朝廷の根拠地・多賀城に入って鎮守府軍の武器兵粮を奪い、城を焼く。この状況に光仁天 皇は動揺し、譲位をしている。多賀城北方の蝦夷を討つ必要が出てくる。

    →3次にわたる出兵で鎮圧

・第一次出兵=788年2月、多治比宇美を鎮守府将軍として攻略計画。兵力は以前に蝦 夷攻略に軍功のあった板東の土豪、農民、郡司の子弟や浮浪して兵にできる者。5万3000人。789年3月には多賀城に集結し、紀古佐美を征東大使とす る。「板東の安危この一挙にあり」。蝦夷の本拠地・胆沢(水沢市)を目指して進軍した。胆沢は「賊奴の奥区」と言われ、盆地で水田開発をし、中央支配から 完全に独立していた。
・衣川に陣を敷き、北上川を渡る。蝦夷軍・阿弖流為(あてるい)の伏せ勢が現れて川岸に押し返される。戦死、溺死1000人以上を出して敗退した。
・第二次出兵=大伴弟麻呂を征東大使に任命し、3年かがりで10万の兵を集める。794年、攻略。蝦夷の村75を焼くが胆沢は落ちない。

   坂上田村麻呂征夷大将軍

坂上 田村麻呂は796年、陸奥守兼鎮守府将軍となって東北攻略に向けられる。39歳、渡来人・東漢系の出身で、壬申の乱以来、武芸で仕える家柄 だった。身長176僉胸の厚さ36僉「鷹のような目、黄金の糸を束ねたようなあごひげ」「にっこり笑えば赤子もなつき、はったと睨めば猛獣も倒れ る」。
・797年、初めて征夷大将軍となって全権を委任される。 801年、節刀を授けられて攻撃。阿弖流為は500人の仲間を率いて降伏し た。命は取らない約束で平安京に連れ帰る。田村麻呂は「故郷に帰して賊類を招こう」と助命するが、朝廷は斬首を命じた。

   =胆 沢城築造、鎮守府移す(802)、志波城築造

・802年、胆沢城を築いて4000人の浮浪人を入れて入植。一辺670mの正方 形。幅3mの築地で囲む。政庁があり、城というよりも地域支配の行政施設。803年にはその北に志波城を作る。
・田村麻呂は死後、王城守護のために武装して棺に納められ、将軍塚に東を向いて埋葬。国難の時は墓の中で鼓を叩いて知らせる。

 軍 事と造作=公民疲弊→藤原緒嗣の建議で中止

・804年、天皇は衰弱。12月、藤原緒嗣と菅野真道に「天下の徳政」を論じさせる。緒嗣「方今天下苦し むところは軍事と造作なり」。真道は反対したが、天皇は第四次蝦夷征討と平 安京造営を中止。806年死去。70歳。

  cf)文室綿麻呂の出兵(811)=東北攻略の完成

・桓武朝では蝦夷攻略計画を中断したが、嵯峨天皇の時代、811年に岩手県北部〜青森 県南部に侵攻している。北上流域を完全に押さえる。

[嵯峨天皇の政治]
 平城天皇即位

・806年、安殿皇子が即位して平城天皇になった。33歳。皇太子は弟の賀美能親王。初めはやる気で、 観察使を派遣して諸国の状況を把握。
平城は皇太子の時、式家・藤原縄主(ただぬし)の娘を妻にしていた。この 時、母親の薬子がついてきて、平城に近づいて関係を結ぶようになった。薬子は種継の娘である。
・薬子は平城よりも7歳は年上。平城は15歳で母を亡くしていたために惹かれた。桓武は怒って薬子を退けたが、平城が天皇になると関係が元に戻り、薬子は 尚侍(ないしのかみ=天皇に仕えて伝奏をおこなう女官)となる。人妻との関係を続けたため、平城は皇后も夫人も持てなかった。
薬子の兄の仲成は、妹と平城の関係を利用して参議に出世し た。

 →嵯峨天皇への譲位

・809年、平城は早良親王の怨霊によって病気となり、弟に譲位を考える。薬子と仲成 は反対するが強行し、嵯峨天皇が即位した。平城上皇は平城京に転居した。

 cf)薬 子の変(810)=藤原薬子、仲成による平城重祚、平城還都計画

・薬子と仲成は巻き返しを図り、平城に平城京への還都を命じさせようと考えた。薬子に のめり込んでいた天皇は、寝室であることないことを吹き込まれる。

  藤 原冬嗣を蔵人頭に任じ、機密保持→上皇方を鎮圧

・詔勅などの天皇の機密文書の管理は、従来は尚侍の仕事だった。嵯峨天皇はこの役割を 薬子から取り上げ、代わりに蔵人所を設置し、蔵人頭に腹心の藤原冬嗣を任命 して天皇の文書管理をさせた。これで天皇側近が女官から男官に替わった。
・嵯峨天皇は先手を打ち、仲成を逮捕して射殺。薬子は平城を誘って挙兵し、東国に脱出しようとしたが失敗。上皇は出家。薬子は毒を飲んで死ぬ。

A 令外官の設置(律令官職を補足する官)
   cf)勘解由使、征夷大将軍
 1 蔵 人頭=宮中の機密保持、天皇の秘書(蔵人所)
 2 検 非違使=京都の警察・訴訟・裁判

検非 違使は810年、薬子の変を機に衛門府内に設置された。京内外の巡検と盗賊の逮捕が仕事。824年、独立機関とし、837年には水害飢饉の 手当もさせる。839年からは弾正台の仕事もさせ、京内外の警察権を掌握し た。今までは京職、弾正台などが役割分担をしていて、仕事のなすりつけ合いをしていた部分が検非違使に集約された。

B 法制の整備
 (律 令の補足修正)、(律令の施行細則)が多数出る→集大成必 要

・例えば、三世一身の法は養老七年の格である。

 1 三 代格式の編集=弘仁・貞観・延喜格式

・バラバラに出ていたものをまとめる。830年、格10巻、式40巻を出す。「弘仁 格」「弘仁式」。

 2 令の注釈書作成
 「令義解」(官撰)、「令集解」(私撰)

・「養老令」が基本法典。法家の解釈が異なるため、淳和の時代に統一を図った。清原夏 野により、833年完成の「令義解」10巻。これで「養老 令」の中身が伝わっている。
「令集解」は惟宗直本により貞観期に成立。30巻。


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