<奈良朝の政争>
[藤原氏の政界進出]

  藤原氏=中臣鎌足の子孫、天皇側近として隆盛
 1 藤原不比等(鎌足の子)の政治

不比 等は鎌足の次男。「等しく比べるあたわず」という才能を持った人物。律令編さんでは持統〜元明天皇のブレイン。右大臣に出世し、娘・宮子を 文武天皇の夫人とし、首皇子(聖武)を生ませた。聖武天皇は不比等の甥に当たる。
・当時は天皇の配偶者は正妻の妃が2人で、これは皇女から出すことになっていた。あとは夫人が3人おかれ、これは貴族の娘でもよかった。その他、身分の低 い奥さんが4人いた。

    律令制定、平城遷都→藤原氏の基盤作る

 2 藤 原四兄弟と長屋王の対立(不比等死後)

・720年、不比等は62歳で病死。あとは長男武智麻呂(41歳、病気がち)、次男房前(40歳、兄より先に参議)、三男宇合(27歳、元気で遣唐副使や蝦夷征討将軍)、四男麻呂(26歳)が受け継ぐ。
・不比等の右大臣の地位は、721年、天武天皇の孫・長屋王が継承する。武智麻呂や房前は、長屋王の部下になった。
・724年、聖武天皇が即位長屋王は左大臣に出世した。太政大臣は常置ではないので最高官職とな る。
聖武天皇夫人には不比等の娘・光明子が16歳で入ってい る。727年、基皇太子が生まれたが、1歳前に死ぬ。その間、聖武のもう一人の夫人、県犬養広刀自に安積皇子が生まれた。こっちが皇太子となる可能性が出 てきて、藤原四子としてはピンチとなる。側近第一位の座をとられるかも知れない。

Q1 安積皇子を皇太子とせず、次に光明子が産むかも知れない子供を皇太子にするには どうすればよいか?

A1 光明子を皇后(第一夫人)にすればよい。これを立后という。しかし、皇后は天皇に即位する可能性があるため、臣下で皇后は前例がないと長屋王が反対 する。

  四兄弟=聖武 天皇への光明子(不比等の娘)立后→藤原氏外孫の即位計画
  長屋王=人臣皇后に反対、藤原氏抑制
   →長屋王の変(729)

・729年、皇子が死んだのは長屋王の呪いという密告が天皇にされた。天皇は長屋王逮 捕を命じ、衛門府、衛士府の兵を率いて宇合、武智麻呂が長屋王邸を包囲した。長屋王は首を吊って死ぬことになる。

 ※藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)の権勢確立 but病死

・729年8月、天平に改元し、光明子を皇后とする。
・光明子は仏教に深く帰依し、法華寺を建立した。ここにはライ病患者のためにアカ風呂が作られたといい、皇后が自ら背中を流したという伝説がある。患者の 一人が膿をなめてくれれば治ると言いだした。光明子がなめてやると患者は仏に変わったという。
・仏教が好きな女性であるが、気は強かった。聖武天皇の筆跡は弱々しいが、光明子は黒々とした太い筆跡。
・長屋王自殺後、武智麻呂は大納言となり、他の3人も参議となった。
・737年、天然痘が筑紫から流行り始め、都に蔓延した。4月17日、房前が死去。7月12日には、麻呂が死に、7月24日には武智麻呂が死んだ。残る宇 合は8月5日に死ぬ。こうして四兄弟は全員病死する。
・政権を再建する必要があり、橘諸兄を大納言とすることにし た。諸兄の母は、光明子と同じ県犬養橘三千代。最初は美奴王に嫁ぎ、ここで諸兄を産んだ。葛城王と呼ばれていたが臣籍降下して橘氏となった。この後、不比 等に嫁ぎ、光明子を産んだ。女性で夫を二人持つのは珍しい。
・光明子は、頼みの兄弟たちを天然痘で失ったため、この異父兄に頼った。

[皇親政治と仏教]
 1 橘諸兄の政治
  左大臣となり玄◆ボウ、吉備真備(帰国留学生)を登用

玄ボ ウは717年に入唐して5000巻の経論を持ち帰って名声を得ていた。吉備真備は玄ボウとともに入唐して帰国したもの。吉備地方の豪族の出。 最後は右大臣にまで出世している。入唐経験により、身分が低いところから台頭している成り上がり者。

  but藤原広嗣(宇合の子)の乱(740)

・広嗣は宇合の子。初めは大和守だが、大宰府次官に左遷。吉備真備と玄ボウを恨む。

   藤原氏の家運回復ねらう→政界動揺

・740年8月29日、広嗣が九州で挙兵。当時、天災地変が起きていて、政治に問題があるため だとして玄ボウと吉備真備を除こうとする。9月3日、聖武天皇は大野東人に1万7千の兵を預けて西下させる。9月22日、関門海峡を渡り、10月9日、板 櫃の戦い。隼人の兵に対し、「官軍に抵抗すれば妻子も罰せられる」と呼びかけたところ帰順が相次ぐ。広嗣は五島列島に逃げて捕まって斬殺。

    cf)聖武天皇の遷都(恭仁京→難波宮→紫香楽宮→平城京)

・天皇は乱の後の10月29日、東国に行幸。12月に木津に行き、そこが気に入る。 741年、遷都を命令恭仁京という。
・木津川沿いの小盆地のため、東西南北に2劼箸襪隼海砲屬弔り、真ん中には木津川が流れてしまう。都としてはおよそふさわしくない。5500人の役夫を 使い、平城京から建物を移させる。国分寺建立の詔はここで出 る。しかし、都は742年になっても完成しない。
・742年8月、紫香楽に離宮造営を命令し、頻繁に行幸する ようになる。大仏造立の詔はここで出る。
・744年1月、今度は海が見たいと言いだして難波宮に行き、遷都を宣言す る。天皇印などを移すが、2月になるとまたまた紫香楽宮に行っている。745年には紫香楽宮への遷都を宣言する。しかし反対が多く、山火事が頻発したた め、745年5月、平城京に戻る

Q2 どうして天皇は各地を転々としているのか?

A2 反乱鎮圧の軍を出すのは壬申の乱以来。妻の甥の反乱であり、本当に自分の政治が悪いのかと悩んでノイローゼとなったのである。転地療養が必要であっ た。

Q3 天皇のわがままがすんなり通っているこの事実は、何を意味するのか?

A3 天皇権力が強いことを物語る。何をしてもよいのである。

Q4 ノイローゼの天皇は何にすがるのか?

A4 仏教にすがって国を安定させようというのである。そのために国分寺建立の詔、大仏造立の詔がこの間に出るのである。

 2 仏 教による鎮護国家
  国分寺、国分尼寺の建立の詔(741)

・737年3月、凶作と疫病に対し、国ごとに丈六釈迦像を作ることを命じていた。 741年には、これを国分寺、国分尼寺と命名して建立の詔を恭仁京で出した。 中国の一州ごとの官寺を模倣したもので、8世紀末になって体裁が整えられる。
・国分寺には七重塔がそびえる。尾張では稲沢に置かれた。金光明最勝王経を読経させる。仏教の加護神である四天王に国家鎮護の役割を期待する経。国分寺は金光明四天王護国之寺が正式名
国分尼寺は法華滅罪之寺が正式名

  盧 舎那大仏造立の詔(743)

・743年10月15日、大仏造立の詔を紫香楽宮で出す。天皇は西域の大仏にあこがれ、「華厳 経」「梵網経」に登場する盧舎那仏を祀ることにした。
・仏教の宇宙観では、世界の真ん中に仏の住む高さ8万4千由旬(1万5600メートル×84000)の須弥山がある。その根もとの海を7重の金の山脈が取 り巻いており、日本は一番外の金山の周りを取り巻く海に浮かんでいて、太陽や月は須弥山の周りを回っている。
・一つの須弥山を中心に一世界ができる。これが1000集まって小千世界。小千世界が1000で中千世界。中千世界が1000集まって大千世界。三千大世 界の中心にいるのが盧舎那仏。これを作ることで、平城京は仏教世界の中心になる。
・大仏造立は大仏師国君麻呂の指導で始まった。最初に木枠をつくって縄を巻き、粘土をつけて塑像を作る。ここまでで1年2カ月かかっている。
・次に塑像のまわりに雲母をつけ、そこに厚さ40〜50僂粒扱燭稜甘擇魏,敬佞韻討罎。台座周りだけで70メートルある。塑像は5〜6僂慮さで削り 取って中子とする。
・この後、周囲に土手を作り、ここに溶解炉を設置する。一度に1トンの銅を溶かし入れるとして、台座だけで130トン分130基が必要であった。3年間に わたって8回おこない、最後の鋳込みには高さ17メートルの土手ができている。
・この時、陸奥から金が産出された。聖武天皇は喜び、これを金メッキに使うことにした。60塋は必要で、水銀と化合させ、塗った後で水銀をとばして定着 させた。水銀中毒にかかるものが続出したと言われる。
・動員されたのは材木関係で170万人、金工関係で90万人という。人口600万人なので、3人に1人はかり出されたことになる。
・聖武は「天下の富を持つ者は朕なり。天下の勢を持つ者も朕なり。この富勢をもってこの尊像を造る」と言っている。しかし、実際には大仏は地方豪族の「知 識」(寄付)によって作っており、見返りに位を授けている。また、民衆に人気のあった行基に依頼し、広く人手を集めている。
行基は河内の豪族の子で14歳で出家した。薬師寺に籍を置 いていたが、民衆に法を説くようになり、調庸の運脚の帰りに行き倒れとなる人の救済をしている。布施を集め、橋を架けたりすることもしていた。朝廷は民衆 教化を禁止していたため、行基を小僧と呼んで弾圧していた。しかし、大仏造立に際しては民衆の協力が必要で、大僧正として協力させている。

  →752年開眼供養

・752年4月9日、開眼供養。1万人の読経と日本の歌舞、外国の舞楽などが奉納され る。この時に使用した品は正倉院に納められる。
・大仏はその重さのため、尻の部分に亀裂が入ってきた。9世紀前半には後ろに土山をつくって支えることにした。そのうちに頭が傾き始め、855年の地震の 時に落ちてしまう。
・1180年、平氏の焼き討ちで大破し、鎌倉幕府の寄付によって再鋳されることになった。この時には大仏殿も建て直している。しかし、1567年、松永久 秀の焼き討ちにあって大破する。現在のものは1690年、江戸幕府の手による再建である。造立当初のものは蓮弁の一部に残っている。
・大仏殿は現在は正面57m、高さ49mで世界一の木造建築であるが、当初は正面86mもあってもっと大きかった。江戸時代の再建の際、経費の関係で縮小 している。

Q5 大 仏は律令国家の一大モニュメントであるが、こんなものを作れば民衆の生活はどうなるのか?

 but公 民の疲弊進む

[奈良朝末期の政治の乱れ]
 孝謙天皇(女帝)即位

・聖武天皇は様態が悪く、749年に一人娘に譲位した。これが孝謙天皇で、藤原系から 立てたかったために女帝の出現となっている。32歳だが独身。
・男の子の安積親王は744年に17歳で死んでいる。藤原氏による暗殺説が強い。

Q6 孝謙天皇が結婚するとすれば、相手はどういう人である必要があるか?

A6 結婚するなら元天皇でなければならない。そんな相手はいないので、これで聖武の系統は絶えることになる。藤原氏としては焦ることになる。


 1 藤 原仲麻呂(武智麻呂の子)の台頭
  光明皇后の信任、諸兄と対立

・武智麻呂の次男の仲麻呂は参議となる。左大臣橘諸兄と、その子・参議奈良麻呂と対抗 するようになった。
・光明子とは叔母と甥の関係であり、これを利用するために孝謙女帝の政治を 補佐するために紫微中台(光明皇太后のための役所)を設置した。

  →紫微中台内相、

・756年、聖武天皇が死去し、757年、橘諸兄が74歳で死去。仲麻呂は聖武天皇亡 き後の母子に接近して激励し、信用を得ることに成功する。紫微中台内相とな り、光明皇太后との結びつきを強めた。
・聖武天皇は「孝謙天皇の次は道祖(ふなど)王(天武の孫)を立てよ」と遺言したが、藤原氏と無関係の天皇は好ましくない。同じ孫なら、亡くなった仲麻呂 の子の未亡人を妻としていた大炊王を立てたい。
・道祖王が女官に朝廷の機密を漏らしたとして皇太子から退け、代わりに大炊王を皇太子にする。

   儒教政治展開

・唐風の官職名を採用した。右大臣は大保、太政大臣は大師など。見るべきものは養老律令の施行。

Q7 757年、仲麻呂は養老律令を施行した。どうしてその必要があるのか?

A7 不比等が作ったものであり、長く眠っていた。表に出すことでその功績を顕彰し、藤原氏の権威づけをねらっている。

 but橘 奈良麻呂(諸兄の子)の乱(757)=計画漏 れて鎮圧

・仲麻呂は政権内の反仲麻呂派を抑圧。橘諸兄の子である奈良麻呂は兵部卿から右大弁に 格下げし、軍事ポストから外す。また、大伴古麻呂を陸奥鎮守将軍として陸奥に飛ばした。
・左遷された連中は反仲麻呂クーデターを計画。757年7月2日、小野東人が上道(かみつみち)斐太津を反乱に誘い、「兵400で仲麻呂邸を攻撃し、古麻 呂が不破関を押さえる」計画を立てる。しかし、仲麻呂に密告する者が出て逮捕される。
・奈良麻呂は「なぜ反逆したのか」と尋問されたのに対し、「仲麻呂の政治が無道である」「東大寺の造営で多くの人が苦しんでいる」と答えた。しかし、仲麻 呂は「お前の父の時に始まったことではないのか」と言ったために奈良麻呂は言葉に詰まる。結局は大義名分のない政権争いであった。一味は拷問の杖で打ち殺 される。橘奈良麻呂の乱で処分されたのは合計443人と推定 され、反仲麻呂派は消滅した。

 淳仁天皇即位、恵美押勝の名を賜り大師へ

・758年、孝謙天皇が譲位し、大炊王が即位して淳仁天皇となった。仲麻呂はこの功績で恵美押勝の 名をもらう
・760年、従一位大師に出世。大師は太政大臣のことで、今 まで生前になった者はなかった。不比等も与えられたときには辞退をしたほどの役職。仲麻呂は子供3人も公卿として得意の絶頂となる。

 2 道 鏡の台頭
  病気治療を通じて孝謙上皇に接近=仲麻呂、淳仁と対立

・760年、仲麻呂を支えていた光明皇太后が死ぬ。孝謙上皇と淳仁天皇の調整役がいな くなることになった。
・平城宮改築のため、近江の南・石山寺付近に保良宮を作り、孝謙上皇と淳仁天皇が一時引っ越す。ここで孝謙は病気となり、看病禅師として道鏡を頼んだ。道鏡は山林仏教の修行 をし、葛城山で呪術を身につけていた。天皇は40代半ば、道鏡は50代。独身を通してきたオバチャンは一目惚れ。精神的な病気を救ってくれた道鏡に天皇は 慕い寄るようになる。
・みっともないため、仲麻呂が淳仁を通じて孝謙に文句を言うと、「朕は出家する。今後は天皇は祭事や小事だけをすればよい。国家の大事と賞罰は朕がおこな う」と怒ってしまった。これをきっかけに仲麻呂の覇権に反発するグループが 挙兵の動きを見せる。

  ∴藤 原仲麻呂の乱(764)

・仲麻呂は兵を集め始めるが、孝謙上皇が天皇印を奪って先に動員命令を出した。仲麻呂 は奈良から近江へ脱出を図る。この時には新たな天皇に立てるために塩焼王を連れ出したが、上皇側は先に瀬田橋を焼き落とし、仲麻呂は湖西から越前を目指す ことになった。しかし、愛発関を固められてそれもできなくなり、湖西で合戦となる。結局は湖上に逃げるが捕まり、最後は斬殺される。

   =仲麻呂敗死、淳仁淡路配流、称徳天皇即位(孝謙重祚)
    →道鏡による僧侶政治(太政大臣禅師、法王となる)

・重祚した称徳天皇はお気に入りの道鏡を出世させ、太政大臣禅師に据え、766年には法王にしている。仏教興隆のために西大寺を建立し、国庫は窮乏する。
・称徳天皇は、天武と持統の子である草壁皇子の系統以外の天武の血筋には皇位を渡さないようにするため、ライバルになる可能性のある皇族を次々に謀反の疑 いで検挙していった。
・称徳の血筋で皇位継承者を出すには天皇と結婚するしか手がない。できれば道鏡を天皇にして結婚したいものである。

  cf)宇佐八幡宮神託事件(769)
    道鏡の即位勧める神託

・769年、宇佐八幡宮から「道鏡を天皇にすれば天下泰平」の神託があったと報告され る。天皇は喜ぶが、貴族の反対が予想され、再確認して天皇につけようと考えた。

    和気清麻呂による阻止→清麻呂配流

・夢のお告げで和気広虫(法均尼)をと思うが、女の身でたいへんなので、弟で清廉潔白 な和気清麻呂を派遣することにした。道鏡は清麻呂に大役を果 たせば大臣にと約束する。
・清麻呂が社殿で神託を聞くと、初めは神はむにゃむにゃ言うだけだったが、「国家の大事なので神意を示せ」と言うと、「臣をもって君にすることはいまだか つてない。必ず皇族を立てよ」と言ったという。この報告を受け、称徳と道鏡は激怒した。清麻呂は別部穢麻呂と改名されて大隅に配流され、広虫も狭虫と改名 されて備後に配流されている。

 3 光 仁天皇の政治刷新
  称徳の死→道鏡追放(下野薬師寺へ)

・770年、称徳は発病して死ぬ。後ろ盾を失った道鏡は下野薬師寺に左遷され、2年後 に死ぬ。

  藤原百川(宇合の子)による光仁擁立(天智系)

・称徳の死で天武天皇の直系はいなくなる。そのため、天智天皇の孫に当たる62歳の白 壁王が即位した。酒浸りで心意をくらまし、称徳に粛正される危機を逃れてきたとされ、慎重な性格だった。
光仁即位に動いたのは藤原式家の百川であり、ここで藤原氏復活の路線を敷 く。

Q8 奈良朝は絶大な権力を持つことになった天皇による政治がおこなわれている。その 政治の中身はどんなものだったと言えるか。

A8 極端な仏教保護や私生活の乱れが問題で政治の私物化が起きている。これが律令体制自体を動揺させることになる。

※奈良朝=政治の私物化→律令体制の 動揺進行



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