4 律令国家の充実と動揺 <平城遷都と律令国家の充実>

 藤原京は大和三山に囲まれて発展性に乏しく、南が高く北が低いので天子南面のための藤原宮を北端に建設できなかった。このため、[1]天皇は[2]年、 奈良盆地の北端へ遷都した。この新都が[3]である。唐の長安を模倣し、中央北端に平城宮と天皇の住む(4)を置き、そこから南に(5)が伸びていた。道 路を碁盤目状に直交させる(6)制を採用し、都の南の方に二つの市が設けられた。(3)の南は湿地であって十分な面積がとれず、東北部に(7)を張り出さ せたところに特徴がある。
 貨幣の流通は政権による信用保証が前提であり、中央集権国家の充実ぶりを示すものである。708年に発行された[8]は、以後、乾元大宝に至るまで12 種類鋳造された[9]の最初となるもので、季禄や賃金として支払われた。畿内周辺でしか流通しなかったため、政府は711年に[10]を出して流通を促進 しようとしている。これは貨幣のストックに応じて位を授けるもので、かえって死蔵を招くことになった。
 中央政府にとって辺境の開拓が進むのもこの時代である。東北地方に住む[11]の同化は日本海側でいっそう進み、越後国の北に(12)を設置し、760 年には前進基地として(13)を建設している。一方、太平洋側では仙台付近に[14]を建設し、攻略拠点として[15]を設置した。九州南部の(16)と 呼ばれた非服属民に対しては、(17)に出兵を命じて同化を進め、日向国から(18)を分置した。この頃、九州の南に浮かぶ(19)や(20)からも入貢 がおこなわれ、西南地方の版図はほぼ固まった。
 天皇中心の歴史書が完成するのもこの時期である。[21]は「帝紀」「旧辞」を誦唱していた(22)からその内容を筆録し、712年に「(23)」にま とめている。これは表記に(24)を用い、神話の微妙なニュアンスを伝えている。一方、720年には表記に(25)を用いた正史として、(26)が編集し た「(27)」が完成した。以後、「三代実録」に至るまで6種刊行される(28)の一つ目となったものである。このほか、各国に特産物や伝説をまとめさ せ、「(29)」として報告させている。
 律令国家は唐を手本としたため、常に[30]を派遣して最新の大陸文化を導入し続ける必要があった。7世紀後半の高句麗滅亡後、新羅は唐との関係を悪化 させ、唐の牽制のために日本に接近してきた。このため、(30)は朝鮮半島沿岸を経由して山東半島に上陸する(31)のルートをとっていた。しかし、8世 紀になると日本と新羅の関係が悪化し、五島列島から東シナ海を横断する危険な(32)をとらざるを得なくなった。渡唐した人々は、帰国後は政界や宗教界で 活躍し、橘諸兄政権で用いられた(33)や(34)、天台・真言宗を開いた(35)、(36)などはいずれも渡唐経験者である。日本からは一流の文化人が 海を渡ったのであり、(37)のように中国で重用された者もいる。隣国の新羅とは互いに使節を行き来させていたが、日本は新羅を朝貢国扱いしたために関係 はよくなかった。一方、沿海州に新たに建国された[38]は、唐や新羅を牽制するため日本に使節を送り、日本からも遣(38)使が日本海を渡った。 (38)からの使いを迎えたのが(39)などの施設である。

<解答>
(1)元明 (2)710 (3)平城京 (4)大内裏 (5)朱雀大路 (6)条坊 (7)外京 (8)和同開珎 (9)皇朝十二銭 (10)蓄銭叙位 令 (11)蝦夷 (12)出羽国 (13)秋田城 (14)多賀城 (15)鎮守府 (16)隼人 (17)大伴旅人 (18)大隅国 (19)種子島  (20)屋久島(21)太安万侶 (22)稗田阿礼 (23)古事記 (24)万葉仮名 (25)漢文 (26)舎人親王(27)日本書紀 (28)六 国史 (29)風土記 (30)遣唐使 (31)北路 (32)南路 (33)元ボウ(日+方) (34)吉備真備 (35)最澄 (36)空海  (37)阿倍仲麻呂 (38)渤海 (39)松原客院、能登客院


<奈良朝の政争>

 律令制は天皇が独裁権を持つ政治制度であるが、実際には天皇の側近となった者が権力を行使することになった。このため、権力をめぐって多くの者が争う事 態が起きる。当初、平城遷都や律令編さんを通じて天皇側近として台頭したのは[1]であった。(1)は娘を文武天皇に嫁がせて首皇子を生ませ、これが即位 して[2]天皇となっている。(1)は右大臣となり、さらにもう一人の娘の[3]を(2)天皇の夫人とすることにも成功している。彼の死後、右大臣を継承 したのは[4]であり、藤原四兄弟と称された(1)の4人の息子と対立するようになる。四兄弟は[5〜8]であるが、それぞれが(9〜12)という家を独 立させている。(3)の生んだ男の子が亡くなったことから、四兄弟は(3)を(13)に立て、藤原氏の権勢を確立しようとした。反発した(4)は(14) 年に謀反の疑いにより自殺に追い込まれる。(4)の変と呼ばれるものである。ところが、四兄弟は相次いで伝染病死してしまい、政権は(3)の異父兄である [15]が担うことになった。唐からの帰国留学生である[16,17]を用いた彼の政治は、大宰府に左遷された(7)の子の[18]の反発を買い、反乱が 起こされている。この間、自らの政治を否定されたと感じた(2)天皇は動揺し、山城国の(19)、摂津の(20)、近江の(21)と都を転々と遷す事態と なった。憔悴した天皇を救ったのは仏教の(22)思想であり、(23)年に[24]、(25)年には[26]というように仏教興隆の詔を出している。特に 東大寺大仏は国家的プロジェクトであり、752年に開眼供養がおこなわれた。
 (2)天皇には男子がなく、娘が即位して[27]天皇となった。皇太后となった(3)の信任を得て台頭したのが[28]である。(15)の死後、彼は (3)のもとで(29)に就任して儒教政治を展開した。(15)の子が起こした[30]の乱を抑えた彼は、(31)天皇を即位させ、(32)の名を賜って (33)に就任した。一方、退位した(27)上皇は病を得て、そこに看病禅師として接近したのが[34]であった。上皇は(34)を重用し、国家の大事に ついては上皇がとりおこなうとしたため(28)と対立が激しくなった。こうして起こされたのが764年の(28)の乱である。(28)は敗死して(31) 天皇は淡路に流され、(27)上皇は重祚して[35]天皇となった。天皇は(34)を(36)として政権を委ね、さらには[37]にして宗教界のトップに 就けた。こうした状況のもと、豊後の[38]から(34)を天皇に就けよという神託が寄せられた。天皇は喜ぶが、[39]を派遣して神意を確かめることと なった。(39)は(34)の即位は神の望むところではないと報告したため配流される。一連の事件を(38)神託事件と呼ぶ。しかし、まもなく(35)天 皇は亡くなり、(34)は(40)に左遷された。新たに即位したのは皇室の長老で天智天皇の血を引く[41]天皇であった。擁立したのは[42]であり、 これによって藤原(11)が台頭する素地が作られることになった。奈良時代は政権交代が激しくおこなわれたが、それは政治が私物化されていたことの表れで ある。その裏で、律令制の動揺は進行していたのである。

<解答>
(1)藤原不比等 (2)聖武 (3)光明子 (4)長屋王 (5~8)武智麻呂、房前、宇合、麻呂(9~12)南家、北家、式家、京家 (13)皇后  (14)729 (15)橘諸兄 (16,17)元ホ゛ウ(日+方)、吉備真備 (18)藤原広嗣 (19)恭仁京 (20)難波宮 (21)紫香楽宮  (22)鎮護国家 (23)741 (24)国分寺・国分尼寺建立の詔 (25)743 (26)盧舎那大仏造立の詔 (27)孝謙 (28)藤原仲麻呂  (29)紫微中台内相 (30)橘奈良麻呂 (31)淳仁 (32)恵美押勝 (33)大師 (34)道鏡 (35)称徳 (36)太政大臣禅師  (37)法王 (38)宇佐八幡宮 (39)和気清麻呂 (40)下野国薬師寺 (41)光仁 (42)藤原百川


<律令体制の動揺>

 奈良時代の農民は過重な負担を強いられており、生活に困窮する者が多かった。万葉歌人で地方役人を歴任した(1)は、食べるものにも事欠き、税負担にあ えぐ農民の姿を(2)に詠んでいる。この時代、農民は徒党を組んで抵抗するだけの力もなく、土地も公有であったので居住地に対する執着がなかった。このた め、負担をこなせない者は簡単に逃げてゆくことになる。戸籍の地からよそに逃れ、所在が確認された者を[3]、行方不明の者を[4]と呼ぶ。彼らは逃れる ことを繰り返してゆくため、彼らに対しての課税は難しかった。律令の税制は男子が中心であり、これに着目し、男子が生まれても女子として戸籍に記載して税 を逃れる手だても講じられた。これを[5]と呼ぶ。さらに、仏教が国の保護を受けて僧は課税されなかったため、勝手に僧となる(6)も増加した。農民の逃 亡は口分田の荒廃を招き、庸調の滞納や粗悪化は国家財政を圧迫することになる。こうして律令制は動揺していったのである。
 口分田の荒廃は田の不足をもたらす。政府は722年、[7]を出して荒廃した耕地の復旧を目指したが、困窮する農民は動かず、(8)年には[9]を出し て期限付きで土地の私有を認め、開墾を奨励することにした。水田で欠かせないのは溝池であり、新しく築造すれば3代、古いものを復旧すれば1代の私有が認 められたのである。口分田にかかる租は低率であったから、農民の開墾熱は高まったが、いずれ収公される時期が近づくと公地は再び荒れるようになり、政府は [10]年には[11]を出して開墾地の永久私有を認めざるを得なかった。これにより、有力貴族や大寺社は鉄製農具を使って大々的に開墾事業を展開するよ うになった。東大寺などは北陸方面に大規模に未開地を囲い込み、多くの(3)人や奴婢を投入して私有地を拡大した。このような土地を[12]と呼び、土地 公有原則は崩れるのである。
 日本の(12)制は8世紀に成立するが、初期においてはこのように、有力貴族や大寺社が耕地を開いて領主となっており、この(12)を(13)と呼んで いる。厳密に見ると、それは自ら開いた(14)と、他者が開いたものを買得した(15)に分けられるが、10世紀以降の寄進地系(12)と区別して初期 (12)と呼ばれている。開墾地には管理のための事務所と倉庫が建てられ、(3)人や奴婢を用いたり、周辺の公民を雇って耕作させる(16)という形態で 維持された。耕作者の管理は律令制のシステムのもとで地方政治の実務を担当していた(17)に委ねられ、収穫の5分の1程度を耕作者に納めさせてそれを中 央の領主と折半した。
 (12)が形成されると、周辺の困窮した班田農民がそこに逃げ込んでくる現象が生じ、周辺の口分田を荒すとともに租税徴収をますます難しくした。そのた め、(12)の形成は律令制をさらに衰退させることになった。しかし、初期(12)は(17)を使った間接経営であり、律令制のシステムが崩れる中で荒廃 するようになる。(12)を歓迎しない政府の圧力とともに、膨大な地方での実務を委ねられた(17)が言うことを聞かなくなったり没落したりして、耕作者 をつなぎ止めておくことができなくなったのである。

<解答>
(1)山上憶良 (2)貧窮問答歌 (3)浮浪 (4)逃亡 (5)偽籍 (6)私度僧 (7)百万町歩開墾計画 (8)723 (9)三世一身法  (10)743 (11)墾田永年私財法 (12)荘園 (13)墾田地系荘園 (14)自墾地系荘園 (15)既墾地系荘園 (16)賃租 (17)郡 司


<平安遷都と律令国家の再建>

 律令制の再編が急務となる中、光仁天皇の子が即位して[1]天皇となった。天皇は政治刷新をおこなうために人心を一新し、政教分離を図るために平城京か らの遷都を考えた。当時は御霊を恐れる風潮が強く、皇位継承の対立で死んだ他戸皇子の怨霊から逃れるためであったともされる。784年、[2]へ遷都され たが、造都長官であった[3]が暗殺される事件が起きて計画は中断する。事件に連座した早良親王の怨霊に悩んだ天皇は、(4)の建議を入れて[5]年、 [6]への遷都をおこなった。こうして、以後1080年の王城が築かれることになる。
 律令制は地方から崩れ始めていた。天皇は国司の不正を取り締まるため、[7]を置いて任期終了に伴う引継書類の授受監督を強化した。また、農民の負担を 軽減するため地方での労役である[8]の日数を半減し、農民を徴兵する(9)制も廃止している。いずれも、国司が不当に農民を使役していたためである。ま た、戸籍作成業務の停滞で実施が難しくなっていた[10]を、12年1班とすることで励行している。ただ、一方では天皇家の荘園として(11)を拡大して おり、公地制の維持を最優先にする政策ではなかった。(9)制廃止に伴い新たに導入されたのが、(12)の子弟を志願させた[13]の制であり、一時的に 兵士の質は向上することになった。
 (1)天皇は、遷都と並ぶ重要課題として蝦夷の攻略を進めた。中央政府の弱体化に伴い、蝦夷は多賀城を攻略していたが、これを奪還して北上川上流域に対 しての攻撃を図る必要があり、797年、[14]を[15]に任じて全権を委任した。(14)は戦いを有利に進め、802年、北上川上流に[16]を築 き、多賀城にあった(17)をここに移した。翌年にはさらに北方に(18)を築いている。しかし、軍事と造作は公民の疲弊を増すことになり、天皇は (19)の建議を受けて中止している。なお、東北の計略は、一代おいた(20)天皇のときに(21)が遠征して完成させている。
 (1)天皇の子として即位した[22]天皇は、早良親王の怨霊に悩んで弟に譲位し、[20]天皇の治世となった。この頃、天皇の機密は女官が扱う制度 で、尚侍を務める藤原式家の[23]が宮中で重きをなしていた。(23)は(22)上皇と深い関係にあり、兄の(24)と結んで上皇の重祚および平城京へ の還都を企てた。(25)年、(20)天皇は女官に代わって機密の管理をおこなう(26)を設置し、[27]をそのトップである[28]に任じて機密を保 持し、上皇方の先手を打って(24)を討ち、(23)を自殺させた。この重祚・還都計画を封じ込めた政変は[29]と呼ばれる。
 (20)天皇も律令制の再編を進めた。(7)(15)(28)など律令を補足する官職を[30]と呼ぶが、天皇はこの他に京都の警察、訴訟、裁判をおこ なわせる[31]を置いている。また、律令の補足修正として[32]、施行細則として[33]が出されていたが、天皇はその集大成として[34]を編集さ せた。これは(35,36)と続く[37]の一つ目である。また、令の注釈書として次の淳和天皇は清原夏野に命じて(38)を編集させ、清和天皇の時代に は惟宗直本によって(39)が作られている。

<解答>
(1)桓武 (2)長岡京 (3)藤原種継 (4)和気清麻呂 (5)794 (6)平安京 (7)勘解由使(8)雑徭 (9)軍団 (10)班田収授  (11)勅旨田 (12)郡司 (13)健児 (14)坂上田村麻呂 (15)征夷大将軍 (16)胆沢城 (17)鎮守府 (18)志波城 (19)藤 原緒嗣 (20)嵯峨 (21)文室綿麻呂 (22)平城 (23)藤原薬子 (24)藤原仲成 (25)810 (26)蔵人所 (27)藤原冬嗣  (28)蔵人頭 (29)薬子の変 (30)令外官 (31)検非違使 (32)格 (33)式 (34)弘仁格式 (35)貞観格式 (36)延喜格式  (37)三代格式 (38)令義解 (39)令集解



<律令体制下の文化−飛鳥、白鳳、天平、弘仁・貞観>

 文化史の区分は政治史とは異なり、7世紀前半の推古朝が(1)、7世紀後半の天武・持統朝が(2)、8世紀の聖武朝が(3)、9世紀前半の桓武・嵯峨朝 が(4)と呼ばれる。律令制確立のため遣隋使や遣唐使が送られた時代であり、それぞれ中国の(5〜8)時代の強い影響を受け、いずれも仏教が文化の中心で あった。
 (1)の時代では寺院は古墳に代わる権威の象徴であり、最古の寺の(9)は蘇我氏、大阪の(10)や斑鳩の(11)は聖徳太子というように個人が建立す るものであった。現存するのは(11)の金堂や五重塔であるが、エンタシスと呼ばれる柱の膨らみにはギリシアの影響が見て取れる。もっとも、建立当初の建 物は焼失し、現在の建物は670年以降の再建である。この頃、仏教は呪術の一つとして理解されていたらしいが、聖徳太子は教義を深く理解し(12〜14) の注釈書として三経義疏を撰している。
 (2)の時代になると国家による仏教の保護が始まり、官立の大寺院として大官大寺や(15)などが建てられた。(15)の建物では東塔と呼ばれる三重塔 が現存している。塔は本来は仏舎利を納めたもので、寺院の伽藍配置では中心に置かれていた。(9)では塔を中心に三金堂が建てられ、(10)では中心に 塔、背後に金堂を配置している。その後、塔の地位は下がり、再建された(11)では塔と金堂は並置され、(15)では金堂の左右に塔を2つ配置し、金堂が 中心となってゆく。
 (3)の時代になると国家の安定のために仏教の(16)思想が強調され、国の保護と管理が徹底した。全国に(17)が建立され、(18)には大仏が造立 された。この時代の(18)の建物は(19,20)が残されている。経典の研究は盛んとなり、(21)と呼ばれる(22~27)の6つの派が生まれた。宗 派というより学派と言うべきもので兼学が可能であった。正式な僧となるには授戒師から(28)を授けられる必要があったが、日本には授戒師が存在せず、唐 から招来されたのが(29)である。彼は(18)に(30)を設置して戒律を授け、一方では西ノ京の地に(31)を建てている。国家管理下の仏教では民間 布教は禁じられていたが、(32)は灌漑設備の構築などを通じて民間に信者を拡大し、政府はその動きを取り締まった。もっとも、大仏造立に当たってはその 力が必要となり、資金を集めさせている。また、聖武天皇の皇后となった(33)は(34,35)を建設して社会事業に努め、仏教の慈悲が体現された。
 極端な仏教保護は政治の混乱を招いたため、(4)の時代には南都の都市仏教が抑圧され、政教分離が進められた。唐から帰国して新宗派を開いた (36,37)は修行の場を山地に求めて寺院を建て、都市仏教に対して(38)が成立した。(36)はすべての経典の中で万人平等の思想を持つ(39)を 重視し、新宗派として(40)を開いた。平安京の鬼門に王城鎮護の寺として(41)を建て、ここに大乗(30)を置いて僧の育成を図ったため、(41)は 日本の仏教の総本山としての性格を持った。一方、(37)は従来の経典研究に基づく顕教に対し、真言を唱えて即身成仏を目指す(42)を招来した。彼の開 いた新宗派は(43)と呼ばれ、嵯峨天皇に保護されて平安京に(44)を与えられ、後には高野山に(45)を建てている。(42)は(46)と呼ぶ呪術を 重んじ、貴族たちの(47)に対する欲求に応えたため盛んとなった。このため、(40)でも(48)の手により(42)化が図られ、(43)の東密に対し て(49)と呼ばれた。さらに(40)を引き継いだ(50)は山麓の別院として(51)を建てたが、(40)は(41)と(51)の派に分かれ、それぞれ (52,53)と称して対立するようになった。ところで、マジカルな仏教の招来は神事を柱としてきた従来の神道との結合を促し、(54)と呼ばれる現象が 生じた。神社に(55)、寺院に(56)を建てたり、神を僧侶の姿で表した(57)などが作られたのはその表れである。また(38)は山の神への信仰と融 合し、山岳での修行によって呪力を体得する(58)も成立した。
 これらの時代の美術も仏教が中心である。(1)の時代は(5)の影響を受け、堅い像容の(59)様式、柔和な(60)様式の仏像が造られた。前者の仏師 には(61)がおり(62,63)が現存している。後者の例には法隆寺の(64)や、朝鮮半島に類例のある(65,66)が伝わる。日本最古の刺繍である (67)、(68)という油絵または漆絵が描かれている玉虫厨子などもこの時代の仏教的工芸品である。
 (2)の時代は像造技術が進歩し、薬師寺の(69,70)や藤原氏の氏寺(71)の(72)など写実的で量感のある仏像が造られている。絵画ではインドの(73)壁画と類似する(74)が描かれ、装飾古墳では(75)壁画が残されている。
 (3)の時代の像造形式はさらに多様となり、本尊仏は金銅像で作るものの、脇侍には粘土による(76)、布を漆で固めた(77)が登場した。東大寺三月 堂の(78,79)、戒壇院の(80)は前者の例、三月堂の(81)、唐招提寺の(82)、興福寺の(83)は後者の例である。絵画では薬師寺吉祥天画 像、正倉院樹下美人図などの唐風美人画があり、工芸では聖武天皇の遺品が正倉院御物として伝えられている。
 (4)の時代は山地に寺を建てたため、像造形式は(84)が主流となり、衣紋を表すのに(85)が用いられた。女人高野と呼ばれる(86)には金堂と五 重塔が残るが、瓦葺きではなく(87)であり、仏像では(88)が残される。その他の仏像の例には(89,90)などがある。また、絵画では(42)の宇 宙観を多くの仏を並べることで示した(91)が描かれ、園城寺の(92)など修行を促す憤怒像も好まれた。
 律令国家は中国の模倣であり、その傾向は文学や学問の点でも認められる。奈良時代には日本伝統の和歌が「(93)」に編まれているが、一方で漢詩集とし て「(94)」が編さんされた。平安時代初期には勅撰漢詩集として「(95〜97)」が成立し、空海は私撰漢詩集「(98)」をまとめた。書でも唐風が流 行し、空海と(99,100)は(101)と称された。学問機関も中国をまねて中央に(102)、地方に(103)が建てられ、平安初期には貴族の学寮と して和気氏の(104)、藤原氏の(105)などの(106)が建てられた。なお、空海は庶民教育機関として(107)を建てている。

<解答>
(1)飛鳥文化 (2)白鳳文化 (3)天平文化 (4)弘仁貞観文化 (5~8)南北朝、初唐、盛唐、晩唐 (9)飛鳥寺 (10)四天王寺 (11) 法隆寺 (12~14)法華経、維摩経、勝鬘経(15)薬師寺 (16)鎮護国家 (17)国分寺 (18)東大寺 (19,20)三月堂、転害門  (21)南都六宗 (22~27)三論、成実、倶舎、法相、律、華厳 (28)戒律 (29)鑑真 (30)戒壇 (31)唐招提寺 (32)行基  (33)光明子 (34,35)悲田院、施薬院 (36)最澄 (37)空海 (38)山林仏教 (39)法華経 (40)天台宗 (41)延暦寺  (42)密教 (43)真言宗 (44)東寺 (45)金剛峰寺 (46)加持祈祷 (47)現世利益 (48)円仁 (49)台密(50)円珍、 (51)園城寺 (52)山門派 (53)寺門派 (54)神仏習合 (55)神宮寺 (56)鎮守社 (57)僧形神像 (58)修験道 (59)北魏  (60)南梁 (61)鞍作鳥 (62,63)法隆寺釈迦三尊像、法隆寺救世観音像 (64)百済観音像 (65,66)広隆寺半跏思惟像、中宮寺半跏 思惟像 (67)天寿国繍帳 (68)密陀絵 (69)薬師三尊像 (70)聖観音像 (71)興福寺 (72)仏頭 (73)アジャンタ (74)法隆 寺金堂壁画 (75)高松塚古墳 (76)塑像 (77)乾漆像 (78,79)執金剛神像、日光・月光菩薩像 (80)四天王像 (81)不空羂索観音 像 (82)鑑真和上像 (83)阿修羅像 (84)一木造 (85)翻波式 (86)室生寺(87)桧皮葺 (88)釈迦如来像 (89,90)神護寺 薬師如来像、観心寺如意輪観音像 (91)曼荼羅 (92)黄不動 (93)万葉集 (94)懐風藻 (95~97)凌雲集、文華秀麗集、経国集  (98)性霊集 (99,100)嵯峨天皇、橘逸勢 (101)三筆 (102)大学 (103)国学 (104)弘文院 (105)勧学院 (106) 大学別曹 (107)綜芸種智院

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