4 律令国家の充実と動揺
<平城遷都と律令国家の充実>


・脚色された「日本書紀」しか歴史書がなかった時代に対し、奈良時代は史料が 多い。7 世紀以前の史料は20点で、多くは金石文。平安時代は400年間もあるが、史料は1万点程度に過ぎない。奈良時代は80年ばかりだが史料が多 い。何と言っ ても「正倉院文書」1万2千点があるため。奈良 時代は律令制 に移って文書量が増えていた。平安時代のように処分せず、正倉院に放り込んであったことで残った。
・707年、文武天皇が病死する。子の首皇子はまだ7歳。

Q1 こういう場合はど うするのか?

A1 ピンチヒッターでつなぐ。皇子の祖母が即位して元明天皇となる。その後は娘の元正天皇が即位し、首皇子の成長を待つことに なった。

[中央集権国家の充実]

Q2 初の唐風都城で あった藤原京は、694〜710年の16年間しか都でなかった。 奈良に遷都された理由は何か? 藤原京の位置から考えてみよう。

A2 藤原京は大和三山に囲まれ、発展性に乏しかった。また、文武朝末期には飢饉疫病が流行った。その理由として、都の配置の縁 起が悪いからと考えた。藤 原京は北に低く南に高い。「天子南面」な ので天皇の居所が一 番低くなってしまう。これがよくない。

 
A 平 城京遷都(710、元明天皇)

・中国の皇帝は天帝の命を受けて政治をおこなった。天帝は北極星と考えられた ため、皇帝は北を背にして政治をする。これが「天子南面」で、日本の天皇もこれを真似た。
元明 天皇は平城京への遷都をおこなうことにした。平城の土地は北が高いため、「天子南面」で天皇の居所が一番高くなる。中国の 陰陽思想にも合致 して好都合。また、四禽の図に叶うとされ、東に 川=青龍、西 に道=白虎、南に池=朱雀、北に山=玄武が存在していた。
・問題は広さ。目一杯広くとっても、四角く作るには東西4.2km、南北8.2kmが限界。しかし、東には空き地があるのでここに外京を置く ことにした。 だから平城京はいびつ。現在の奈良市は外京の部分であり、あれよりもっと大きいのが平城京。

 唐・長安を模倣=条坊制による区画、大内裏、市の設置

平城 京は唐の長安が手本南北の大通りは朱雀大 路と 呼ばれ、幅85メートルもある。今で言うと24車線となり、久屋大通くらいの幅がある。
・朱雀大路を基準として、東西は幅24メートルの大路を等間隔で配置した。正方形の区画が34ずつできる。この中に幅12メートルの小路を通 して16区画 に分け、1区画は120メートル四方となった。縦を条、横を坊と 呼び、条と坊で区画を示すので条坊制という。こ れが宅地など を配分する基準であり、3位以上の貴族には240メートル四方を与えていた。また、宮城と都城の周囲には築地をめぐらし、門をつけた。
・造都のための人員は13万人と計算されている。各国に割り当てて強制雇用し、賃金は布で払った。後には和同開珎で支給。逃亡すると一日につ いてむち打ち 30回。それでも逃亡は続出したらしい。しかし、途中で食糧がなくなり餓死する者も多かった。
・平城京の人口は、773年、20万人と推定されている。都の老人、やもめなど2万人に慈善事業を施したことがあり、その人数割合は戸籍では 1割なので 20万人と計算した。

Q3 平城京の男女比は どちらが多かったのだろうか? その理由は何だろうか。

A3 男女比は男16万、女4万である。役人ばかりの新興都市なので男が多い。

・夜明けとともに鼓が鳴る。1万人の役人が殺到するので宮城周辺は通勤ラッ シュ。南の 端にいれば徒歩で2時間近くかかる。昼で退庁していたので6時間程度の勤務。市は正午から夕方まで開き、左京と右京に東市、西市があった。夕方になると門を閉 め、夜間は通行禁 止となる。

B 貨幣の鋳造
 鉱産資源の開発→「和同開珎」発行(708)、 以後12種 発行(皇朝12銭)

・武蔵国から自然銅が発見されたことを受け、和銅に改元した。これによって銭 貨が鋳造 されることになった。
・「珎」の読みは「珍」と「寶」の二説がある。「寶」を「珎」と略した事例は他になく、「珍」の略字と見た方がよいらしい。「かいちん」と読 むべき。 708年〜760年まで鋳造され、大量に発行されたので渤海からも出土している。直径2.4cm、重さ3.8グラム。
・かつては日本最古の貨幣とされていたが、現在ではこれに先立って発行された「富本銭」が最古とされる。

Q4 真ん中の穴はどう して四角いのだろう。

A4 四角い穴はバリを削るために必要なものであった。

・和同開珎は季禄や賃金として支払われ、租税で回収された。畿内周辺8カ国に は銭で調 を出せと命じたため、これが流通範囲となり、現在の和同開珎出土地もこの範囲。
・政府は役人に対しての季禄として、和同開珎をどんどん発行した。このために銭の価値は暴落し、米価は18年間で6倍になった。

 but畿内周辺でしか流通せず=蓄銭叙位令(711) but銭の死蔵招く

蓄銭 叙位令は6位以下の貴族は1万枚で位を1つ上げ、庶民は5000枚で位1つ上げるというものであった。金持ちは身分が高く なるというのもお かしいが、こんなことをすれば銭は死蔵される。

C 辺境の開拓
 1 東北地方
  蝦夷勢力圏への侵入
  日本海側=出羽国設置、秋田城

・中央政府の充実ぶりは地方への勢力拡大で示される。708年、越後国司が蝦 夷居住地 に出羽郡を設置し、越後国として統治しようとした。蝦夷がこれに反抗したため、709年に出兵し、712年には出羽国を設置している。733年、出羽柵を庄内から秋田 に移し、760 年に秋田城にした。

  太平洋側=多賀城鎮守府設置

多賀 城は設置年代不詳だが、724年に大野東人が築いたとされる説が強い。800メートル四方くらいの敷地で、国府もここに置 かれた。

 2 西南地方
  隼人の攻略=大伴旅人の出兵 cf)多ネ (種子)、掖久 (屋久)の入貢

・713年に日向から大隅国を分置。隼人の同化政策を進める。

D 歴史書の編集
 1 「古事記」(712)=「帝紀」「旧辞」 の稗田阿礼の 暗唱
    →太安万侶の筆録、万葉仮名

「古 事記」は712年、稗田阿礼の誦唱していたものを太安万侶が筆録したもの。3巻構成で「帝紀」、「旧辞」に忠実であり、古代有力豪族の伝承を 含んでいる。固 有名詞などの日本語音を漢字で表す万葉仮名で記述
・平仮名の元の漢字について、「あいうえお」は「安」「以」「宇」「衣」「於」、「かきくけこ」は「加」「幾」「久」「計」「古」になる。一 つに決まって いったのは平安時代になってからで、それまではいろいろと表記した。「し」は「之」だが、「志」「斯」「芝」「思」などとも書く。戯書もある ので解読が厄 介になる。

Q5 万葉集にある次の 文字は何と読むか。

A5 「十六」→「しし」。「山上復山有」→「出」。「恋水」→「涙」。「馬音」→「い」。「蜂音」→「ぶ」。


 2 「日 本書紀」(720)=舎人親王の編集(公的史料)、漢文

「日 本書紀」は正史であり、異説を収録して天皇家の権威づけをおこなった。漢文で記述され、30巻構成。

  (以後、六国史編纂)

・これ以後、政府が編纂したものが六国史。「日本書紀」(神代〜持統)、「続日本紀」(文武〜桓武)、 「日本後紀」(桓武〜淳和)、「続日本後紀」(仁明)、「日本文徳天皇実録」(文徳)、「日本三大実録」(清和〜光孝)。
「続日本紀」は奈良時代をカバーする史料とし て重要。奈良 時代の史料はたいていがこれ。文武から始まり、平安京遷都前で終わる。

  cf)「風土記」=諸国の地誌

・713年、各国に対して有用資源、地名の由来、昔話を採録して報告しろと命 じる。こ れで編纂されたのが「風土記」。今は播磨、常陸、出雲、豊後、肥前のものが一部分にしても残っている。播磨と常陸は文人がまとめたので美文 調。出雲は国造 がまとめたので古い時代の日本語が残る。

※天皇中心の史書作成による権威づけ

[大陸との交渉]
A 遣唐使

Q6 遣唐使は命がけの 使節である。危険を冒してまで派遣する意義はどこにあったの か?

A6 先進文化の移入のためだとされる。それが支配者の権威を強化することにつながった。しかし、唐には各国使節が遣使をしてお り、ここに行くことで周辺 国の状況が把握できるからというのも大きな理由。東アジア諸国使節は正月に長安に集まるので、この時までに行く必要があった。文 化交流の側面が強調される が、政治的思惑にも注目したい。

 大陸先進文化移入による支配者権威の補強
 630〜894年に20回

・遣唐使船の構造は箱か盥と同じ。幅9メートル、長さ30メートル、150人 乗りの巨 大な箱。船底が平らで波を切れない。帆柱が船の中央にあり、逆風では走れない。

Q7 逆風で走れる帆が ある。どういう帆か?

A7 ヨットのような三角帆があれば逆風でも何とかなる。これは風向きの変わりやすい地中海で発展したもの。和船は基本的には順 風で走るので風任せ。

Q8 遣唐使船は帆を使 うのは追い風の時だけ。強い風になるとコントロールができなく なってしまう。風があまり利用できないとすれば、どうやって進むのか?

A8 櫂でこいで走るのが原則。

 (北路→南路)

・初めとられていたのが北路で、朝鮮半島沿岸に船を走らせ、山東半島に上陸した。沿岸を漕いで 行く北路は安全である。高句麗滅亡後、新羅は唐と対立するようになり、ライバル日本との関係は好転した。この時期は北路がとられる。
・しかし、この後に新羅との関係が悪くなったため、新羅沿岸を通ると何をされるか分からなくなった。北路が取られたのは7世紀まで。
・8〜9世紀は五島列島から一挙に東シナ海を渡る南路を とる ようになった。遣唐使船は夏に出発。南高北低の気圧配置のもとで、九州から中国にかけて吹く東風に乗って行く。中国という広い目的地を目指す ため、どこか にはたどり着く。帰りは秋か冬で、西高東低の季節風に乗ってくる。途中で東風に変われば難破するし、日本という狭い目的地を目指すため、南西 諸島の間から 流れて行けば終わりになってしまう。漂流したときのルートが南 島路で あり、島づたいに北上している。

Q9 危険の伴う遣唐使 に選ばれるのはどういう者か? 年齢、位を考えよ。

A9 教養ある者でないと唐に馬鹿にされるので、遣唐使は誰でもというわけにはいかない。行くのは四位クラスの貴族。体力もある 若い人である必要。出世の 早い者が任命されるが、危険なため行きたくないものだった。


・四等官を仕立て、総勢600人。最初に神社に無事を祈願し、天皇に拝謁して 節刀を授 けられる。
・宝亀の遣唐使の場合、776年夏、難波を出航して五島に到着。大使の佐伯今毛人が怖じ気づいて行きたくなくなる。病気になったと主張して動 かない。仕方 ないので部下の小野石根が事実上の大使となり、777年6月24日に出発。行きは順調で、7月3日、楊州に着く。40人ほどが大運河に沿って 長安へ上り、 778年1月13日に到着。ここで唐皇帝の代宗に謁見。
・帰路は778年9月3日、江都で風待ちに入る。最初に出航したのは第三船で、9月9日に出るが難船し、一度中国に戻っている。10月16日 に再び出発 し、23日に肥前に着いた。
・第一船と第二船は満を持して11月5日に出発。8日に波浪のために難破する。第二船は11月13日、薩摩に何とか到着するが、第一船は二つ に割れてしま い、副使の小野石根ら60人あまりは海中に没する。11月13日、舳先は甑島、艫は天草に漂着。
・第四船は11月10日に甑島に着いたというが、100人が40人に減っていた。
・遣唐使船は南に流されることも多く、原住民に殺されたりする。平群広成はマレーに漂着し、115人中90人がマラリアになってしまい、4人 だけが唐に逃 げ帰ったという。

 cf)留学生=

・留学生、留学僧は自薦。戻ってくれば出世は間違いなし。短期留学と長期留学 があり、 短期留学生は遣唐使と一緒に戻るので1年で帰国。長期留学生は次の遣 唐使まで待つため、17,8年は在唐する。

  山上憶良、玄ボウ、吉備真備、阿倍仲麻呂、最澄、空海

山上 憶良は702年に渡っている。万葉の歌人として有名だが、地方廻りの役人をしていた。
玄ボウ、吉備真備は717年に渡り、735年 に帰国。玄ボ ウは唐の皇帝から紫の袈裟を許可されたお気に入りで、帰国後は橘諸兄政権で活躍。
阿倍仲麻呂は717年の第八次遣唐使で渡唐。 科挙に合格し て唐の役人になり、在唐36年で李白らと交わっている。皇帝のお気に入りとなったために帰国許 可が下りない。頼み込んで752年の第十次遣唐使で帰れることになった。「天の原、ふりさけ見れば春日なる、三笠の山にいでし月かも」の歌 は、「唐土にて 月を見て詠める」という望郷の歌。この時は鑑真も一緒で第二船に乗っていて、無事に日本に着いている。しかし、仲麻呂の第一船は難破してベト ナムに漂着 し、彼は日本に戻れずに中国で死んだ。
最澄、空海は804年に渡っている。最澄は短 期留学生なの で翌年に帰国し、空海は長期留学生なのでずっといなければいけなかったが、唐で学ぶものは全て 学んだとして、ルールを破って翌々年に戻っている。

 遣 新羅使

・638〜923年までに47回使いが来ている。また、668〜836年に 28回使い が行っている。奈良時代だけを見ると、それぞれ18回と11回とな り、遣唐使よりも頻度は高い。

Q10 日本と新羅は仲 が悪くなったといった。その新羅が日本に使いを送ってくるとい うのはどういう理由なのか?

A10 7世紀後半、新羅は唐と対立し、日本と挟み撃ちされることを恐れていた。日本が遣唐使を派遣することを警戒していたのは このため。したがって、日 本とは 善隣友好を演じておいた方がよいため、使節を送ってきた。しかし、日本は新羅を朝貢国扱いしていたため、本当は仲は悪かった。

・天平勝宝の遣唐使、大伴古麻呂は元旦の朝賀で新羅使節と席次争いをしてい る。この時 は、東の1が新羅、2がサラセン、西の1がチベット、2が日本だっ た。「新羅は日本の朝貢国なので、席を替われ」といって替わらせている。
・新羅とは緊張関係にあったが、交易は盛んだった。

 遣渤海使(沿海州)
  唐・新羅けん制のため来日(松原・能登客院)

・渤海は高句麗と同族のツングース系民族の国であり、713年に建国された。 727年 以降、180年間に34回来日。日本も新羅を避けて唐に至るルートと して重視し、13回使者送っている。
渤海は当初は唐、新羅をけん制する目的で来日していたが、そ のうちに貿易 目的になった。高級毛皮、人参と生糸、織物の交易がおこなわれ、敦賀の松原客 院、能登客院にやってきた。首都の上京龍泉府からは和同開珎が出土している。
・渤海は926年、契丹によって滅亡させられている。


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