<律令制下の農民>
#1 [農民の社会と土地制度]
#2 A 農民の社会
#3 B 班田収授法
#4 [農民の負担]
#5 A 税負担
#6 B 雑負担
#7 C 兵役

<律令制下の農民>
[農民の社会と土地制度]
戸籍=班田収授の台帳、6年ごと、郷戸単位

戸籍は班田収授の台帳であり、国司が郡司に命じて作成させていた。戸籍には戸主名、続柄、姓名、年齢、注記が記される。郡司は過去6年間の郡内の出生、死亡を確認して下書きを作り、3枚を清書する。1つを国元に残し、2部を中央に送った。

Q1 1000年以上前の戸籍が残っていることは奇跡的であり、正倉院に保存されていたことが理由である。6年で廃棄するものが、どうして正倉院に入れられていたのか?

A1 戸籍は6年ごとに1万巻が全国から集まってきた。30年過ぎると、庚午年籍以外は廃棄される。当時は紙は貴重なので裏面をメモ用紙にするために東大寺に 払い下げられた。初めは切り刻まれて実際にメモ用紙になったが、後には保存することにして正倉院に入れていた。だから戸籍、計帳は正倉院文書に入っていて 御物になっている。

計帳=課税台帳、毎年

計帳は調・庸の賦課台帳。国司が郡司に命じ、6月中に国内の戸主に戸内の口数、性別、年齢、容貌、課口などを書いて提出させた。8月30日までに太政官に送る。全国の計帳を合計すれば、その年の歳入がわかることになる。

A 農民の社会
 郷戸=25人程度、戸主統率の親族集団(50戸→1里)

・戸籍や計帳により、当時の農民の社会の様子が復元できる。戸籍が作成される単位は戸であるが、これには規模が大きくて25人程度の親族集団の郷戸の中に、世代家族の房戸が含まれる形だった。
・702年、筑前嶋郡の大領、肥君猪手に戸籍の作成が命じられた。嶋郡の中には6つの里があり、全部で350戸の戸口が記載されている。郡司の猪手は戸主であり、その一族は124人もいた。これが実際に一つ屋根の下に住んでいたのではない。
郷戸を単位として租税が徴収され、郷戸は行政の末端の単位に位置づけられていた。郷戸50戸で1里という単位になっている。

 房戸=7〜9人の小家族、数戸で郷戸構成

房戸は郷戸の中に含まれる10人前後の小家族で、現実の生活の単位。
・塩尻市平出遺跡の竪穴住居は柱4本で屋根を支え、6メートル四方(20畳)一間の家。竈が作られ、屋内で煮炊きをしていた。竪穴の深さは50〜60センチで、低い壁を付けてその上に屋根を葺いた。房戸にちょうどの広さであり、これが一般的な家屋だったと考えられている。

B 班田収授法
 6歳以上の人民に口分田分与、死後収公(班年6年)

・班田収授のためには、分配すべき人数を調べるとともに、土地の面積を把握する必要がある。
・戸籍作成第1年。戸籍は11月上旬の人口によって翌年(第2年)5月までに作成された。
・土地の方は、戸籍作成第1年の農閑期から全国に渡って一斉に調査を始める。この作業のことを校田と呼び、翌年(第2年)の農繁期前に終了する。この結果によって、校田開始翌年(第2年)の11月から翌年(第3年)2月にかけて土地を分配し、これを班田と呼んでいる。土地が実際に配られる班年は、戸籍作成から2年後ということになる。最悪、戸籍作成直後に6歳になった者は、次の戸籍作成の時期を待ち、14歳にならないと班田されないことになる。
・土地を分配するといっても、痩せた土地もあれば肥えた土地もあり、不公平が生じる。そのため、痩せた土地は易田といって2倍支給していた。班田をしてあまった土地があれば、これを乗田といって貸し出して租をとっていた。
・班田された土地は公のものであるが、それ以外の園地と宅地は均分され、相続、売買が認められていた。

 cf)唐・均田制をモデル

班田収授のモデルは中国の均田制。均田制は北魏で実施したのが最初で、隋・唐に受け継がれていた。隋・唐では婦人には支給されなかったが、日本の場合は支給がおこなわれていて、女性の生活保障の側面が指摘できる。

 貸与面積
  男=2段(1段=360歩、1町=10段)
  女=2段×2/3=1段120歩
  奴=2段×1/3=240歩
  婢=2段×2/3×1/3=160歩

・実際にはこの通りに班田されない場合も多かった。良民男子2段の規定通りでなく、広狭があるのは当たり前だったし、田地の位置が居住地から著しく離れている場合もあった。
・725年、志摩国の百姓に与えられた口分田は尾張国にあり、事実上、農作業に出向くことはできなかった。

Q2 戸籍と土地台帳ができても班田はできない。あとは何が必要か?

A2 土地を整然と区画しておく必要がある。

 cf)条里制=班田の跡

・口分田班給のため、田地は長さ360歩(1.8m×360=648m)四方の正方形にする。一辺を条、他辺を里と呼び、田地の所在地を何条何里で示した。1里の中は、60歩四方に区切る=坪(1.8m×60=108m)。
・坪は縦60歩であり、横は6歩ずつ10に区切る。縦60歩×横6歩だと、これで360歩=1段(短冊形)となり、男であればこれを2つ班給することにな る。あるいは縦を2つに区切って30歩とし、横は12歩ずつ5つに区切ることもあった。これだと縦30歩×横12歩で360歩=1段となる。これを半折形 という。
・春日井市の勝川付近には条里制の跡が残る。上条や下条という地名がそれを示している。

[農民の負担]
A 税負担
 1 =稲2束2把(段あたり、後に1束5把)=収穫の3%→国衙の経費

Q3 中央の財源として租を徴収するデメリットは何か? その結果、その扱いはどうなるか?

A3 目方が重いので中央に持ってこさせることはできない。租は二次的な税になる。

は 税としては軽い。当時の田の収量は、上田では1段で50束(穂首刈りしたもの)とれた。1束は米につくと2升であるので、1段の土地で1石とれることにな る。1石は人間一人が1年間に食べる米の量とされる。男の人の班田は2人分の食糧を生産し、女の人の場合でも1人と3分の1分になる。
・租は1束5把であれば米3升であり、収穫の3%になる。田にかかる税は低率であったと言える。
・律令時代の農民は生活が楽そうに見えるが、実際の租税は男性中心にかかる人頭税が柱になっていた。

 ※口分田貸与された者は全員負担(輸租田←→不輸租田 ex)寺田)

税のかかる田のことを輸租田と呼び、口分田はこれだった。無税の田は不輸租田で、鎮護国家のために保護されていた寺の田がこれに当たった。

Q4 米で税をとるのが難しければ、どういうものでとるのか?

A4 労働力を徴発する。もしくは軽いもの=布でとる。

 2 =労役10日(中央で=歳役

庸は労力負担であり、都に出て10日間働く税。都の近くの農民ならよいが、遠方からだと往復の日数もかかるため、実際には労力負担の代わりに布を納めてもよかった

 but 布2丈6尺の納付に代えること可(1丈=10尺)

布は麻布で、楮などの木の皮を剥いで作ることもあった。麻布の場合、1反分の糸を作るのに40〜100日かかり、それを織るのに40日かかったという。年間の3分の1は庸布を納めるためにとられてしまうことになる。

 3 調=地方産物の納付 ex)布、絹、糸、塩

・調布も2丈6尺(8m)×幅2尺4寸(72僉砲任△襦B召砲話亙特産物を運んでおり、篠島あたりでは鮫の干物などを出している。

 cf)運脚(庸調の運搬)

・調、庸の納期は近国10月末、中国11月末、遠国12月末となっていて、運脚の負担もあった。
・運脚では、尾張からは上り11日、下り6日で、往復の食料も持参してゆく必要があった。陸奥からだと上り50日、下り25日の大旅行になる。途中で食糧が尽きて飢え死にしたり、山賊などに襲われることもあった。

Q5 運脚に持参した食料は何か。軽くて保存の利くものである。

A5 糒である。米を蒸して乾燥させたもので、お湯や水を入れて食べる。20年間保存ができるとされていた。

 4 雑徭=労役60日(国衙で)

年間60日、国司・郡司の元で道路や堤防の修理、雑多な用役にかり出された。この負担が重い。

 ※2〜4の負担者=成年男子(人頭税)
 cf)負担率
  正丁(21〜60歳):次丁(61〜65歳):少丁(17〜20歳)
   =1:1/2:1/4(少丁は庸免除)

B 雑負担
 義倉=凶作に備えて穀物供出
 出挙=食糧、種子用の稲の貸付→利稲をつけて返済(3〜5割)
  →後に強制化(国衙の収入)

・租で徴収した稲は倉に入れたままだと発芽力がなくなる。新陳代謝させるために貸し出していた。
・租は国衙の経常費には使わず、出挙の利稲収入を経費に充てていた。後には利稲は国司の儲けになっている。

  cf)仕丁(中央官庁での労役)

・50戸について正丁2人を3年間に渡って都に送り、労役につかせた。行っている間の食糧は50戸で負担していた。

C 兵役
 正丁3人につき1人が兵役→各国の軍団で訓練(軍団制)、装備自弁
  cf)衛士=宮城警固(1年)、防人=九州警備(大宰府、3年間)

・兵士は成年男子3〜4人に一人の割合で徴発された。近くの郡の軍団で毎年1カ月間訓練を受けた。武器は自弁だった。
衛士は都に送られて宮城の警備をするもので、毎年交代が立て前。若いときに徴集され、白髪になってから帰るという状況もあった。
防人は東海、東山諸国から徴集し、壱岐、対馬、九州北部に配属された。勤務は3年間で、定員は2000人くらいだった。

Q5 どうして防人は東国から徴発したのだろうか?

A5 東人が徴発されたのは、勇敢という理由の他、東国の人間が九州に行くと言葉も通じず、逃げ帰れないからという理由があった。また、被征服者の戦闘員 を他国に移す政策の一環だったとも言われる。蝦夷は8世紀に服属し、降伏者の一部は俘囚として西国へ移住させられている。

※農民負担の中心=強制労働→負担の過重が律令制を動揺させる

・律令制の負担は労役が中心であり、国有の奴隷として農民を国が使役したものである。

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