<律令制下の統治組織>
#1 [律令制の身分制度]
#2 A 良 官人(有位者)=五位以上が貴族
#3 B 賤 陵戸・官戸・家人(売買禁止)
#4 [律令の政治組織]
#5 A 官制
#6 B 官人
#7 [上級官人の特権(五位以上)]
#8 A 経済的特権
#9 B 身分的特権

<律令制下の統治組織>

 律令=唐の法律制度→律=刑法(唐制とほぼ同じ)
           令=行政法(日本の実情に合わせる) ex)神祇官の設置

・令はお上が出す命令であり、これに背くと律が適用される。律は唐律を直輸入して済ま せていた。しかし、行政法に当たる令はそうはいかない。日本の実情に合わせる必要がある。天皇が宗教家であったため、神祇官が置かれたのは日本独自であ る。
・民政は戸令(地方行政法、家族法)、田令(土地制度)、賦役令(税制)などに基づいておこなわれる。しかし、令の大半は官制関係の法規と官吏の服務規程 で、官位令(官位相当制度)、考課令(勤務評定)、職員令(官名と定員、仕事内容)などである。

 →完成したもの=大宝律令(701) cf)養老律令(718)

大宝 律令はもっとも完成した律令。しかし、現存しない。実際のところの中身はわからないが、養老律令によって復元できる
・大宝律令が突貫工事だったため、不比等は完成版を作ろうとしたらしい。養老律令は大宝律令の正規版である。その注釈書の「令義解」「令集解」が残ってい る。元の条文を引いて、それに対しての解説が載っているので、江戸時代から元の条文を拾い集めて復元する作業がおこなわれてきた。その結果、養老律497 条、養老令は953条が復元されている。ただし、律は全部ではないらしい。

[律令制の身分制度]

・奈良時代の人口は580万人と推定。どうやって調べたのか。官吏に給料として食封を 与える関係で、一つの郷の納税者の平均を330人としていた。郷の数は4000ほどあるので、これを元に戸籍に占める納税者の割合を計算して全体の人口を 産出している。比較的確かな数字だとされている。

Q1 580万人の人たちを支配するため、何人くらいの人たちがいたと思うか?

A1 役人の数は1万人。貴族は125人。政策決定に関わる者は10人程度。全く少ない人間で国を動かし、人々を支配していたことがわかる。このためには 法令 をきちんと整えることが大切である。しかし、人々の力が伸びてくれば、当然ながら抑えきれなくなってゆく。律令制は初めから無理があった。

A 良  官人(有位者)=五位以上が貴族

・役人(官人)の定員は1万人で、位階を持っている人。それまでの位階制は冠位十二 階、八色の姓で定められ、その後も改変があり、48階になっていた。大宝律令では、これを一位〜八位・初位の9つとし、中を正従、四位以下はそれぞれを上 下に分けて30階とした。
5位以上が貴族。当初は125人しかいなかった。政治に参 加できるのは、当初は太政大臣(臨時)、左右大臣、大納言4 人だけ。後に大納言を2人にし、令外官として中納言、参議5人を増設したが、それでも10人程度だった。

    公 民(一般農民) cf)品部・雑戸=朝廷隷属の手工業者

・大部分の人は公民と呼ばれて普通の農民。品部は1800戸、雑戸は2200戸あり、 世襲してきた繊維、皮革、武器、調度の政策技術で朝廷に奉仕をする人たち。

B   陵戸・官戸・家人(売買禁止)
    公奴婢・私奴婢(売買自由) cf)五色の賤(全人口の10%)

と 呼ばれる人たちの人口は良民の1割程度。
陵戸は天皇・皇族の墓を守る。一番良民に近いが墓を守って いたので賤視される。口分田も良民と同額で課役免除。良とは通婚不可。
官戸は良民と同額の口分田を与えられ、収穫稲は全て官納。 衣食は別途支給された。
家人は家族を持つことが許された点、売買禁止の点では奴婢 よりもよいが、相続の対象となり、口分田は良民の3分の1。不課口。
公奴婢と私奴婢は売買が自由であり、馬と同じ値段で取り引 き。稲800〜1000束の価格。下総大嶋郷では、1191人中9人しかいない。大多数は政府や貴族の持ち物だった。
・私奴婢の口分田は良民の3分の1で不課口。
五色の賤というが、私奴婢が大半を占めていた。このうちの 公奴婢と私奴婢は家族生活が許されなかった。それでも子供が生まれるので、生まれた子供は母の戸籍に入れていた。
・私奴婢は比較的扱いがよかったが、公奴婢は国有奴隷としてこき使われていた。東大寺に伝わった6通の文書で奴婢の生活が復元できる。749年9月、但馬 国から東大寺に5人の奴婢を出せという命令が来た。15〜30歳で容貌端正の者というのが条件。東大寺は国立寺院なので、ここで扱われる奴婢は公奴婢と いってよい。奴として出されたのは池麻呂24歳、糟麻呂24歳、藤麻呂15歳の3人。婢は田吉女19歳、小当女17歳の2人。750年1月、但馬から連れ 出され、4日で東大寺に到着。しかし、こき使われたためか、奴の3人はすぐに逃亡し、1ヵ月後には元の持ち主の所に逃げ帰ってしまった。東大寺では捜索 し、結局は5月に連れ戻す。しかし、よほど嫌だったのか、1週間後には2人がまた脱走。1人は元の持ち主の所に来たため連れ戻されたが、もう一人は行方不 明になってしまっている。

[律令の政治組織]
A 官制
  天皇=規定なく独裁可

・天皇は律令の制定者。法令に規制されない存在。太政官を飛び越えて政治に口出しをす ることができた。これは中国皇帝のあり方を継承したもの。太上天皇のポストも認めている。

 <中央>
  神祇官(祭祀)
  太政官(行政)−八省(一般政務)

神祇 官は唐にはない官職。宗教者でもある天皇をトップに据えた日本独特のもの。
太政官の中では議政官が重要。政治についての決定をする。 初めは5人で有力豪族が全ては入れなかった。このため、参議5人を新しいポストとして増やすことになった。少納言は秘書官で事務局にあたる。左右弁官は執 行機関で、議政官の決定を全官庁に及ぼす役割だった。
・太政官配下の八省は中務省、式部省、治部省、民部省(民政と租税)、兵部 省、刑部省、大蔵省(財政)、宮内省。

  弾 正台(官吏監察)、五衛府(宮城警固)

弾正 台は警察機関。官吏の監察の仕事もしていた。全国の治安維持を立て前としたが、実際には京内に活動が限られていた。
五衛府は中央常備軍。衛門府は宮城の門の警備400人、左右衛士府は宮中の警備それぞれ600人、左右兵衛府は行幸の際の守護などで、それぞれ400人だった。合計でも 2500人くらいで数としては多くはなく、宮中の警備対象なので京内には力が及ばなかった。勤務していた者は衛士と呼ばれ、諸国軍団から徴発された。

 <地方>
  行政区分=五畿七道−国・郡・里

畿内は 皇居周辺の諸国。初めは大和、摂津、山城、河内の4カ国だっ たが、後に和泉が河内から分かれた。住民にはいろいろな雑用 が課されることがあったため、調は半納で庸は免除されていた。
七道に沿って官道が整備され、その途上に国が置かれた。

Q2 国名を見ると上中下、前後がついてるものがある。これにはどのような規則性が認 められるか?

A2 都に近い方から上下、前中後となる。元もとは火の国、房の国、備の国、毛野などと呼ばれていたものが分かれたのである。

・尾張国府は稲沢にあった。郡は8つ設置され、愛智、知多、春部、山田、丹羽、葉栗、 中島、海部郡。
・官道には大中小路の区別があった。

Q3 七道のうち、もっとも重要視された道はどこか。また、それはなぜか?

A3 都から大宰府までは外交使節が通るので大路だった。

・官道には16キロごとに駅を置き、駅馬、厩舎、宿泊施設がある。反乱などの重大事の 連絡に使っていた。これらを利用するときは駅鈴が必要だった。東山道の神坂峠越えは40キロも駅がなく難所であった。一般の使者は伝馬を使っていた。
・関は三関(鈴鹿、愛発、不破)と呼ばれるものが大切。

Q4 三関が置かれた理由は何だと思うか?

A4 畿内から謀反人が東国に逃げるのを防ぐためである。東国にゆくとつかまらないのである。また、国境にも関はあった。

 国司(郡 司の監督、任期6年→4年、中央から派遣)

国司は 66国2島に派遣。国は大上中下に4区分され、伊勢、大和、近江、陸奥は大国、尾張、三河、美濃、山城は上国、若狭、丹後は中国、伊賀、志摩は下国とされ ている。中央から派遣され、任期は初め6年で、後に4年に改 められた。
・国司は中央政権の権威をカサに赴任。現在の国と県の関係と同じく絶対の存在である。

 郡司(地 方行政の中核、地方豪族任命、終身)

郡司 は地方豪族・国造の子孫であり、外従八位上か下の位階をもらい、一生を郡司として過ごした。国司が監督したが、元は一定額の税を中央に 納めれば、あとは好き勝手であった。
・大宝律令によって租税管理を国司と郡司の共同責任とし、収支決算を牛乳瓶100分の1の単位まで毎年報告させるようになり、中央集権化が進んでいる。ポ ストがあくと国司が推薦して身柄を式部省に送って面接をした。
・郡司は地方行政の中核であり、班田や戸籍作成、徴税は全て郡司が実務を担当していた。国司は命令をするだけである。
・郡司の屋敷は郡衙でもある。茨城県新治郡の郡衙跡には、50近い倉の跡が出て、郡内の米が集められていたことがうかがわれる。租庸調の取り立てには行列 をつくって出動していた。収入源は郡司職田で、大領であれば6町ももらえた。国司では2町6段が最高なので、郡司の方が財力があったと言える。


  里 長(徴税請負)

 ・里長は郡司の下請けで徴税をする役。庸と雑徭は免除され、後には郷長に なる。

  要地 京=左右京職、摂津=摂津職、九州=大宰府

京職は 朱雀大路の東西で分担し、都の司法・行政・警察を司った
摂津職は摂津の国司であり、外交の要地なので国司とは違え て別職名にしていた。
大宰府は「遠の朝廷(みかど)」と呼ばれ、朝廷のミニチュア版として外交 の窓口業務をおこなっていた。九州の総管轄で あり、西海道の税は大宰府に入った。防人司を置いて国防の指揮も 執った。

B 官人
  位階の授与→相当官職に任命(官位相当制)

・官吏は位階を授けられるが、それに応じて官職に任命された。位と仕事は連動する。例えば、正二位をもらえば左大臣、右大臣。従五位 上ならば、中央では少納言、地方では大国の守。
・位はいくらでも与えることができるが、官職には定員があるため、役に就けないこともある。これを散位と呼んでいる。

  4種上等官人配当(四等官)=長官、次官、判官、主典

・一つの役所の中にもそれぞれのポストがある。四等官は、今で言えば局長、次長、部長、課長というようなもの。それぞ れの役所ごとに書く字を変え、表記によってどこの役所のものかがわかるようにしていた。

    ex)国司=守、介、掾、目

[上級官人の特権(五位以上)]

・貴族の生活は優雅。大宝律令編さん者の下毛野古麻呂は600人の奴婢を持っていた。
・左大臣だった長屋王の生活はある程度復元できている。1988年9月、デパート建設予定地で4万点の木簡出土し、「長屋親王」の字が出てきた。屋敷は野 球場の1.3倍の広さ。中心の建物は360屬200畳敷き。周辺の御田、全国から物資が送られてきていた。鰹、鯛、鮎、鮑などを食べ、馬や犬の他に鶴も 飼っていた。牛乳を持ってこさせて蘇を作り、夏には氷を入れて酒を飲んでいた。氷は氷室で保存していた。

A 経済的特権
   食封=封戸の指定 祖(1/2)・庸・調をとる  ex)位封、職封、功封
   田地 ex)位田、職田、功田
    cf)禄、資人の支給

・位田、位封、位禄は5位以上の特権。田や封戸は私地私民の名残。職に就けば職田、職 封が加わる。
・正二位左大臣だった長屋王の年俸は米換算で6000石。1石5万円とすれば3億円。

B 身分的特権
   蔭位の制=父、祖父のおかげで位階授ける→貴族の地位世襲
   (5位以上の子、3位以上の孫まで)

貴族 特権は世襲でき、蔭位の制という。祖父が大納言で3位なら、孫も6位か7位を自動的にもらえた。中国では科挙制度があり、試験に受かれば身 分が低くても官吏に登用された。日本でも一般庶民からの登用制度はあったが、これで官吏になるのは難しかった。
・一般庶民が貴族になるためには位階を得る必要。13〜16歳で国学に入り、孝経、論語、礼記などを勉強する。10日ごとに試験があり、書中に一字欠けて いるのを補う問題を解く。年度末試験を受けて3年連続で下位だったり、9年在学して卒業できないと退学。この後、大学に進学して同じように卒業しないとい けなかった。最後は国家試験で秀才、明経(論語、孝経)、進士、明法(法律。後に分かれた)科を受けて合格すれば位階をもらえる。後には文章道(漢詩、歴 史)も試験科目に加わった。合格しても従八位下がやっとで、爺さんの身分が高かったぼんくらの孫に及ばない。庶民から官人になった例はなかったと言われて いる。

   刑罰の減免

・刑罰の免除の特権もあり、免職や罰金で済んでいた。

   cf)五刑=笞・杖・徒・流・死 but八虐(謀反、不孝)は減免せず

・律令の刑罰は五刑と呼ばれて5種類あった。は太さ1.2僉長さ1メートルの棒で衆人環視の中、10〜50叩く もの。は60〜100叩くもの。は 懲役1〜3年。は近(越前、安芸)中(信濃、伊予)遠(伊 豆、安房、常陸、佐渡)の差があり、には絞殺(謀反未遂) と斬殺(謀反、大逆)があった。

※律令制=旧来の支配階級の特権・地位の存続

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