<律令国家の完成>
#1 [壬申の乱と有力豪族の没落]
#2 A 天智後の皇位争い
#3 B 壬申の乱(672)
#4 [天武・持統朝の政治]
#5 A 天武天皇の政治
#6 B 持統天皇の政治

<律令国家の完成>
[壬申の乱と有力豪族の没落]

A 天智後の皇位争い

壬申 の乱は古代最大の内乱であり、この内乱を制した大海人皇子、 後の天武天皇によって律令体制は完成に向けて大きく前進している。
・内乱の原因は天智天皇死後の皇位継承争いだが、文学の世界からは女性をめぐる争いというロマンスが語られている。
・額田女王は女流歌人として当世第一と言われた。「万葉集」には短歌9首が収められ、いずれも秀歌。初めは大海人皇子の后で子もできた。しかし、後に天智 天皇の妻になってしまう。弟の妻を兄がとった。
・近江の蒲生野に薬狩りに行った際、別れた妻を見て大海人は手を振る。額田女王は「あかねさす紫野行き標野行き、野守は見ずや君が袖振る」と、誰かが見て いるとまずいからと心配する。大海人は「紫の匂へる妹を憎くあらば、人妻ゆえにわれ恋めやも」と答え、人妻になってしまっても恋しいのだと言っている。こ こから、妻をとられたのが壬申の乱の原因とする説が出る。
・この説は完全に否定されていて、2人の歌もお遊びだとされている。

 子・大 友皇子=有力豪族の後見
 弟・大海人皇子

天智 の子・大友皇子は、その母が伊賀の采女で身分が低く、天皇にはふさわしくなかった。天智天皇は、自分の後には弟の大海人皇子を立てるつもりだった。大友皇子が成長するにつれて立派 となり、「懐風藻」にも漢詩を多く残す優秀な人物と評価されるようになった。息子に天皇の位を譲りたいと考える。
・668年、高殿の酒盛りで、酔った大海人は長槍を天皇の前の床に刺した。天皇は怒って大海人を殺そうとしたが、中臣鎌足が諌めている。鎌足は、微妙な関 係になった兄弟の仲を取り持つ役割。
・669年、鎌足は56歳で死ぬ。天皇は見舞いに行き、大織冠(7色13階冠位の最高位。鎌足しかもらっていない)と大臣の位、藤原の姓を授けた。天智天皇と大海人の仲を取り持つ者がいな くなる。
・671年、天智天皇は大友皇子を太政大臣にして後継者であることを強調。兄が非情な政治家であることを知る大海人は、身の危険を感じるようになってゆ く。
・天智天皇は病気となり、病床に大海人が呼ばれた。蘇我安麻呂が「言葉に気をつけろ」と言う。天皇は大海人に対し、「跡を譲ろう」と言う。「はい」と言え ば殺されるかも知れない。大海人は「皇位は皇后に譲った方がよい。政治は大友皇子に任せれば大丈夫。私は出家します」と言い、その日のうちに僧形となって吉野に向かった。世の人は、「トラに翼をつけて放すようなもの」と噂す る。吉野は奈良の南の山の中で、古来、政争を避ける人が逃げ込む場所であった。

 →天智の死に際し大海人は吉野へ脱出

・天智は間もなく死んだが、大友皇子は即位するいとまがなく壬申の乱になる。実際には 天皇として振る舞っているので、江戸時代に編纂された「大日本史」では、弘文天皇という贈り名を付けている。

B 壬申の乱(672)
 大海人皇子の挙兵=東国豪族、大伴氏の呼応

・大友皇子が、天智天皇の墓を作るために人を集めているという情報が大海人皇子に入 る。これらに武器を持たせれば兵に変わってしまう。追討の挙兵と判断した大海人は、直轄地を持っていた美濃安八に脱出し、美濃国司(豪族?)と結んで兵を 挙げる計画を立てた。
・大海人は6月24日に吉野を脱出し、25日に伊勢に入る。大海人が吉野を出たというニュースは近江側にもたらされたが、大友皇子は大軍を組織して追討す るという計画を立てた。それが正攻法であるが、実際には騎兵を立ててすぐに追うのがよかった。東国に逃がしてしまったら捕まらない。
・6月27日、尾張国守が2万の兵を連れて大海人につく。大和の豪族・大伴吹負(ふけい)も大海人について挙兵を決めた。大海人は2軍に分けて不破関と大 和から近江朝廷を攻撃することとし、7月13日、瀬田川の橋に迫る。23日、近 江大津京は陥落し、大友皇子は首を吊って死ぬ

 近 江朝廷の滅亡(大友死)

Q1 大海人が勝てた理由は何か?

A1 地方豪族が味方になった点が重要である。

Q2 どうして彼らは大海人についたのか?

A2 彼らは大化改新で没落するグループであった。反面、大和の大豪族は中央集権体制の中で官僚化し、近江朝廷の中でその地位を確保している。このため、 政治 に対して不満を持つ地方豪族が、大海人につくことによって、その地位の向上を目指したのが壬申の乱の対立構造だと言える。

※有力 豪族打倒=天皇専制政治可能
 中央集権移行で打撃を受けた地方豪族の協力→官僚化

・美濃、伊勢、尾張の豪族は、この後に重く用いられた。例えば、草薙の剱を祭る熱田神 宮や、皇室の祖先神を祭る伊勢神宮は、もともとは地方豪族の神であった。これらが、この頃から皇室と結びついてクローズアップされるようになる。
・伊勢の場合、天武天皇は、673年に娘の大伯皇女を斎王として遣わし、伊勢神宮の祭祀制度を整えた。斎王は皇室の祖先神に仕え、神の言葉を天皇に伝えて 政治に反映させた。この時が確実な斎王の例の初見で、以後、天皇即位後に未 婚の内親王が斎王として伊勢の神に仕える制度が慣習化してゆく。690年からは式年遷宮開始されている。天皇が伊勢を重視したのは、東国へ の要衝であったためである。

[天武・持統朝の政治]
 飛鳥浄御原宮遷都

・大海人は、673年に飛鳥浄御原宮で即位した。浄御原宮は2代21年間の宮で、平野 に作った点で従来と異なっている。

 強力な天皇専制政治(皇親政治)

・宮廷歌人の柿本人麻呂は「大君は神にしませば赤駒のはらばふ田井を都となしつ」と 歌った。天皇を神と讃える文字が現れるのはこの時以後。
・大伴氏を除く有力豪族はほとんど没落し、天皇の権威は高まった。 天皇、皇后、皇子で政治のトップを固め、従順な中小豪族を官僚に抜てきして政治をしてゆく。これが皇親政治である。675年、一時復活した部曲を廃止し、官人には兵馬を 装備させる。

A 天武天皇の政治
 1 飛鳥浄御原律令の制定(律?)

・天武天皇は、681年、律令編さん開始を宣言した。律は刑法、令は政治の仕組みを定めた行政法である。

Q3 律と令ではどちらを優先して作るだろうか?

A3 国家の体制を固めなければならないのだから令である。

・容易には完成せず、天武没後、689年に令だけが完成して施行された。日本は律につ いては関心なく、支配の仕組みである令を優先。律は制定されないという説も強い。令も条文は不明。
・律は作成に時間がかかり、唐律を準用している。これは701年の大宝律令として制定 された。

 2 八 色の姓制定
  真人・朝臣・宿禰・忌寸・道師・臣・連・稲置
  天皇−皇族−豪族の身分階級の決定

・位階制は官僚制を整えるためには不可欠。勤務評定と叙位の基準として、家柄と個人の 能力を見ることが決められる。
八色の姓では、冠位十二階では適用外だった皇族にも位階を 授けている。皇族に対して真人を与えて最上位とし、朝臣は元の臣、宿禰は元の連に対して与えた。皇族をトップに据える政策であった。

 3 「帝 紀」「旧辞」の集成
  天皇中心の歴史伝承の整理

・「帝紀」「旧辞」の誤りを正して国史編纂に着手した。天皇の祖先が神代から現在まで、他の氏族よりも優越していたということを主張し、 天皇絶対化を図る。681年、川島皇子らに命じるが未完成。これが720年の「日本書紀」につながる。編集が進まないため、稗田阿礼1人を相手に天皇の考 えに基づいて編述をするが、これも未完成。これが712年の「古事記」につながった。

  cf)天武死後、后が大津皇子を謀殺して即位

・天武の後の皇位継承候補者は2人。一人は皇后ウノノヒメミコ(持統)の子の草壁皇 子、もう一人は妃大田皇女(父は天智)の子の大津皇子。大田皇女は大津皇子が5歳の頃に死んでいたため、皇后を母に持つ草壁皇子が有力。人物は大津の方が 上で、「懐風藻」は雄弁で大人物、学があり武術に優れると記している。草壁は何も記載がなく、凡庸だったらしい。天武は大津の方を愛するが、皇后の手前、 立太子することはできなかった。
・天武天皇は、自分の後に跡継争いが起こることを心配。6人の皇子を連れて思い出の吉野に行幸し、ここで吉野の誓いを立てさせる。「違う母を持つが、同じ 母から生まれたように慈しもう」と6人を抱き、「この誓いを破ったら私は死ぬ」とも言った。そして、この時には皇后も一緒に誓っている。
・ウノ皇后は、681年、草壁皇子を皇太子に立てることに成功するが、それでも心配。686年、天武天皇が死ぬと、大津皇子謀殺を計画した。大津皇子は、 天皇が死ぬと間もなく、斎王として伊勢にいた姉の大伯皇女を訪ねる。ウノ皇后によって殺されることを予感したものらしい。1カ月後、大津皇子は謀反を企て たとして死刑にされ、妃の山辺皇女も裸足のまま後を追って殉死する。
・大津は二上山に葬られ、姉の大伯皇女は伊勢から召還された。この時に詠んだのが「うつそみの人なる吾や明日よりは、二上山をいろせ(同母弟)とわが見 む」の歌。
・皇后は天武天皇の喪を厳重におこなった。689年、喪が明けて草壁が即位するタイミングの時、草壁は28歳で病没してしまう。その子の軽皇子はまだ7歳 だったため、即位させることはできない。この子の成長を待つためには、ウノが即位するしかなくなる。またもやピンチヒッターとなった。

B 持統天皇の政治
 1 飛鳥浄御原令の施行
   庚寅年籍の作成

・689年に飛鳥浄御原令が施行される。690年には新しい戸籍として庚寅年籍が完成する。以後、戸籍は6年ごとに作成されるようになる。こ れによって、ようやく班田収授がおこなわれたらしい。
・この頃から、税を田や戸ごとにかけるのではなく、人別負担とし、兵士も4人に1人を徴兵するようになった。戸籍が完備され、一人一人を把握できるように なったため。

 2 藤 原京の造営

Q4 それまでの天皇の居場所は「飛鳥板葺宮」など「宮」を付けて呼ぶ。藤原京は 「京」が付く。宮と京はどこが違うのか?

A4 京は都城であり、宮は天皇が住む建物である。今まで宮だけだったのは、都市計画がされた都が作られていなかったためである。

   初の唐風都城

藤原 京は大和三山(耳成、畝傍、天香具山)の中に建設された。持統・文武・元明天皇3代16年間の都城。
・地元で「大黒」と呼ばれる土地があったが、掘ってみると大極殿の跡だった。遺跡は1934年から7年がかりで発掘され、中国南北朝の都城をまね、条坊制を持っていたことが知られる。東西 2.1キロ、南北3.2キロの都市で、宮殿の規模は平城京や平安京よりも大きい。東西の京極は古道の下つ道、中つ道を利用していた。
・中央の通りは朱雀大路と呼ばれ、幅18メートルある。両側には7メートルの溝が掘られていた。小路は5メートル幅である。

Q5 どうしてそんなに広い道を作ったのか?

A5 東洋では、西欧の広場の代わりに大通りがイベントの場所になった。ヨーロッパは教会と広場を中心に同心円状に都市計画をする。広場がイベントの場 所。これに対し、東洋では道路は直線的で、中央のメインストリートでイベントをしている。この広さは無駄ではなかった。

・都建設のために近江からも材木を運んでいる。宇治川−木津川を運び、あとは陸送し た。建てられた寺としては薬師寺が有名。680年、皇后の病気平癒祈願のために建設が開始され、697年に完成している。

  cf)譲位=文武天皇

・孫の軽皇子が15歳まで成長したのに合わせ、697年に文武天皇として即位させた。持統は上皇となって後見にあたった。

 3 大 宝律令の制定
  刑部親王、藤原不比等による

・浄御原律令に代わる新しい律令は700年に制定が命令された。文武の治世を安定させ たい持統上皇の意志によるもの。刑部親王以下19人で編集に 着手した。刑部親王は天武天皇の子の中では最年長で、30代後半だった。この他には42歳の藤原不比等が入っていた。律令編さんは突貫工事が命じられ、浄御原令と 唐律を元に作成されている。

  →701年完成、古代国家の根本法となる

・701年、3月21日、律令公布の式典がおこなわれる。この年、日本では出ないとさ れた金が対馬で産出して献上された。これを記念して大宝の年号が 定められる。大化以来、白雉、朱鳥の2年号はあったものの、実際には干支が使われていた。大宝以後、年号は制度化されて現在に至っている。
・年号は皇帝の統治の象徴であるが、日本では中国と別年号を使っている。これは册封されていないこと、中国の臣下ではないという意志表示でもあった。
大宝律令は古代国家の根本法典となり、律令の官名は明治初 年まで、位階は戦前まで存続していた。このことから、形式的には明治になるまで律令国家だったと言える。
・6月8日、「庶務は新令に依れ」の勅が出て、国司、郡司に対しても租税管理をきちんとするように命令が出された。勅は全国にもたらされ、明法博士が出張 して地方で律令の講義をしている。大宝令の本物がもたらされたのは翌年になってからだった。
律令の命令は絶対的なものとされた。このため、陰陽道など のまじないの文句に「急々如律令」というものがある。絶対的な力を持った律 令は絶対的な力を持つ天皇に出されたと理解され、天皇中心の中央集権体制が成立したことを象徴している。

※天皇中心の中央集権支 配体制(律令体制)の成立
 cf)天皇称号、日本国号の使用?

Q6 「天皇」という言葉の意味は何だろうか?

A6 「天皇」の言葉は、中国で宗教的存在の天帝を意味している。天皇は農耕儀礼をおこない、豊作をもたらす宗教者でもあった。このため、皇帝という政治 権力 者の名ではなく、「天皇」という宗教性を持たせた名としている。「天皇」の称号は飛鳥浄御原令で定まったものとの説が強い。

・日本の国号も天武朝の頃から使用されたとされ、中国史書では「旧唐書」が初見であ る。702年に派遣された遣唐使が初めて対外的に用いたもののようである。
・国名が定まり、そのトップの地位名が定まった。このような点から、天武天皇が本当の意味で天皇制確立者、日本のドンと言えなくもない。

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