<改新政治の推移>
#1 [大化改新後の政治]
#2 A 中大兄皇子の権力掌握
#3 B 蝦夷(非服属民)の攻略
#4 [百済救援の失敗]
#5 A 同盟国百済の滅亡
#6 B 敗戦の影響
#7 [天智天皇の政治]

<改新政治の推移>
[大化改新後の政治]
A 中大兄皇子の権力掌握

・中大兄皇子は非情の政治家とされ、邪魔者は容赦なく消してゆく。最初の犠牲者は蘇我石川麻呂。中大兄の妻は石川麻呂の娘であり、石川麻呂は義父に当た る。蘇我氏は古代最大の豪族であり、政治の上では邪魔だった。石川麻呂は皇太子暗殺を企てたとして、攻められて死んでいる。現在、興福寺に納められている山田寺仏頭は、石川麻呂の建てた寺の本尊であった。

 孝徳天皇の有名無実化、飛鳥還都で対立

・中大兄は天皇もないがしろにし、独断で政治をしていった。653年、中大兄は突然に 飛鳥への還都を言い出す。孝徳天皇はこれを拒否し、中大兄は 母の皇極上皇、弟の大海人皇子、孝徳天皇の皇后で妹に当たる間人皇女を連れて飛鳥に戻る。天皇は一人淋しく難波に残される。
・間人皇女と中大兄皇子は同母兄妹であるが、2人は夫婦関係にあったとする説が出され ている。当時、異母兄妹は結婚可能だが、さすがに同母兄妹は不可であった。中大兄皇子は孝徳天皇の死後も即位せず、23年経って天智天皇となっていて、ど うしてずっと即位しなかったのかということが謎になっている。その理由は間人皇女と事実上結婚していたため、即位できなかったというのである。即位すれば 皇后を立てなくてはならないが、間人皇女では不都合。2人が夫婦であり、中大兄は間人皇女が死ぬまで即位できなかったのだと考えれば、説明が付く。飛鳥還 都も、孝徳と間人の仲を裂くためだったかも知れない。

 →孝徳の死、斉明即位(皇極重祚)、有間皇子(孝徳の子)処刑

・孝徳天皇は、自分を置いて飛鳥に去った皇后を恨み、病を得て死亡んだ。しかし、中大 兄皇子は天皇にはなれず、皇極天皇が重祚することになった。 重祚は一度天皇の座を退いた人物が再び天皇になることで、それぞれを一代ずつの天皇として数える。このため、名前が変わることになる。皇極天皇は二度目は 斉明天皇と呼ばれている。飛鳥板葺宮で即位したときは62歳。もうおばあちゃんであった。
・孝徳天皇には一人息子の有間皇子がいた。先ほどの理由で中 大兄皇子は即位できないので、斉明天皇が死んでしまえば、有間が即位する可能性が出てくる。これは中大兄としては手を打つ必要がある。
・当時、斉明天皇は離宮を造営したりの大工事に着手していた。「溝を掘るのに7万人、垣をめぐらせるのに3万人」と言われ、土木工事にかり出される人たち の恨みが募っていたという。658年、斉明と中大兄皇子が白浜温泉に湯治に行って留守になった際、蘇我赤兄が有間皇子に謀反をそそのかした。赤兄は「今の 天皇の失政は倉を建てて民の財を集積し、長い溝を掘って浪費をおこない、舟で石を運んで丘を作ったことにある」とし、皇子と謀反を謀議している。皇子は 「宮を焼き、軍を出して白浜からの道をふさごう」と言ったが、ここで肘掛けの足が折れてしまう。2人は不吉の前兆として会議を中止して別れた。赤兄は皇子 を裏切り、このいきさつを全て天皇に知らせてしまう。天皇の命により、皇子は逮捕され、白浜に護送されることとなった。途中、皇子が詠んだ歌が「万葉集」 に残されている。「磐代の浜松が枝を引き結び、真幸くあらばまた還り見む」である。この頃は、道中の無事を祈り、松の枝を結ぶしきたりがあったらしく、う まく戻って来れたなら、結ばれた松の枝をまた見よう、という意味である。しかし、皇子がこの木を見ることはもうなかった。
・天皇と中大兄から「どうして謀反を企てたか」と聞かれた皇子は、「天と赤兄と知る」と答える。「天」は「天皇」と意味とされる。「よくもはめたな」とい う恨み言で、皇子はその地で絞首刑となった。

B 蝦夷(非服属民)の攻略

・中央集権国家を建設するためには、中央の命令の届く範囲を確定しなくてはならない。 当時、東北日本と西南日本には、中央に従わない勢力が残っていたため、これに対しての攻略がおこなわれている。
蝦夷は近世以降は「エゾ」と読んでアイヌを指すが、古代で は「エミシ」と読んで東北日本にいた服属しない勢力を指す。 日本民族かどうかは定かではない。

Q1 東北日本の攻略の場合、どのルートをとることになるのか?

A1 東北攻略は日本海側の方がやりやすい。船を使えば距離的にも近い。太平洋側は大回りであるとともに、房総沖が通れない。「灘」の付く海は難所であ る。熊野灘、遠州灘も厳しい。日本海側はこういう場所がない。


 渟 足、磐舟柵(新潟)設置

・647年に渟足柵(新潟市信濃川河口)、648年には磐舟柵(村上市の潟)を作り、越と信濃の民を移して柵戸(きのへ)とし ている。「柵」は丸太で塀を作って囲い込み、中で農作業をなどをやらせた広大な開拓地兼砦である。

 阿倍比羅夫の遠征→秋田、津軽、cf)粛慎との交戦

・越の国守となった阿倍比羅夫は、180艘の船で秋田、能代に進出し、蝦夷に忠誠を誓わせ たという。後には粛慎(アイヌ?)と戦い、49人を生け捕り にし、熊2頭とともに朝廷に献じたという。斉明朝に中央勢力が東北に進出した事例として重要である。

[百済救援の失敗]
A 同盟国百済の滅亡

・654年、新羅では武烈王が即位して唐に入貢した。唐の援助を頼んで高句麗、百済を滅ぼし、半島統一を目指す。唐にとって も遠交近攻策となり、宿敵の高句麗を倒すために新羅の申し出を受け入れた。

 新羅・唐連合軍による攻撃・滅亡

・660年、唐は水陸13万の兵を援助して百済の攻撃をさせる。扶余が陥落し、百済王 は捕まり唐に送られた。百済の官女は崖から身を投じ、衣服が花のように開いて落ちていったという。落花石という史跡になっている。

 →救援依頼で出兵(661)

・この時、百済の王子豊璋が日本に来ていたため、遺臣の鬼室福信はこれを立てて百済を 再興しようとした。日本に対しても救援の依頼をする。同盟国 百済のピンチであり、日本は援軍を出すことにした。
・661年1月6日、斉明天皇は自ら水軍を率いて西下する。松山で額田王は「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今はこぎいでな」と歌っている。
・那の津に着いて宮を作るが、朝倉の神社の森を切って建てたため、神の祟りで天皇は病死してしまう。この時、喪に服す様を朝倉山の上から鬼が覗いたとい う。
・天皇が死んだにもかかわらず、中大兄皇子は即位せず、皇太子のままで戦いを指揮することとなった。661年1月に渡海し、兵は3万2千である。

 but白 村江の戦いで大敗(663)

・663年、唐・新羅連合軍は王子豊璋の依った周留城を攻略。日本の水軍が援助に向か う。日本の水軍は8月27、28日、白馬江という川の河口付近で繰り広げられた白村江の戦いで壊滅し、百済再興は不可能となる。

 =半 島の拠点を失う
B 敗戦の影響
Q2 白村江の敗戦は、日本にとって対外的、国内的にどのような影響をもたらすと思わ れるか?

A2 余勢を駆って唐・新羅連合軍が日本に攻めてくるかも知れない。防衛体制を充実させる必要が出てくる。また、中大兄に対して敗戦の責任追及がされる可 能性がある。

    唐の来襲の恐れ、外征失敗に対する批判
 1 防衛体制の充実
    防人、烽火、水城、金田・大野・屋島・高安城(朝鮮式山城)築造

・防衛のため、対馬、壱岐、筑紫に兵隊を駐屯させることにした。これが有名な防人である。
壱岐・対馬に烽火(とぶひ)を設置し、昼は煙、夜は火を焚 いて知らせた。また、大宰府防衛のため水城を建設している。 水城は川をせき止めて濠にする施設とも、単なる土塁ともいう。現在、高さ14メートル、長さ1キロの土塁が残っており、この下を電車が通っている。それだ けで大きな構造物だということがうかがわれる。
・戦いの時に立て篭もる砦として、朝鮮式山城も作られる。対馬の金田城、大宰府の大野城、讃岐の屋島城などであり、難波に攻め込 まれたことを考えて大和境に高安城も造っている。これらは百 済の技術者の設計によるものである。大野城は標高410メートルのところに築かれていて、石垣、土塁の延長は5キロに及んでいる。

    近江大津宮遷都

・敵は水軍で攻めてくるはず。大阪湾に上陸されれば飛鳥はすぐに攻められる。このた め、667年、内陸の近江大津宮に遷都をしている。

  but 唐・新羅は高句麗攻撃に全力→滅亡(668)、新羅の半島統一
 2 豪族勢力との妥協
    部民の所有認める=公民制、官僚制構想の後退

・皇太子の許しがあれば部民が復活することになった。これは豪族との妥協の表れであ る。

[天智天皇の政治]
 中大兄皇子即位(668)、大海人皇子の協力

・665年、間人皇女が死去した。このため、中大兄が天皇として即位することが可能と なり、668年に即位して天智天皇になっている。これで近江 朝廷が発足する。
・天智には4人の皇子が生まれているが、身分の高い母から生まれた者はいなかった。このため、弟の大海人皇子に天智天皇の長女・大田皇女と次女・ウノノサララ皇女(持 統)を嫁がせ、政治の補佐役とした。

 1 近 江令制定
    新官制の発足

近江 令は668年に制定され、22巻からなる。中臣鎌足が編さんし、 大宝律令の基礎とされるが、内容は全く不明。「日本書紀」には記載がななく、「弘仁格式」の序文に登場しているだけ。壬申の乱以後、天武系の天皇が続い て、この間に律令を定めている。天智天皇の系統は、8世紀末に光仁天皇が即位したことで復活し、以後は天智系が出続けることになるが、根本法典の律令は天 武系が定めたというのでは肩身が狭くなってしまう。このため、天智天皇の功績をたたえるため、近江令を定めたという話をでっちあげたのではないかとも言わ れる。

Q3 中央集権化を進めるためには、全国の人間を把握しないといけない。このために必 要なのは何か?

A3 戸籍である。公地公民制であれば、支配地域の民衆を直接把握しなくてはならない。

 2 庚 午年籍作成(670)
    日本最古の全国的戸籍

・670年、庚午年籍を 作成。九州から常陸・上野までに渡って作られたらしい。上野国だけで90巻、九州は全部で770巻あったという。この戸籍は永久保存とされた。この戸籍の 現物は残っていない。戸籍の郷の数が8〜9世紀の郷の数と一致しており、その点で信憑性が高いとされ、作成されたのは事実であるとされている。

    氏単位→国郡里単位の人民把握

・戸籍が作られたことにより、今までの人民支配のあり方が見直された。それまでは氏単 位であり、「誰のものか」という観点だった。これが国郡里単位となり、「どこにいるか」で把握したのである。これは支配の発想の転換である。ただ、戸内の 人を個人別に書き出すところまではいっていないとされる。


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