<大化改新>
#1 [改新前の情勢]
#2 A 大陸情勢の変化
#3 B 蘇我氏の独裁
#4 [大化改新のクーデター]
#5 A 改新政府の発足
#6 B 改新の詔(646)

<大化改新>
[改新前の情勢]

A 大陸情勢の変化
 1 隋の滅亡、唐の成立(618)

・613年、煬帝は第2次高句麗遠征を始めた。負担を強いられた人々が国内で反乱起こ し、617年、李淵(唐の高祖)が長安を占拠して隋は滅亡する。618年、 新たな中央集権国家である唐が建国された。

  貞観の治による国家体制充実(中央集権)

・唐の高祖は624年、武徳律令を施行し、628年には全国統一を完成する。整った法 律を出すことによって全土を支配する官僚制を完成し、強力な中央集権体制を作り出した。土地は国のものとして均田制で分配し、租庸調を徴収する。
・627〜649年には、太宗によって貞観の治がおこなわれ、唐の政治は充実してゆく。

   cf)遣唐使・犬上御田鍬派遣(630)

・623年から続々と留学生が帰国し、隋の滅亡と唐帝国の建国を目の当たりにした者た ちが状況を報告する。日本の為政者にとっては驚き。
・630年、日本は唐の成立に対していち早く反応し、遣唐使・犬上御田鍬を派遣。この後、遣隋使の旻が632年に帰国し、玄 理と請安が640年に帰国してくる。彼らは20〜30年も中国にいたため、唐の政治制度についても報告をしたはず。

 2 新 羅の中央集権化
  唐と結び、高句麗、百済圧倒

・642年、高句麗ではクーデターが起き、国王が宰相に殺される。この後、高句麗は百 済と結び、中央集権化の進む新羅を攻撃しようとした。新羅は唐と結ぶ。 高句麗は隋の時代からの中国の宿敵なので加担した。645年4月から戦闘が開始。この動きは日本に知らされ、大化改新はこの2カ月後に起きている。

※留学生の帰国で中央集権への動き強まる

・大陸では中央集権国家が誕生して大きな力を持ち、日本も真似る必要が出てきた。国内での豪族による分権支配では成長する民衆を抑えきれなくなっていた
・中央集権を図るとき、誰に権力を集中させるかが問題。皇族や中央豪族の中には、天皇に権力を集中させ、その宗教的な権威によって一括支配する方が容易に なると考える勢力が増加した。しかし、そのためには強大な蘇我氏が邪魔になる。

B 蘇我氏の独裁
 聖徳太子の死→蘇我蝦夷、入鹿の独裁体制確立

・622年、聖徳太子が49歳で死去する。晩年は政治から遠ざかり、仏教に重きを置く ようになっていた。蘇我氏と対抗できなくなったためと言われる。生前、「世間虚仮、唯仏是真」と語っていた。自殺説も流されている。后の橘大女郎は、太子 が行ったはずの天寿国の様子を刺繍させる。
・626年、馬子が死に、石舞台古墳に葬られる。推古朝を引っ張ってきた2人の政治家がいなくなり、馬子の子の蝦夷が大臣となる。628年には推古も死 ぬ。

 舒明

・跡継候補は敏達の孫の田村皇子(押坂彦人皇子の子)と山背大兄皇子(聖徳太子の子) の2人。年齢はそれぞれ36歳くらいだが、田村は馬子の娘・法提郎女を妻としていたため、義兄弟に当たる蝦夷は田村を支持した。一方の山背大兄は聖徳太子 の子なので煙たかったということもあり、結局は田村が即位して舒明天皇になった。
・641年、舒明は死んでしまう。皇位継承者は山背大兄皇子と舒明の子の古人大兄皇子、あるいは舒明の子の中大兄皇子という3人。古人大兄は蝦夷の姉妹の 子であり、甥に当たる。このため、蝦夷は古人大兄を支持した。しかし、一方では山背大兄を推す勢力もあり、年上の山背大兄を無視することもできなかった。

Q1 跡継で困ったときはどうする方法があるのか?

A1 ピンチヒッターで女帝を即位させるのである。

 →皇極天皇即位、

・一時しのぎに舒明の后であった宝皇女を即位させることにした。これが皇極女帝で、今回は完全なピンチヒッター天皇である。
・蝦夷はこの女帝を小馬鹿にしていた。天皇にしかできない農耕儀礼に口を出し、天皇に替わって雨乞いをしたりしたという。また、蝦夷は天皇に無断で入鹿に 大臣の位を譲り、紫冠を授けている。

 山背大兄皇子滅ぼす

・入鹿は中途半端な皇極ではなく、古人大兄を即位させたいと思う。邪魔なのは山背大兄 なので、643年、斑鳩に山背大兄を攻撃して滅ぼしてしまった
・古人大兄擁立には、舒明と皇極の子である中大兄皇子も邪魔である。とすれば、中大兄は身の危険を感じるようになる。

※反蘇我連合の形成(中大兄皇子、中 臣鎌足、蘇我石川麻呂)

・蘇我氏が専制を強めることに関し、伝統的氏族も反発するようになっていた。中臣鎌足もその一人であり、中大兄皇子に接近した。鎌足は、打毬の際に飛んだ中大兄の靴を渡した時 に話しかけたという。鎌足は31歳、中大兄は19歳とされる。2人は南淵請安などの留学生のところに出入りし、蘇我氏を打倒し、唐に手本をとった国作りを 目指すようになった。蘇我氏の分家筋にあたる蘇我石川麻呂も 仲間に引き入れてゆく。

[大化改新のクーデター]
 蘇我氏打倒(645)

・蘇我氏打倒のクーデターは、645年6月12日に実行されることになった。「日本書 紀」はこの時の様子を詳しく記しており、一つの見せ場となっている。
・三韓の使者が来たため、調を進める儀礼を飛鳥板葺宮でおこ なうことになっていた。大極殿には天皇と入鹿が座したが、入鹿の剣は宮中の道化に外させておいた。宮中の門を閉じさせて刺客2人を立て、石川麻呂が上表文 を読むのを合図に斬りかかる手はずとなっていた。また、中大兄は長槍をとり、鎌足は弓矢を持って待ちかまえた。
・石川麻呂が上表文を読み始めても、刺客が怖じ気づいて斬りかからない。上表文は終わりかけ、石川麻呂はばれたかと思って震えてしまう。入鹿は怪しんで 「なぜ震えるのか」と聞き、石川麻呂はしどろもどろに「天皇のお前なので」と答えるのが精一杯だった。感づかれたかと思われたとき、中大兄が切り込んだ。 入鹿は頭と肩を切られ、天皇は「何事か」と聞いたが、中大兄が「皇位を脅かすものを討った」と言うと、奥には入ってしまった。
・蝦夷は甘橿丘の屋敷にこもって防衛体制を敷いたが、抵抗できないと見て13日に自害している。

A 改新政府の発足
 孝徳天皇即位、皇太子・中大兄皇子、内臣・中臣鎌足

・蘇我氏打倒後、中大兄は天皇にならなかった。20歳の中大兄が立つと、皇位を望んだ ためにクーデターを起こしたと後ろ指を指されるし、儀礼の多い天皇よりも皇太子の方が動きやすかったためとされる。
・即位したのは軽皇子で、50歳になる皇族の長老だった。皇極の兄に当たり、中大兄皇子にとっては伯父である。
鎌足は内臣となった。これは百済の政治制度の真似で、天 皇・皇太子の補佐役である。また、従来の大臣、大連は廃止となり、代わりに左 大臣、右大臣が置かれ、阿倍内麻呂、蘇我石川麻呂が任じられた。これは唐の官制の真似である。これらの役職は、もちろん皇太子よりも下位で ある。

 国博士・高向玄理、僧旻

国博 士は政治顧問であり、留学していた高向玄理、僧旻を 任じている。唐の政治制度は彼らが紹介したものである。南淵請安は政権に関わっていないが、新政策の背景には彼の影響があったはず。政権に関わっていない 理由はわからない。死んでいたかも知れない。

  cf)大化の年号制定、難波長柄豊碕宮遷都

・新しい政治を始めるため、大化の年号を定めた。これが日本で初の年号とされる。しかし、法的根拠 はなく、実際には干支が使われていたらしい。とすれば大化は私年号であり、聖徳太子の頃、法興という私年号が使われていたので、大化は日本最初でない可能 性もある。
・大化以後ずっと年号が定められたということはなく、白雉、朱鳥というのが決められたが途切れ途切れである。年号が制度として確定するのは大宝からであ り、それは大宝律令が定められたことによっている。
・6月19日、大王家と群臣が大ケヤキの木の下で誓約をしている。年末には難 波長柄豊碕に遷都したが、これは大陸との交通の便を考えたものらしい。

B 改新の詔(646)
 新政の施政方針示す

改新 の詔は、646年正月に新しい政治の方針を打ち出した。一時に全てが実施されたわけではない。

 第1条 公地公民制=子代、屯倉、部曲、田荘の廃止→俸禄制=官吏への食封支給

・私有地、私有民を廃して公のものとし、豪族を国家の官吏として、上級者には食封、下 級者には布帛という俸禄を与える。

 第2条 中央集権=都、畿内、国司−郡司の設置、軍事交通制度の充実

・中央である都を定め、その意志が地方にピラミッド状に伝わってゆく体制を作ったもの で、伝えるための伝馬、駅を設けるとしている。

 第3条 戸籍、計帳、班田収授の実施

・公地制をとるため、土地を農民に貸与して耕作させる必要が出てくる。このモデルは唐の均田制である。戸籍は班田収授の台帳、計帳は税の台帳である。

 第4条 新税制の施行

租庸 調の税をとることにしている。

※中央 集権制への第一歩
 土地・人民の豪族支配→朝廷による直接支配
 but 詔の内容は天武朝で実現

Q2 大化改新では郡司を置いたことになっている。国の下に郡という行政区分を設けた 上でのことであるが、遺跡から出土する木簡には「郡」の文字はなく、国の下には「評」が置かれていたことが判明した。このことは何を意味するのか?

A2 大宝令以前は「郡」ではなくて「評」だったのである。とすれば、郡司を置くというのは矛盾している。これが郡評論争である。ここから、改新の詔は 「日本書紀」編纂の時にでっちあげたものという説が出てくる。

・大化改新でっち上げ説は一時に比べて影をひそめている。全てでっちあげられたもので はなく、少なくとも第1条は、文体から見ても奈良時代のものでないとされる。第2条以下の内容は大宝令と同じであるため、「日本書紀」の編者が脚色した可 能性があり、不明な点を加筆しているのだろうという。
・大切なのは、この時に全てがすぐに実現されたものではないことである。あ くまでも政治目標なのであり、これらの大部分は天武朝で実現している。
・大化改新では、天皇中心の国家が樹立されたこと、すなわち豪族の分権支配が否定され、国家の官吏にされていったことが重要であ る。それまでの部民は豪族の支配民から天皇の支配民に変わっている。制度上、天皇・皇太子は位階制でトップになっている。
・この他に大化の薄葬令などが出されていて、大規模古墳は作られなくなってゆく。古いしきたりとの決別が図られているのである。

目次に戻る   トッ プページに戻る

Copyright(C)2006 Makoto Hattori All Rights Reserved