3 律令制中央集権国家の建設 <推古朝の政治>

 古代の女帝は有力な皇位継承者が幼少であったり、継承候補者が複数いて対立が生じている場合にピンチヒッターとして立てられる場合が多い。崇峻天皇の暗 殺後、[1]天皇が初の女帝として即位し、その政治を補佐する(2)として甥の[3]が就任した。この時代、崇峻を暗殺した[4]と(3)の協力で政治が おこなわれとされるが、(3)の事蹟については「日本書紀」による潤色が甚だしく、半ば伝説上の人物ととらえる説もある。
 この頃、中国では新たな統一国家として[5]が建国され、朝鮮半島でも[6]の力が強まった。日本は600年には第一回の[7]を(5)に送り、半島最 南端に出兵して(8)の回復を試みたがうまく行かなかった。(6)との対抗上、日本も中央集権化が必要となっていたのである。この場合、誰に権力を集中さ せるかで(3)と(4)は意見が合わず、両者の妥協で政治がおこなわれることになる。
 603年に定められた[9]は、能力に応じて個人に位階を授けるものである。それまでの姓が一族で世襲されていたのに対し、豪族を国家官僚として組織し ようとしたものであった。最高位は(10)で、以下、儒教の徳目に基づいて位階名が付けられた。(4)は位階を授ける立場にあったといい、これをもって天 皇の力が(4)を上回ったわけではない。604年に出された[11]は豪族間の融和を求め、[12]を国家統一の理念に据え、天皇への服従を定めたもの で、皇室を中心とする政治理念を提示している。ただ、これについては「日本書紀」の潤色という説もある。また、天皇権威の高揚のため、天皇中心の歴史書と して「(13)」「(14)」が編集されたとされるが、完成後も(4)の家に置かれて公にされず、大化改新の際に焼失したという。
 (3)の内政については、伝えられるところと実態とがかけ離れていることも予想され、この時代の歴史を不透明なものにしている。しかし、外交については 中国側史書による裏付けがある。[15]年、日本から派遣された(7)の記事は「日本書紀」のほか「[16]」にもあり、それによれば従来のような朝貢で はなく、対等外交を求めたことがうかがえる。半島の拠点を失った日本は、(5)からの文化の直接導入を目指したのであり、そのことは半島系渡来人と結ぶ (4)にとって打撃となった。また、中国皇帝と天皇が対等となれば、国内での天皇権威は一挙に高まり、(4)をしのぐことになる。しかし、(5)の皇帝で ある[17]がそれに応じる保証はなく、(5)に使いとして渡った[18]の身の危険も予想されたのである。対等外交を求める日本に対し、(17)は無礼 であると怒ったが、この頃は[19]への遠征が計画されており、遠交近攻策から日本と手を結ぶことは有益であった。このため、翌年、答礼使として[20] が来日したのである。この点で、(3)の外交は大成功であったと言える。この後に派遣された第三回の(7)では、留学生として[21〜23]が派遣されて いる。彼らは日本に(5)の文物をもたらしたのみならず、同国の滅亡と唐の建国という出来事を見聞して帰国し、後の大化改新に大きな影響を与えることに なった。

<解答>
(1)推古 (2)摂政 (3)厩戸王(聖徳太子) (4)蘇我馬子 (5)隋 (6)新羅 (7)遣隋使 (8)任那 (9)冠位十二階 (10)大徳  (11)十七条憲法 (12)仏教 (13)天皇記 (14)国記 (15)607 (16)隋書倭国伝 (17)煬帝 (18)小野妹子 (19)高 句麗 (20)裴世清 (21~23)高向玄理、旻、南淵請安


<大化改新>

 (1)年、中国では隋が滅びて新たに唐が建国された。唐は律令を定めて中央集権化を進め、貞観の治によって国家体制が充実してゆく。日本からは(2)年 に第一回遣唐使として[3]が派遣され、先に派遣されていた隋への留学生も帰国して中国情勢が伝えられた。一方、朝鮮半島では新羅が唐と結んで中央集権化 を進め、高句麗や百済を圧倒するようになる。この中で、日本でも政治の刷新の必要性が高まることになった。
 厩戸王(聖徳太子)と蘇我馬子、推古天皇の死後、政治をおこなったのは[4]とその子の[5]である。新たな天皇としては舒明天皇が立てられたが間もな く亡くなり、有力な皇位継承者が3人現れる中で、ピンチヒッターの女帝が立てられることになった。これが(6)天皇である。(5)は皇位継承候補で厩戸王 の子に当たる[7]を襲ってこの一族を滅ぼし、独裁体制を確立するが、これに対し、(6)天皇の子の[8]、連の姓を持つ伝統豪族の[9]、蘇我氏の分流 の(10)からなる反対勢力が形成された。彼らは蘇我氏を倒して政権を奪うクーデターを画策し、[11]年に実行に移した。これにより、(4)と(5)は 滅び、新たな天皇として(6)天皇の兄が即位して[12]天皇となり、都はそれまでの(13)から[14]へと移された。また、(8)は[15]、(9) は(16)に就任したほか、中国から帰国した留学生の[17]と[18]は[19]となって政治顧問を務めた。このとき、初めて(20)の年号を定めたと されるが、これについては異論もある。
 翌年、新しい政治のスローガンとして出されたのが[21]である。4ヶ条からなり、第1条では皇室の私有民である(22)、政権直轄地である(23)、 豪族私有民の(24)、私有地の(25)を廃止し、土地や支配民を失う豪族には(26)を支給して国家の官吏とした。従来の私有地、私有民が廃され、いわ ゆる(27)制が採用されたのである。第2条では都とその周辺である(28)が定められ、各国に(29)、その下の郡に(30)を設置した。天皇の意思が 地方に伝えられるような交通制度として(31)制を導入して(32)を置いた。地方分権からいわゆる(33)への転換である。第3条では、公のものとなっ た土地を人々に貸与して耕させる仕組みとして(34)の実施をうたい、そのための台帳である(35)、課税の台帳である(36)の作成を定めている。そし て第4条では、租庸調からなる新しい税制を規定している。
 (21)はあくまでも新政の基本方針であり、このときにすべてが実現したわけではない。また、このときに郡を置いたことになっているが、実際に置かれた のは(37)であり、ここからいわゆる(38)と呼ばれる論争が生じ、大化改新自体が「日本書紀」の潤色であるという説も出された。いずれにしても、これ によって[33]への舵取りがされたのは事実であり、最終的に(21)の内容は(39)天皇の時代になって完成することになる。

<解答>
(1)618 (2)630 (3)犬上御田鍬 (4)蘇我蝦夷 (5)蘇我入鹿 (6)皇極 (7)山背大兄王 (8)中大兄皇子 (9)中臣鎌足  (10)蘇我石川麻呂 (11)645 (12)孝徳 (13)飛鳥板蓋宮 (14)難波長柄豊碕宮 (15)皇太子 (16)内臣 (17)高向玄理  (18)旻 (19)国博士 (20)大化 (21)改新の詔 (22)子代 (23)屯倉 (24)部曲 (25)田荘 (26)食封 (27)公地公 民 (28)畿内 (29)国司 (30)郡司 (31)駅 (32)伝馬 (33)中央集権 (34)班田収授 (35)戸籍 (36)計帳 (37) 評 (38)郡評論争 (39)天武


<改新政治の推移>

 大化改新の後、政治権力を掌握したのは中大兄皇子である。蘇我氏を倒した中心人物の彼が天皇とならず、皇太子にとどまったのは、儀式の多い天皇となるよ りも政治力を行使しやすかったからだという説がある。彼はいわゆる(1)の問題をめぐって孝徳天皇と対立するが、天皇の死後も中大兄皇子は即位を見送り、 ピンチヒッターとして再び皇極天皇が即位することとなった。こうした事態を(2)といい、彼女は新たに(3)天皇と呼ばれることになる。この後、中大兄皇 子は孝徳天皇の子である(4)を処刑して反対勢力を取り除いている。
 中央集権国家を築くためには、国家権力の及ぶ範囲を画定する必要がある。このため、東北地方に住む非服属民である[5]の攻略を命じている。この地方の 計略は日本海側から進められ、大化改新後には現在の新潟県に[6]、[7]という前進基地が置かれている。この後、越の国守となった[8]は秋田、津軽方 面への遠征をおこない、さらには(5)とは別の人々である(9)との交戦もおこなっている。
 一方、朝鮮半島では新羅が唐と通じ、遠交近攻策を取って高句麗、百済への攻略を計画した。最初に攻められたのは百済であり、660年、首都の扶余が陥落 して滅亡に追い込まれている。これに対し、百済の遺臣は日本にいた百済の王子を立てて国の再興を図り、日本に援助を求めた。661年、中大兄皇子は出兵を 命じたが、(10)年、[11]の戦いで大敗を喫して百済再興は不可能となり、半島の拠点を完全に失うこととなった。そして唐・新羅連合軍が日本に来襲す る恐れも生じ、中大兄皇子は防衛体制の確立を急ぐことになる。対馬や壱岐には来襲を知らせるための(12)を置き、九州の拠点である(13)を防護するた め[14]を設置した。対馬、九州、四国、近畿の要所には(15〜18)という陣地を構えたが、これらは亡命してきた技術者を駆使して築いた[19]と呼 ばれるものであった。九州防衛のための兵として[20]を設置したのもこのときである。また、防御しにくい飛鳥の都を捨て、東国への脱出を考慮して [21]への遷都をおこなっている。しかし、唐と新羅は高句麗の攻略に全力を傾け、幸いにも日本への来襲はおこなわれなかった。668年、高句麗は滅び、 朝鮮半島は新羅が統一している。なお、中大兄皇子は敗戦の責任も問われることとなり、国内の豪族勢力との妥協も迫られた。(22)の所有を認めたことは、 公民制構想を後退させる措置でもあった。
 668年、中大兄皇子は(21)で即位して[23]天皇となった。政治の協力者には弟の(24)を定め、娘を嫁がせている。(23)天皇はここで初の令 である[25]を定めたとされ、新官制が発足した。しかし、これについては異論も多い。中央集権化を進めるために欠かせないのは人民の把握であるが、その ための全国的戸籍として、670年には[26]を作成している。今まで氏を単位として把握していた人々を国郡里単位で把握しようとしたもので、この戸籍は 永久保存される定めであった。このように、権力争いや外征などの紆余曲折を経ながらも、日本の中央集権化は進められることとなったのである。

<解答>
(1)飛鳥還都 (2)重祚 (3)斉明 (4)有間皇子 (5)蝦夷 (6)渟足柵 (7)磐舟柵 (8)阿倍比羅夫 (9)粛慎 (10)663  (11)白村江 (12)烽火 (13)大宰府 (14)水城 (15~18)金田城、大野城、屋島城、高安城 (19)朝鮮式山城 (20)防人  (21)近江大津宮 (22)部民 (23)天智 (24)大海人皇子 (25)近江令 (26)庚午年籍


<律令国家の完成>

 天智天皇の次の皇位は弟の[1]と子の[2]が争うことになった。天智天皇は当初は弟に皇位を譲るつもりであったものの、子の成長によって心変わりし、 これを太政大臣に就任させたりしていた。身の危険を感じた(1)は天智の死の直前に(3)に脱出し、ここで政権奪取のために挙兵に踏み切った。これが [4]年に起きた[5]である。大和以来の有力豪族は(2)に味方したが、(1)は東国豪族や大伴氏の呼応を得て戦いを有利に展開し、近江大津宮は陥落し て(2)は自殺をした。この乱は、中央集権化で官僚化してゆく中央の有力豪族に対し、没落する勢力が(1)を支持したものであり、彼らは新たな政権の中で 優遇されることになった。
 (1)は都を[6]に遷し、ここで即位して[7]天皇となった。彼は中小豪族を官僚に抜擢し、皇族を政権の中枢に置くいわゆる(8)政治を展開した。有 力豪族が(5)で没落したため、(7)天皇は強力な天皇専制政治をおこなうことができた。「大君は神にしませば…」と歌われ、天皇が神格化されてゆくのは これ以後である。天皇は新たな官制を発足させるため[9]の制定を命じ、位階制を改めるために[10]を制定した。ここでの最上位の位階は(11)であ り、皇族に与えられ、天皇−皇族−豪族という身分階級が定まった。また、天皇中心の歴史書を編さんするため、「[12]」「[13]」の集成を命じ、後の 「古事記」「日本書紀」に受け継がれることになった。
 (7)天皇の死後、有力な皇位継承者として草壁皇子と(14)の名があがった。草壁皇子の実母である皇后は、我が子の即位を目指して(14)を謀殺した が、草壁皇子は病没し、その子がまだ幼かったため、祖母に当たる皇后がピンチヒッターとして即位することになった。これが[15]天皇である。天皇は (9)を施行し、新しい戸籍として(16)を作成させた。戸籍が6年ごとに作られるようになったのはこれからであり、班田収授がおこなわれるようになった らしい。また、大和三山に囲まれた地に[17]が造営されたが、これは条坊制という都市計画に基づいた日本初の唐風都城であった。天皇は孫の成長を待って 譲位し、新たに[18]天皇が即位することになった。また、(9)に代わる新たな法令として[19]の制定を命じ、(20)や(21)が編さんに携わっ た。これは(22)年に完成し、以後、古代国家の根本法典として使われることになった。
 (19)に基づく天皇の命令は絶対であり、こうして大化改新以来の念願であった天皇中心の中央集権国家はその体裁を整えることになった。その体制を支え たのが律令という法令だったことから、これを律令体制と呼ぶ。また、天皇という称号が定着するのもこの頃であるとされ、合わせて日本という国号も定まった とされる。この意味で、(7)(15)の時代は「日本」が確立した時代でもあった。

<解答>
(1)大海人皇子 (2)大友皇子 (3)吉野 (4)672 (5)壬申の乱 (6)飛鳥浄御原宮 (7)天武 (8)皇親 (9)飛鳥浄御原令  (10)八色の姓 (11)真人 (12)帝紀 (13)旧辞(14)大津皇子 (15)持統 (16)庚寅年籍 (17)藤原京 (18)文武  (19)大宝律令 (20)刑部親王 (21)藤原不比等 (22)701


<律令制下の統治組織>

 律令は唐の法律の制度であり、律は[1]、令は[2]となる。令は日本の実情に合わせて制定され、例えば天皇が祭祀者でもあったところから唐令にはない [3]が設置されたりしている。これに対し、律は唐律を準用している。完成したものは701年の大宝律令であるが、この完成版である(4)が(5)年に完 成している。
 奈良時代の人口は580万人と推定され、それを統治する役人は1万人、貴族は125人、政策決定に関わる者は10人程度であった。位階を持つ者は(6) と称され、(7)以上の位階を持つ者が貴族である。一般農民は(8)といい、このほかに朝廷に隷属する手工業者として(9,10)がいた。身分の上で以上 が[11]と呼ばれる。これに対し、全人口の10%は[12]と呼ばれた身分で、5種類あったところから[13]と総称される。売買が禁じられた者のう ち、天皇などの陵墓を守ったのが[14]、国家に隷属したのが[15]、貴族などの下僕が[16]である。売買対象となったものに国有奴隷である[17] と民間奴隷の[18]があった。
 律令の官制では天皇の規定がなく、独裁が可能であった。中央官庁には祭祀をおこなった(3)、行政を司った[19]があり、そのもとに[20]と総称さ れる政務に当たる官庁が置かれた。官吏の監察のためには[21]があり、宮門の警固に[22]、宮中警備に[23]、行幸時の警備に[24]が置かれ、総 称して[25]と呼んだ。
 天皇の命令は地方に伝えられた。そのための官道沿いに国が置かれ、その下に郡、さらにその下に里が置かれた。都の周辺を畿内と称し、5カ国あったところ から[26]と総称し、[27〜31]である。官道は[32]と総称し、[33〜39]が置かれた。国のトップは[40]であり、中央から派遣され、任期 は当初6年、後に(41)年となっている。郡に置かれた[42]は地方行政の実務に当たり、地方豪族が任命され、終身であった。里をまとめた[43]は徴 税吏である。要地のうち都の司法・行政・警察を司ったのが[44]、畿内の外交の要地である(45)を統括したのが[45]職である。九州には朝廷のミニ チュア版として[46]が置かれた。
 官庁に勤務した(6)は与えられた位階に応じて官職に任じられ、この制度を[47]という。各官庁には4種の上等(6)が置かれ、この制度を[48]と呼ぶ。いずれも[49〜52]と称するが、官庁によって表記で区別し、(40)の場合は(53〜56)となる。
 貴族には様々な特権があった。[57]は位階や役職に応じて(58)を指定して租庸調を収入にさせたもので、ほかにも田地や禄、資人が支給された。 [59]は父や祖父のおかげで位階を得る制度であり、貴族身分の世襲につながった。当時の刑罰には[60〜64]があり、[65]と総称されたが、貴族で あれば減免の特権があった。ただ、(66)など[67]と総称された罪は減免されなかった。

<解答>
(1)刑法 (2)行政法 (3)神祇官 (4)養老律令 (5)718 (6)官人 (7)5 (8)公民 (9,10)品部、雑戸 (11)良  (12)賎 (13)五色の賎 (14)陵戸 (15)官戸 (16)家人(17)公奴婢 (18)私奴婢 (19)太政官 (20)八省 (21)弾正 台 (22)衛門府 (23)左右衛士府 (24)左右兵衛府 (25)五衛府 (26)五畿 (27~31)摂津、河内、和泉、大和、山城 (32)七 道 (33~39)北陸・東山・東海・山陽・山陰・西海・南海道 (40)国司 (41)4 (42)郡司 (43)里長 (44)左右京職 (45)摂 津 (46)大宰府 (47)官位相当制 (48)四等官制 (49~52)長官=かみ・次官=すけ・判官=じょう・主典=さかん (53~56)守・ 介・掾・目 (57)食封 (58)封戸 (59)蔭位の制 (60~64)笞・杖・徒・流・死 (65)五刑、(66)謀反、不孝、(67)八虐


<律令制下の農民>

 律令制のもとで班田収授を実行するために作成された書類が[1]である。[2]年ごとに[3]を単位に作成され、作成実務に携わったのは(4)であっ た。また、課税台帳として作成されたのが[5]であり、これは毎年作られた。(3)は(6)が統率する親族集団であり、平均すると25人程度の規模であっ た。[7]は数戸で(3)を構成する小家族であり、実際の生活の単位であったと考えられる。
 班田収授は[8]歳以上の人々に土地を貸与し、死後、収公する制度である。貸与される土地を[9]と呼び、面積は男子は[10]、女子は(11)、奴は (12)、婢は(13)となっていた。貸与がおこなわれる年を(14)と呼び、[15]年に一度である。班田をおこなうためには土地をきちんと四角に区画 しておく必要があり、これを[16]と呼んでいる。唐では女子への班田はおこなわれなかったが、日本では班給しており、生活保障的な色彩が強かった。
 土地を貸与された農民は税負担の義務がある。[17]は(9)を貸与された者が負担する税で、当初は段あたり稲を[18]納めた。後には(19)となっ たが、実質的な負担には変化がない。おおむね収穫の[20]%程度であり、負担としては重くはない。これは[21]に納められてその経費となった。(9) のように(17)のかかる田を(22)と呼ぶ。これに対し、税負担のない田を(23)と称し、(24)はその代表であった。[25]は(26)とも呼ば れ、都に上っておこなう労役であり、年に[27]日となっていた。実際に上京することは難しいところから代わりに[28]を納めてもよく、その長さは [29]となっていた。[30]は地方産物を中央に納めるもので、(28)や絹、塩などである。(25)や(30)を都に運ぶのは負担者である農民であ り、運搬負担を[31]と呼んだ。東国からだと2ヶ月ほどの大旅行となり、途中で食糧がつきて行き倒れとなる者も多かった。また、[32]は(21)で年 間[33]日負担する労役であり、後には国司の私用に使われて問題化している。(17)を除く負担は男子に対して課されたもので、特に21〜60歳の [34]に対しての負担が重かった。律令制のもとでの税負担は基本的には人頭税であり、公民は国有奴隷の性格を持っていた。このほか、凶作に備えて穀物を 供出させる[35]という制度があったが、農民にとっては一種の負担になっていたし、さらに、食糧や種子用として稲を貸付ける[36]は、3〜5割の高率 の利稲を付けて返済しなくてはならず、後に(21)の収入を確保するため強制化されていった。このほか、50戸について(34)2人を中央官庁の労役に差 し向ける(37)の負担もあった。律令国家は徴兵制をとっており、(34)のうち[38]人に一人の割合で徴発され、各国に置かれた[39]で訓練を受け させられた。装備は自弁であり、兵士を送り出した戸の負担は大きかった。また、その中から選ばれた者は[40]として1年間の宮城警備に就いたり、 [41]として3年間の九州警備の任に就いて(42)などに赴くこととなった。農民の負担の中心は強制労働であり、やがてその過重な負担に耐えかねる者が 続出してくる。そのとき、律令制に動揺が生じるのである。

<解答>
(1)戸籍 (2)6 (3)郷戸 (4)郡司 (5)計帳 (6)戸主 (7)房戸 (8)6 (9)口分田(10)2段 (11)1段120歩  (12)240歩 (13)160歩 (14)班年 (15)6 (16)条里制(17)租 (18)2束2把 (19)1束5把 (20)3 (21) 国衙 (22)輸租田 (23)不輸租田 (24)寺田 (25)庸 (26)歳役 (27)10 (28)布 (29)2丈6尺 (30)調 (31) 運脚 (32)雑徭 (33)60 (34)正丁 (35)義倉 (36)出挙 (37)仕丁 (38)3〜4 (39)軍団 (40)衛士 (41)防 人 (42)大宰府・壱岐・対馬

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