3 律令制中央集権国家の建設
<推古朝の政治>
#1
[6世紀の内外情勢]
#2
A 蘇我氏の強大化
#3
B 大陸情勢の変化
#4
[聖徳太子と馬子の政治]
#5
A 内政
#6
B 外交
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3 律令制中央集権国家の建設
<推古朝の政治>
[6
世紀の内外情勢]
A 蘇我氏の強大化
推古天皇即位(初の女帝)、
・推古
天皇は初の女帝。女帝は8人で、そのうちの6人、推古、皇極、持統、元明、元正、孝謙が古代。あとは江戸時代の明正、後桜町の2人。古代の
女帝はほとんどは皇后で、直系の皇子や皇孫が幼少の場合にピンチヒッターとして即位している。
・次の大王候補は厩戸皇子(用明と穴穂部間人皇女(小姉君娘)の子)か竹田皇子(敏達・炊屋姫の子)のどちらか。馬子の姪の炊屋姫は竹田皇子をつけたい
が、父親は非蘇我系の敏達であり、馬子が反対することが予想される。このため、推古が臨時に即位することになったという説が強い。しかし、推古は竹田
皇子を天皇にしたいのに、どうして厩戸を摂政にしたのか。厩戸が立太子したということは、次の天皇を約束したということに他ならない。皇位継承争いを避け
るため、推古がピンチヒッターに立ち、摂政が必要になったという説は疑問が多い。
・最近では、推古は叔父の馬子とできていたため、気に入られて天皇になったという説もある。馬子としても女帝の方が扱いやすいため、案外、この説が真実な
のかも知れない。
聖徳太子摂政
・聖徳
太子は推古即位後8年までの間に立太子され(皇太子となり)、摂
政となった。8年後なら27歳である。
・どうして摂政という立場が必要になったのか。
Q1 古代の女帝は近親婚が多い。例えば、敏達と推古は異母兄弟、舒明と皇極は叔父と
姪、天武と持統も叔父と姪である。現在であれば結婚が禁止されている間柄であるが、古代の天皇家にこのような近親婚が多いのはなぜか?
A1 天皇は特殊な地位であり、正式な妻は皇族からもらうことになっていた。皇女も身分が高いので他の貴族とは通婚しにくく、どうしても相手が皇族とな
る。天皇権威が高まるほど、近親婚が増える。
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・宗教的には、男性の天皇は妹と結婚し、妹が語る神の言葉に基づいて政治をしたとされ
る。卑弥呼がそうかも知れない。政治は男、祭事は女が分担する。
・日本では、もう少しすると天皇の妹が斎宮となって伊勢に下って伊勢の神に仕え、神事の面で兄の天皇を補佐する習慣ができる。
・古い時代の琉球王国でもこの伝統があり、国王は聞得大君と呼ばれる神に仕える女性の言葉に基づいて政治をおこなっていた。妹は兄の守護神であり、このよ
うな兄妹関係の妹を沖縄ではオナリ神という。
・敏達と推古の関係はまさにこれに当たる。もっとも、当時の子供は母親の実家で育つため、敏達と推古には兄妹としての意識はなかったという説もある。
・女帝が宗教的なことを司るなら、政治をおこなう人物が必要と
なる。ここから、聖徳太子は摂政というよりも、実際には天皇と同じ地位にあったという説もある。600年、隋に遣使した時、倭王名を問われた。その時、姓
は「アメ」、名は「タラシヒコ」と答えている。「天下を治める」という意味であるが、ヒコは男性呼称なので聖徳太子のことを指すとされている。このため、
国内では太子が執政者と解されていたのではないかというのである。
Q2 聖徳太子は、古代ではもっとも著名な人物の一人である。どのような言い伝えを
知っているか?
A2 (1)穴穂部間人皇女が宮中を見回っていたとき、馬官の厩戸の前で出産したのが太子だという。キリスト誕生の話と類似しており、中国に伝わったキリ
スト教の一派(景教)が日本に入って作られたという説がある。
(2)一度に10人の人の訴えを聞いて判断を誤らなかった。豊聡耳(トヨトミミ)という名前から作られた伝説だとされ、実際の話ではない。
(3)2歳の時、東を向いて合唱し、「南無仏」と称したという。これは仏教に対して造詣が深かったところから作られた伝説。寺に行くと、聖徳太子二歳の像
というのが目につく。
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・この他、大工は「太子講」を作り、太子の掛け軸をかけてお参りしている。最古の木造
建築・法隆寺を建てた人物として建築業の守り神になった。
・紙幣には戦前から聖徳太子は肖像として用いられている。敗戦で軍国主義につながる人
物は禁止となり、菅原道真や中臣鎌足、楠木正成などが姿を消した。この時、太子も禁止の指示が出た。しかし、「日本最初の憲法を出した人物であり、軍国主
義とは無縁」といって生き残った。現在は姿を消したが、10万円札のためにとってあるという説もあった。
・聖徳太子については「日本書紀」による潤色が甚だしい。こ
れは天皇中心の歴史書であるため、太子をよく描いている。反対に蘇我氏は悪く記し、動物や被服族民の名を付けた馬子、蝦夷、入鹿は実名ではないという説も
ある。
・太子には多くの伝説があって話は多いが、どこまで本当かわからない。実在の人物でないという説まである。「日本書紀」が脚色だらけであり、他にしっかり
した史料がないのだから仕方がない。謎については目をつぶって先へ進めるしかない。
B 大陸情勢の変化
隋による南北朝統一
・中国で統一国家ができて周辺諸国への圧力が高まると、周辺諸国でも権力の統一・集中
化が起こる。一方、中国で諸国が乱立すると、周辺への圧力が弱まり、周辺諸国でも分裂が起きる。東アジアの中心はやはり中国。
・220年に漢が滅亡した後、魏晋南北朝の混乱期を迎えていた。この時期に、朝鮮半島では三国が分立している。ところが、589年、隋が中国を統一し、強力な中央集権国家が出現した。
新羅の強大化 cf)任那回復の試み→遣隋使(600)
・新羅
は隋に触発され、この時期に国力を充実させた。法興王、真興王の時代に17等の官位制を定めて官僚制度を整えている。
・日本は新羅に奪われた伽耶の地を取り戻したかった。591
年、新羅遠征軍を北九州に出したが、崇峻が暗殺されたことで撤兵している。
・600年には隋に使いを送っている。宋に使いを出した倭王
武以来、100年ぶりの出来事。これと同時に新羅に遠征を実行して成功している。しかし、任那復興はできず、少なくとも「任那の調」と呼ばれる物資を新羅
から得ようとするが、これを日本に送る約束は守られなかった。
・602年、新羅への再遠征を計画するが、責任者の死で中止している。
Q3 新羅に対抗するためには、日本はどうすべきか?
A3 中央集権化を進めて国力を強める新羅は自信を深めており、日本は軽くあしらわれている。新羅に対抗するためには、日本も中央集権化を進めなくてはな
らない。
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∴新羅
との対抗上、中央集権化必要
[聖徳太子と馬子の政治]
馬子=天皇不執政、太子=天皇中心
∴両者の妥協必要
・どのように中央集権化を図るか。政治の実権を握っていたのは馬子で、この協力者とい
う形で太子が入ってくる。馬子にとって太子は甥姪の子であり、娘婿。力関係では馬子が上。
・馬子は天皇は棚上げにして自分が政治を動かしたい。太子は天皇中心の国家を作りたい。意見の違う2人は妥協しつつ政治をすることになる。
A 内政
・太子は、何とか馬子を抑えつつ、天皇権力を高めようとしたと言われている。実際はど
うだったのか。
1 冠
位十二階(603)
姓のない新官人登場に対応→能力に応じて個人に授与、
・中央
集権は、お上のいうことに忠実に仕事をする官僚を作らなければできない。ピラミッド状の命令系統を導入するには位階の制度が不可欠。従来の
階級は姓で、これは氏によって世襲されていた。しかし、姓を持たない新官人が出現するようになってきて、位を再編する必要が生じていた。
・603年、徳・仁・礼・信・義・智×大小の12階の位を作っている。冠位十二階は個人の才能や功績によって授与され、昇進も可能だった。姓
のように世襲制でないため、天皇の意志に忠実な者を官吏として登用できるメリットがあった。一目でわかるよう、紫・青・赤・黄・白・黒の色別の冠をかぶら
せた。
Q4 大臣という最高官職にあり、臣の姓を持つ蘇我氏としては、このような制度が導入
されるとどうなるのか?
A4 身分を世襲できず打撃となる。太子から位を授けられるとすれば、力関係では太子の下になる。
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・この立場に立って、太子はこの制度導入で蘇我氏を抑えようとしたという通説が登場す
る。しかし、冠位十二階の最高位である大徳は、後に律令制で定められる正四位に対応する。公卿と呼ばれる三位以上の身分には、この時は冠位が与えられてい
ない。馬子は三位以上の存在であり、馬子は太子から位をもらうことはなく、逆に位を授ける立場になっていた。また、大臣の地位もなくならなかった。この意
味で、馬子は太子と同格扱いであり、冠位十二階は太子が馬子を抑えるために
作ったというよりも、太子と馬子の2人で作ったものと言える。
2 十
七条憲法(604)
豪族間の融和、仏教による統一、天皇への服従
→皇室を中心とする政治理念の提示
・十七
条憲法は、604年の甲子の年に合わせて出したという。甲子は年代の初めである。憲法とはいうが、現在の憲法とは違い、官吏の服務規程である。
・大切なのは「和を以て貴しとなし」「篤く三宝を敬え」「詔を承りては必ず
謹め」の3つ。天皇への服従を挙げることによ
り、馬子を牽制する意図があった。
・しかし、十七条憲法は偽作説が根強い。12条に「国司、国造は百姓から収奪するな」とあるが、国司の制は大化改新以後にできている。この時代には存在し
ないはず。したがって、太子の偉大さを強調したかったために偽作したものという。だが、太子がこれを出したのは確かであり、それを元に「日本書紀」が加筆
したというのが実際のところであろう。
・十七条憲法は単なる政治理念であり、罰則もない。だから、
これを出したといっても馬子に対して与えた打撃は大きくなかったはず。
3 「天皇記」「国記」の編集
天皇中心の歴史書
・天皇中心の歴史書を編纂することは、天皇の権威高揚につながる。「天皇記」は620年、太子と馬子で編纂したが、大化改新で蝦夷邸とと
もに焼失している。「国記」も同様である。
・内容はわかっていない。以前に作られた「帝紀」が記録でなかったとすれば、「天皇記」「国記」は日本最古の歴史書となる。しかし、完成後20年間も私蔵されていたのは
なぜか。中身が気に入らなかったのか、それとも完成していなかったのか、作られたというのは嘘なのか、という疑問点がある。
・なお、この中で日本紀元を紀元前660年と定めたとされて
いる。日本には、602年に暦が伝来している。この時、辛酉紀元説が
入ってきた。60年に一度の辛酉年に変革があり、21回に一度の辛酉年に大変革があるというもので、たまたま601年が辛酉の年だったため、その前の60
×21年前に日本ができたことにしている。
=蘇我氏は抑圧されない
B 外交
1 隋との対等外交
・太子の政治の眼目は外交。604年、隋では煬帝が即位し、長安、洛陽の復都制を導入し、100万人を動員して黄
河、揚子江を結ぶ大運河建設に着手している。
遣
隋使・小野妹子(607年、「隋書倭国伝」「日本書紀」)
Q5 隋と対等外交をおこなうことの対外的な効果は何か?
A5 中国と対等の立場をとって朝鮮諸国に対して優位に立つことにあった。ライバルの新羅は隋に臣下の礼を取っている。この立場を利用して、失った伽耶を
回復できるかも知れない。
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朝鮮半島での日本の立場の有利化
Q6 隋と対等の立場につくことは、国内的にも大きな意味があった。どんなことか?
A6 中国は朝鮮よりも優位。国内では、蘇我氏が朝鮮系渡来人と結んでいたが、天皇が中国と対等になれば、天皇権威は蘇我氏を超えることになる。
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国内における天皇権威の高揚
Q7 馬子は、遣隋使派遣がうまくいくとは思っていなかったようである。どうしてか?
A7 対等を主張する使いは、無礼であるとして殺される可能性が高かった。
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・607
年、遣隋使が派遣された。目的は仏教を学ぶためとし、国書には「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」と記してあった。天子が同
格に用いられており、対等を主張している。小野妹子は、怒られて殺されることを覚悟していた。
・「日本」の国号は、「日出ずる処」を元に大化以後にできたとされる。
cf)煬帝の激怒
・煬帝は外務担当に対して「二度と奏上するな」という。
Q8 それでも煬帝は小野妹子を斬らなかった。それどころか、返事の使いを日本に送っ
てきた。それはなぜか?
A8 598年、煬帝の父が30万の大軍で攻めて敗れている。煬帝はその復讐として高句麗攻撃を計画していた。遠交近攻策をとるのならば、日本と結ぶのが
よい。太子は、この隋の高句麗遠征をにらんで使いを送ったと言われる。そうであるならば、素晴らしい外交感覚である。
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but高句麗遠征を念頭に答礼使・裴世清来日
・608年4月、答礼使・裴世清を連れ帰る大
成功をもたらした。日本はもてなしのため、難波に歓迎の館を建設する。歓迎セレモニーの準備のために答礼使は難波に1ヶ月半滞在させられ、8月に大和に
入った。この時は飾り馬75頭を仕立て、数百の儀仗兵を用意している。日本としては精一杯。大和では隋使が天皇に敬意を表する演出をおこない、天皇権威高
揚に役だった。あの中国の使いが天皇に頭を下げている、というのであれば、効果は絶大。
Q9 遣隋使派遣は、蘇我氏にとっては、文化移入という点でも打撃を与えた。なぜか?
A9 蘇我氏は朝鮮半島の渡来人と結び、最先端の文化を導入していた。文化は半島経由でもたらされ、このルートをとる以上、蘇我氏をのさばらせることにな
る。遣隋使により中国から直接文化を導入できるようになると、蘇我氏の存在意義は薄れる。
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2 大
陸文化の直接導入
半島系渡来人と結ぶ蘇我氏の打撃
第3回遣隋使→留学生渡航 ex)高向玄理、南淵請安、僧旻
・608年、裴世清の帰国に合わせて高向玄理、旻、南淵請安な
ど8人が渡る。いずれも漢人(あやひと)と称される渡来系の人たちで、中国語ができる。「東天皇つつしみて西皇帝に申す」という国書を持っていっている。
オオキミに替わるスメラミコト(絶対者)の言葉を使い、「天皇」号の初見との説もあるが「日本書紀」の記述なのであてにはならない。天皇は中国の天帝+皇
帝であり、宗教的権威者であることを示す。「天皇」号は、正式には天武朝に作られたという説が強い。
・遣隋使は、614年にも出している。
※飛鳥文化形成、大化改新に影響
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