2 大和政権の成立と国土統一 <大和政権の成立>

  邪馬台国の時代から大和政権が成立するまでの間、日本は中国史書から姿を消している。このため、国土統一の状況は判然としない。ただ「古事 記」「日本書 紀」の神話の中にはこの間の様子を想像させる場面もある。それによれば、日向国に降臨した天照大神の子孫が大和の勢力を制圧して初代天皇の(1)として即 位したとされ、その後も国土統一のため九州や東国への攻略がおこなわれている。国土統一にはこのような抗争が必要だったことは確かであろう。さらには三韓 征伐と称される朝鮮半島への軍事行動も記されており、記紀成立時期の新羅への対抗意識が見て取れる。
  大和政権は畿内の豪族が連合して形成したもので、豪族の代表が[2]であった。もともとの拠点は奈良盆地東南部の三輪山の麓であり、これを 三輪王朝と呼 んだりする。その後に河内平野に進出しているため、ここで王朝の交代があったことも想像され、以後を河内王朝と称したりもする。[3]世紀に出現した古墳 は、支配者の墳墓・斎場として発生したものである。前期の古墳は集落周辺の丘上に築かれ、遺体を納めた石室を土で覆った[4]を持っている。土管状の (5)は墳墓と俗域を区切るために並べられたもので、供物を供えた特殊器台から発生している。副葬品は[6]などで、ここから埋葬された支配者が[7]と しての性格を有していたことがうかがえる。この時期の古墳を代表するのは、卑弥呼の墓とも言われる(8)であり、三輪山の麓に築かれている。
  大和政権は国土の統一を図るために進んだ生産技術や[9]資源を必要としており、そのために朝鮮半島と接触をしている。当時、中国は (10)と呼ばれる 分裂の時代に入り、朝鮮半島では諸国の自立の動きが強まった。北部には[11]が建国され、313年には中国が設置していた[12]を滅ぼしている。半島 西南部は[13]と呼ばれ、50カ国からなる連合体が結成され、やがては[14]によって統一される。半島東南部は[15]と呼ばれて12カ国の連合体が 作られたが、ここは[16]によって統一された。最南部は[17]と呼ばれて12カ国の連合体を形成したが、ここは最後まで統一されずに国家群のまま推移 した。この地は[18]と呼ばれるようになる。大和政権は(14)と同盟関係を結び、その証として贈られた(19)が(20)に伝世している。(14)が 日本と同盟を結んだのは(11)や(16)と対抗するためだったと考えられ、日本は軍事的援助と引き換えに先進文化の移入を目指したのである。また、小国 が分立した(18)の国家も日本の軍事的プレゼンスを必要とし、日本はその見返りとして(9)を入手した。「日本書紀」に記された(21)は、このような 物資を集積した場所と思われる。もともと日本に弥生文化を伝えたのは朝鮮半島の人々であり、最南部はその故地であったところから結びつきが強かったのは当 然とも言える。
  4世紀の日本は幾度か朝鮮半島に出兵し(11)と戦っている。この様子を記したのが[22]碑である。ここには「倭が辛卯の年に海を渡って (14)や (16)を支配したため、(22)が出兵しこれを撃退した」という趣旨の事がらが記載されている。辛卯年は西暦[23]年であるが、実際に日本が半島諸国 を支配したとは考えられず、(14)の求めに応じて兵を出したものであろう。この後、(11)の力は強大化し、日本は徐々に半島から後退を余儀なくされて ゆく。

<解答>
 (1)神武天皇 (2)大王 (3)4 (4)竪穴式石室 (5)円筒埴輪 (6)玉・鏡 (7)司祭者 (8)箸墓古墳 (9)鉄  (10)南北朝  (11)高句麗 (12)楽浪郡 (13)馬韓 (14)百済(15)辰韓 (16)新羅 (17)弁韓 (18)伽耶(加羅) (19)七支刀  (20)石上神宮 (21)任那官家 (22)好太王(広開土王) (23)391


<国土統一と氏姓制度>

  5世紀になると古墳は巨大化し、築造される場所もそれまでの丘上から(1)に移り、形態もほぼ[2]に固定されてゆく。また、副葬品には [3]などが現 れ、埋葬者の性格が司祭者から[4]へと変化していることも見て取れる。石室は前代と同じく竪穴式石室で、葬儀の様子を再現した[5]が出現している。こ の時期の古墳の例には河内平野に築かれた[6]や[7]があるが、一方では大和政権の勢力が拡大する中、地方にも古墳が築かれている。当時の大和政権の大 王である[8]の名を記した遺物は埼玉県[9]と熊本県[10]で出土しており、この地域に大和政権が影響力を持っていたことは確かであろう。(8)は [11]天皇に比定されている。
  この頃の日本の様子は中国史書にも記されている。中国は南北朝時代であったが、[12]と総称される5人の王が中国の(13)に使いを送っ ている。5人 の名は順に[14〜18]と記されており、天皇に比定するならば(16〜18)は(19〜21)とされる。もっとも有名なのは[22]年の[21]天皇の 遣使で、その状況は「[23]」に記されている。それによれば、(21)天皇は朝鮮半島の軍事権と[24]という軍事上の役職を求め、中国皇帝は(25) を除いて軍事権を認めている。朝鮮半島では(26)の力が強大化しており、日本は少なくとも最南部の[27]との関係は維持したかったことが遣使の背景に ある。
  この頃には大和政権の構造も確立してきた。同一祖先を(28)という神として祭る人々は[29]と呼ばれるひとつの社会組織を形成し、その 統率者を [30]、一般構成員は[31]と呼ばれた。そして、クニの支配者階級になると、このもとに[32]と呼ばれる一般の人々を従えていた。このうち、豪族の (32)は[33]と称され、豪族の支配地である[34]の耕作をした。大和政権と連合した豪族がその証として与えられたのが[35]である。(36)な どの畿内の有力豪族には(37)、(38)などのもとからの大王の家臣には(39)が与えられる傾向があった。(37)を持つ豪族は地名を(29)の名と し、(39)を持つ豪族は職名を(29)の名とする傾向がある。連合した豪族のうち、大王を補佐したのが[40]と[41]である。各豪族のうち(32) を率いて政権内で一定の職務を分担した者は[42]に任じられた。このときの(32)を[43]と呼び、玉を製造した(44)、土師器を作った(45)、 須恵器を作った(46)など職能に応じた呼称があった。それを率いた豪族もこれら職名を(29)の名としていた。大和政権は[47]と呼ぶ直轄地を持ち、 これは[48]という直轄民が耕作に当たった。
  一方、地方の豪族でも大和政権と連合した者には(35)が与えられ、協力度の高い者には(49)、(50,51)など低い者には(52)が 与えられる傾 向があった。彼らは[53]に任じられて地方の支配を委ねられ、時には(32)の一部を割いて[54]などとし、政権に奉仕させることもあった。

<解答>
 (1)平野 (2)前方後円墳 (3)武具・馬具 (4)権力者 (5)形象埴輪 (6)大仙陵古墳 (7)誉田山古墳 (8)ワカタケル  (9)稲荷山 古墳 (10)江田船山古墳 (11)雄略 (12)倭の五王 (13)南朝 (14〜18)讃、珍、済、興、武 (19〜21)允恭、安康、雄略  (22)478 (23)宋書倭国伝 (24)安東大将軍 (25)百済 (26)新羅 (27)伽耶 (28)氏神 (29)氏 (30)氏上  (31)氏人 (32)部民 (33)部曲 (34)田荘 (35)姓 (36)葛城・平群・蘇我 (37)臣 (38)物部・大伴・中臣 (39)連  (40)大臣 (41)大連 (42)伴造 (43)品部 (44)玉作部 (45)土師部 (46)陶部 (47)屯倉 (48)田部 (49)直  (50,51)筑紫・毛野 (52)君 (53)国造 (54)子代・名代


<古墳時代の文化>

  古墳時代は日本の固有信仰が成立した時代である。神道は原始信仰に根ざし、自然物や祖先に神性を見いだす。神を祭る際にはその場所を清浄に しなくてはな らず、ケガレを除く[1]や[2]が神事として成立した。鹿の骨を焼いて占う[3]や熱湯中の石を取らせて正邪を判定する[4]などもおこなわれた。年の 初めに豊作を祈る(5)、収穫を感謝する(6)など現代につながる祭事も営まれた。神は祭事のたびに降臨すると考えられたが、やがては神を祀る常設の神社 が建てられるようになる。三輪山を神体とする(7)は初期の神社であるが、現在でも本殿を持っていない。
  大和政権の支配者は、自らの統治を正当化するため、先祖神の活躍を柱とする神話をまとめ、地方の神々をこの中に包含してゆく。「[8]」は 後の天皇家の 系譜、「[9]」は神話であり、後の「古事記」「日本書紀」に継承されるが、これらが口承だったか記録だったかは定かではない。
  大和政権が全国支配を固めてゆく中で欠かせなかったのは大陸の先進技術・文化であり、それらを伝えた人々、いわゆる(10)が優遇されるこ とになる。4 世紀末から5世紀の初めの朝鮮半島は動乱期で、政争に敗れて一族を率いて日本に亡命する者が相次いだ。彼らは日本で土地を与えられ、特定の職能で政権に奉 仕した。秦の始皇帝の末裔とされる(11)は日本では(12)と呼ばれる一族となり、(13)の仕事で仕えた。後漢の霊帝の末という(14)は(15)と いう一族となり、文筆で仕えた。漢の高祖の末とされる(16)は、百済から「(17)」を招来し、日本では(18)という一族を形成してやはり文筆で仕え た。漢字をもたらしたのも彼らであろう。日本における
 最古の漢字使用例は、和歌山県の(19)ではないかとされる。
  5世紀末から6世紀にかけては、百済との関係強化の中で技術者の来日が増加した。彼らは須恵器を作る(20)、朝鮮半島の技術で鍛冶仕事を した (21)、錦を織った(22)、馬具を作った(23)などの技術系の部民を構成した。儒教が伝来したのもこの頃であり、513年に百済から(24)が来日 している。また、仏教は百済の[25]が仏像と経典を[26]に贈ったことで公式に伝わった。その年代には2説あり、聖徳太子の伝記である「[27]」で は[28]年、正史である「[29]」では(30)年となっている。
  6世紀になると従来の古墳に加え、山の尾根を利用した小規模な[31]が数多く築かれるようになった。一カ所に密集しているものは[32] と呼ばれ、い ずれも従来の竪穴式石室に代わる[33]を持ち、(34)が可能な形態となっている。ここでは(35)などの日用品が副葬されており、支配者ではなく有力 農民の家族墓としての性格が見て取れる。このことは、それまで抑えられていた人々の中から墳墓を築くことのできる階層が成長してきたことを意味する。反対 に地方では大型古墳が姿を消しており、地方豪族の力が衰えてきたこともうかがえる。この結果、地方豪族は成長してくる有力農民を従えるため、大和政権の助 けをいっそう必要とすることとなり、中央集権化の動きが芽生えてくるのである。

<解答>
 (1,2)祓、禊 (3)太占 (4)盟神探湯 (5)祈年祭 (6)新嘗祭 (7)大神神社 (8)帝紀(9)旧辞 (10)渡来人  (11)弓月君  (12)秦氏 (13)養蚕 (14)阿知使主 (15)東漢氏(16)王仁 (17)論語 (18)西文氏 (19)隅田八幡宮人物画像鏡 (20)陶 部 (21)韓鍛冶部 (22)錦織部 (23)鞍作部 (24)五経博士 (25)聖明王 (26)欽明天皇 (27)上宮聖徳法王帝説 (28) 538 (29)日本書紀 (30)552 (31)円墳 (32)群集墳 (33)横穴式石室 (34)追葬 (35)土器


<大和政権の動揺>

  倭の五王の時代の大和政権は河内平野に本拠を置いていた。このため河内王権とか、その初代の天皇の名前から(1)王朝と称したりする。しか し、この王朝 の末期には王位継承の争いが巻き起こっている。臣の姓を得た豪族は大王家と姻戚関係にあったため跡継ぎ争いに介入し、(2)や(3)という有力豪族も没落 した。この中で王統は断絶し、[4]が(1)天皇の5世の孫とされる人物を越前から招いて即位させることになった。これが(5)天皇と呼ばれる人物であ る。しかし、王位の継承はスムーズには行かなかったようであり、この後、(4)の推す(6)・(7)天皇の系統と、臣の姓を持つ(8)の推す(9)天皇の 系統が対立したという説が出されている。仏教公伝年代は「上宮聖徳法王帝説」と「日本書紀」で齟齬があるが、それは「日本書紀」がこの事実を隠したかった ためではないかというのである。
  一方、朝鮮半島では日本の同盟国・百済が高句麗の侵攻に悩んでいた。首都漢城を失って南の公州に遷都した百済は、(4)に対して伽耶の地に 勢力を伸ばす ことを求めた。いわゆる[10]要求である。これらの小国は日本の軍事的プレゼンスで独立を保っていたものであり、日本が百済への併合を認めたことで他国 にも動揺が走った。伽耶諸国は日本から離反し、(4)は責任を問われて失脚している。さらに半島東南部を押さえていた[11]も同地に進出してきたため、 日本は出兵によってこれを阻もうとした。しかし(12)年、北九州に勢力を持っていた[13]は(11)と通じ、日本軍の渡海を阻止して反乱を起こしてい る。この乱は鎮圧されたが、残りの伽耶の地は(11)が支配するところとなり、562年に日本は朝鮮半島の拠点を完全に失った。「日本書紀」で[14]と 記される出来事である。これ以後、日本は同盟国・百済を通じて大陸との関係を維持することになる。
  (4)の失脚後、国内で勢力を持ったのは[8]と[15]であった。朝鮮半島で力を強める(11)に対抗し、有力農民の成長で生じた地方豪 族の動揺を抑 えるためには中央集権化を推進する必要がある。このため、政権機構の改変がおこなわれ、地方豪族である国造との協力関係を強化し、政権直轄地の(16)が 拡大されている。これは地方の反乱を鎮圧する中で設置されたものであり、人々を直接掌握するために籍の作成も図られている。この中で、大臣を務めた(8) の発言力が高まった。(8)は渡来人と結合する開明的な豪族であり、(17)と総称される(18〜20)の蔵を管理して財政を掌握していた。臣の姓を持つ 同氏は天皇家と姻戚関係を持つことが可能であり、(9)天皇との結びつきを強めてゆく。こうして大連の(15)との間に対立が生じるようになるのである。 その表れが、仏教公伝に際してその受容をめぐり、[21]と[22]の間で生じたいわゆる(23)である。渡来人と結ぶ(21)は強く仏教の受容を求め、 神事に仕える(22)と争った。この後、(24)天皇後の皇位継承に際しては[25]と[26]が争い、(26)は倒されて(27)天皇が立てられてい る。しかし、政治の主導権は(25)が握ったこともあり、天皇と(25)の溝が深まり、結局(27)天皇は(25)によって暗殺されてしまう。こうして (8)による独裁体制が確立する中で推古朝の政治が展開するのである。

<解答>
 (1)応神 (2,3)葛城氏、平群氏 (4)大伴金村 (5)継体 (6)安閑 (7)宣化 (8)蘇我氏 (9)欽明 (10)任那4県 割譲  (11)新羅 (12)527 (13)筑紫国造磐井 (14)任那日本府滅亡 (15)物部氏 (16)屯倉 (17)三蔵 (18~20)斎蔵、内 蔵、大蔵 (21)蘇我稲目 (22)物部尾輿 (23)崇仏論争 (24)用明 (25)蘇我馬子 (26)物部守屋 (27)崇峻

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