2 大和政権
の成立と国土統一
<大和政権の成立>
#1[大和政権の成立](4C)
#2[前
期古墳の築造]
(4C)
#3[朝
鮮半島との接
触]
#4A
半島情勢
#5B
百済・伽耶との
接触
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2 大和政権の成立と国土統一
<大和政権の成立>
[大
和政権
の成立](4C)
1 記紀神話による国土統一
・邪馬台国の時代から大和政権が登場するまでの間、日本は中国の史書から姿を
消してい
る。この間、日本で何が起きていたかはわからず、4世紀は謎の
世紀と
される。ここで日本が統一されたことは確かだが、統一の経緯はよくわからない。
・日本の神話の中には記載がある。「古事記」「日本書紀」に
記されたもので、戦前は史実として学校で教えていた。「古事記」は太安万侶が712年に筆録し
たもので、上巻、中巻の部分は神話、下巻の後半から史実が記されている。天皇権威が頂点に達した時代に成立したため、日本を統一したのが天皇
家の祖先であ
るという文脈で一貫しており、そのままを鵜呑みにすることはできない。しかし、中には、国土統一過程の戦乱を想像させる場面も登場している。
天照大神の天上支配
・日本列島は天上界にあったイザナギノミコトとイザナミノミコトの兄妹が結婚
すること
でできた。2人は天上界から下を見て、泥だらけの海に矛を差して引く
と、ここにオノゴロ島ができた。その後、日本の各島を2人で生んでいった。
・天上界の支配者は太陽の女神・天照大神=アマ
テラス大神。
その弟のスサノヲノミコトは乱暴ものだったため、姉は怒って天の岩戸に隠れてしまう。太陽が隠れたので世
の中は真っ暗になり、困った神々はアメノウズメノミコトに岩戸前で踊りを踊らせ、賑やかな様子に何かと思ってアマテラスが顔を出したところ、
怪力のタヂカ
ラオノミコトが岩戸の戸を開け、中からアマテラスを引きずり出した。こうして再び明るくなったが、スサノヲは地上に追放される。
・その後、スサノヲノミコトは出雲の国に行った。そこにはヤマタノオロチという8つの頭を持つ大蛇がおり、里の娘を人身御供に差し出させてい
た。食べられ
ることになっていたクシナダヒメを救うため、大蛇に酒を飲ませて酔わせ、この首を斬って退治する。
→国譲り
・化け物がいなくなり、出雲を始めとする国土は、スサノヲノミコトの子孫の大国主命=オオクニヌシノミコトが支配を続けてゆく。オ
オクニヌシは、
あっちこっちに離れ
ばなれになっていた土地に縄を掛け、国引きをして大地を大きくまとめていった。この様を天上界で見ていた神は、地上がほしくなり、タケミカヅ
チノミコトを
使わし、オオクニヌシに国土を譲らせることになった。オオクニヌシは見返りとして、自分を出雲大社に祭らせた。この神社は、古くは高さ48メートルの本殿
を持っていたといい、それを裏付ける柱痕が出ている。事実とすれば、世界一高い木造建築である。
→天孫降臨→神武東征
・新しく国土を治めることになったのはニニギノミコトで、日向国(宮崎県)に
天下っ
た。ここでしばらく住んだ後、この子孫、神武天皇は、
大和の
地を支配の
本拠とするべく、東に向けて軍事行動開始した。神武は大阪湾から上陸しようとするが敗退し、日の昇る方向に攻めたのが敗因と分析し、南下して
熊野から北上
して大和に入った。この時に先導したのが三本足のヤタカラスであり、日本サッカーリーグのマークである。神武は橿原で最初の天皇として即位
し、それは紀元
前660年の正月一日のこととされている。これを新暦になおしたのが戦前の紀元節、現在の建国記念の日になる。
→国土統一
・この段階では、日本の東西に大和に服属しない勢力が残されていた。神話に
は、各地に
「タケル」の名を持つ英雄がおり、これが各地の王を示すものと考えら
れる。景行天皇の時、命を受けた日本武尊=ヤマ
トタケルノミ
コトは九州の熊襲を討ちに出かけ、クマソタケルを攻め滅ぼした。
・関東・東北の蝦夷を服属させるため、ヤマトタケルは軍事行動を命じられる。ヤマタノオロチの体内から出たという草薙剣を持って東へ行き、尾
張でミヤズヒ
メを妻とする。当時、尾張は東国攻略の前進基地であり、地方豪族の尾張氏は、早くから大和政権に服属していたらしい。断夫山古墳は中部一の規
模であり、尾
張氏のものとされる。また、尾張氏の神社である熱田神宮は、草薙剣、ミヤズヒメなどを祀ったものである。
・ヤマトタケルは焼津で火攻めをおこない、東に進む。三浦半島から海にでるときに海神が海を荒らしたため、海を鎮めるために妻のオトタチバナ
ヒメが入水し
た。タケルは東国を平らげて碓氷峠を越えて戻るとき、入水した妻を偲んで「吾妻」と歌い、以後、東国を「アヅマ」と称するようになる。
・尾張を目前にミヤズヒメの父が死んだと知らされ、タケルは「ウツツか」と叫んだ。その場所が内津峠である。尾張に戻ったタケルは、続いて伊
吹の荒ぶる神
を倒しに行くが、毒気にあてられ、病を得て死んでしまう。タケルの魂は白鳥になって飛んでいったという。熱田神宮の北にある白鳥御陵は、タケ
ルを祭った古
墳である。
→三韓征伐
・これで日本中を服属させた天皇は、この後、仲哀天皇の后・神功皇后の手によ
り、「金
銀・珍宝にあふれる土地」である新羅・百済を攻撃して服属させたとい
う。
2 畿内豪族連合の形成(代表=大王)
・神話はもちろん史実ではない。しかし、この中には国土統一のための戦いの様がヤマトタケルをシンボルにして描かれている。いずれにしても、
このような戦
いを経て、畿内に小国の王による連合政権が作られていった。その代表が大王=
オオキミであった。
・オオキミは神話では天皇にあてはめられている。天皇のうちでも神武〜9代目までは架空の人物であることがはっきりしている。10代目の崇神
はハツクニシ
ラスという名を持っているため、これが大和政権の初代の大王と考えられている。
・大和政権の実態は、各地に出現した小国の規模の大きなものがそれ以上の抗争を避け、大和にあった最大の勢力を核として手を結んだものと言え
る。
cf)三輪王朝→河内王朝
・古墳が作られる中心は、初めは大和盆地の三輪山の麓であり、ここから河内へ
移動して
いる。このため、10代崇神天皇から始まる三輪王朝が、途中で15代
応神天皇に始まる河内王朝にとって代わられたと想像されている。
→継体王朝へと推移?
・武烈天皇の時に応神天皇の系統は絶えてしまい、北陸にいた遠縁の者が26代
継体天皇
として即位したとされる。ここから、オオキミの系統は2度替わり、
「万世一系」ではないことが指摘されている。
[前期古墳の築造](4C)
支配者の墳墓・斎場として発生
・4世
紀になると、突如として大規模な墳墓である古墳が築かれるようになる。それまでの首長とは異なり、格段に大きな力を持つ王が登場したことがうかがわ
れる。
・今まで、小国の主が互いに抗争を繰り広げていたが、相手をつぶすか服属させるか連合するかして、いくつもの小国を束ねる者が出現してきた。
これが大和政
権の王であり、前期古墳の主である。
集落周辺の丘の上に築く
・出現期の古墳は、箸墓276m(桜井市)、西殿塚234m(天理市)、椿井
大塚山
190m(山城町)、茶臼山120m(岡山市)、石塚山120m(福岡
県苅田町)などで、近畿から瀬戸内につながって
いる。これが大和政権の勢力圏で、政権と連合し
た首長は同じような墓を作っていた。
・古墳は前方後円墳が現れる。これは方墳と円墳
が組み合わ
さったものではなく、円墳に祭りごとの場が附属し、徐々にこれが拡大したものらしい。後円部は埋
葬地、前方部は死者を弔う葬式の場である。前方部には飲食用具である特殊器台を並べ、共食して葬儀をしたらしい。
ex)箸墓古墳
・もっとも古い古墳の一つ、箸墓には、できたときの伝説がある。これは神がか
りした倭
姫命の墓とされる。倭姫のところには、毎晩、三輪山から大物主という
夫が通って来ていた。暗いうちに来て帰って行くため、その姿がわからなかったため、倭姫は朝までいてくれと頼んだが、姿を見ると夫は蛇だっ
た。倭姫は驚
き、箸で陰部を突いて死んでしまう。倭姫を葬るため、「日は人作り、夜は神作り」で築造したのが箸墓だという。倭姫命は卑弥呼に比べられ、箸
墓は卑弥呼の
墓だともいわれている。しかし、宮内庁が管理しているため、今もって発掘されていない。
竪穴式石室、特殊器台→円筒埴輪
・前期
古墳には、埋葬場所である竪穴式石室が
設置さ
れている。上から遺体を入れて石の蓋をするもので、埋葬者は原則として一人である。
・葬式のためには、俗域と聖域を隔絶するために特殊器台を用い、この上に供物をのせた。埴輪はこの特殊器台から発達した。人や動物の形をした形象埴輪に先
立って、円筒埴輪が登場している。
Q1 副葬品は玉や鏡で
ある。ここから、埋葬された王はどのような性格のものと考えら
れるか?
A1 玉、鏡は祭祀用品である。三種の神器のうち、ヤサカニノ勾玉、ヤタノ鏡に受け継がれている。
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副葬品=玉、鏡→支配者の司祭者的性格
・司祭という仕事は誰でもできるものではない。宗教的なカリスマ性というのは
特定の人
間だけが持っているものである。このため、親から子へと司祭者の地位
が継承されることはなかったと考えられる。ここでは、先の族長を祭ったものが次の族長になってゆき、支配者は世襲でなかった可能性が高い。
[朝鮮半島との接触]
Q2 大和政権はこの時
期に朝鮮半島の国と接触をしており、その様子は神話にも描かれ
ている。その目的は何だと思われるか?
A1 国内にまだ対抗勢力があることから、国土統一のため、進んだ生産技術、鉄資源確保が必要だった。鉄は武器を作るためには欠
かせない。大和から瀬戸
内、九
州にかけて古墳が作られたということは、朝鮮から大和への海沿いのルートを確保したことになる。
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国土統一のため、進んだ生産技術、鉄資源確保が必要
・朝鮮半島からの重要な交易品として鉄の延べ板が出土している。古墳25カ所
から
1100枚以上が確認され、そのうちの7カ所、1000枚は大和・河内の
遺跡である。朝鮮半島では南部の66カ所から2000枚以上が出ているが、これで武器、短甲という鎧を作ったのである。
A 半島情勢
中国王朝の弱体化(南北朝)→半島諸国の自立
・中国で統一国家が衰退すると、周辺国家の勢いが増す。魏の後に建国された統
一王朝の
晋は4世紀になると衰え、五胡と呼ばれる異民族が北部に侵入しはじめ
ていた。一方、中国東北部に起きた鮮卑族も勢力を伸ばし、中国本土と朝鮮半島の連絡を絶つようになった。
1 北部 高句麗の台頭 cf)楽浪郡滅亡(313)
・中国本土と楽浪郡の連絡が難しくなり、朝鮮北部に興った高句麗が、313年、楽浪郡を滅ぼしたのである。また、
帯方郡(ソウル
付近、3世紀初めに後漢が
設置していた)も同時期に滅びている。
2 南部
馬
韓(50カ国連合)→百済の統一
辰
韓(12カ国連合)→新羅の統一
弁
韓(12カ国連合)→統一されず=加耶
(加羅)
・朝鮮半島南部はいくつもの小国に分かれていたが、馬韓、辰韓、弁韓の小国家連合が形成された。馬韓の中の
伯済は馬韓を統
一して百済となり、辰韓の斯盧は
辰韓を統一して新羅になった。そして、弁韓はバ
ラバラのまま
で加耶と呼ばれていた。これらの各国は、それぞ
れが勢力争い
をしていた。
B 百済・加耶との接触
対高句麗・新羅の同盟
・日本は半島各国の抗争に目をつけて接触をしてゆく。楽浪郡は高句麗が占拠
し、帯方郡
は百済がとっていたため、369年、両国間で開戦となった。百済と加耶は、自国の安全を確保するためにも、朝鮮半島の南部に資源を求めてやっ
て来る倭王の勢力と結ぶメリットがあった。
・新羅の日本語読みの「しらぎ」は、朝鮮語読みの「シルラ」からそのまま来ている。百済の日本語読みは「くだら」だが、朝鮮語読みは「ペク
チェ」。どうし
て「くだら」なのか。朝鮮語の「クンナラ」がもとであり、意味は「大国」である。百済は、日本にとっては文化的にも大国だったと言える。
cf)七支刀の伝来(372)、「任那官家」の設置
・百済と日本の交渉の証として知られている遺物が七支刀。大和政権の軍事担当・物部氏の氏神である石上神宮に納められている。倉庫は武器庫になっていて、
七支刀もここに入っていた。長さは75�僉■兇弔了泙�生えている。369年、百済王が倭王に贈るために作ったもので、372年に贈られてい
る。日本に服属
した百済が献上したもの、家臣となった日本に下賜したものという両説があるが、実態は不明。両国間に交渉があったことだけが確かな事実。
・日本は、加耶の地に「任那官家」を設置したと
される。ここ
には役人が派遣され、「任那日本府」を形成したという。かつては、日本府は朝鮮総督府のような
もので、日本が軍事支配して植民地にしていたかのように解されていた。現在はそのような見解をもつ学者はいなくなっている。
・加耶諸国から任那の調を納めさせた場所とされ、日本が加耶の国々に軍事的援助をした見返りだったと考えられる。もともと、日本に住んでいる
人の多くは朝
鮮半島南部出身者である。毎年、移民を日本に送り出してきていたのだから、親近感を持って日本に援助物資を出していたとも考えられる。
鉄資源、大陸文化の移入
・朝鮮との行き来は頻繁であった。海を渡るとき、その安全を祈願したのが沖ノ島であり、海の正倉院と呼ばれ、渡海安全を祈念した鏡などが遺跡
に残されてい
る。これらは本州中央で作ったものである。また、朝鮮半島南部でも倭で作られた土師器や鏡が出ている。前方後円墳もあるなど、日本と朝鮮半島
南部との関わ
りは深い。おそらく、言葉も通じたのではないかと思われる。
高句麗と交戦(391年、「好太王碑文」)
・百済と手を結んだ日本は、百済のために幾度か出兵をしている。この様子を伝
えている
のが好太王碑である。
・好太王は391年に18歳で即位した高句麗王である。別名を広開土王といい、国土を広げた英雄とされる。王の業績をたたえるため、王の死後
2年後の
414年に都のあった丸都に建立されたのが好太王碑で、高さ6.6メートル。1800字が刻されている。
・「辛卯の年をもって来たりて海を渡り、百残、新羅を破り、以
て臣民と為
す」の記述により、391年、倭は渡海して百済と連合したことがわかる。
・「臣民」とあるため、これを日本が征服したと解釈する説が強かった。この碑は中国東北部にあり、1880年に再発見された。この拓本は
1884年に日本
にもたらされ、陸軍参謀本部によって、4世紀に日本が軍事行動によって朝鮮半島を征服した事実を記したものと解釈された。
・戦後、朝鮮半島の歴史学者から、拓本は碑文に石灰を塗布して意図的に改ざんされ、「渡海」「破」の部分は原文にはないとされ、軍事行動を起
こしたのは高
句麗であり、逆に日本を征服したのだという説も登場している。その後、中国の学者の研究によって碑の改ざんはなく、日本が渡海したことは確か
とされている
が、征服の事実はよくわかっていない。
but高句麗の強大化で後退
・396年、好太王は水軍を率いて百済を攻略し、これを服属させた。しかし、
その後も
百済は倭と結んで抵抗し、倭は新羅にも手を伸ばしていったらしい。こ
の2国は高句麗対策として日本との連合を選んだのであろう。
・400年、好太王は5万の軍勢で新羅に向かい、倭の軍勢を蹴散らしている。そして、404年には帯方に侵入した倭を撃退している。475
年、百済の国
都・漢城を攻め取ったため、百済は南に逃げ、公州に遷都している。
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