<小国の分立と邪馬台国>
#1[小国の分立と抗争](BC1C〜3C)
#2 A 文化圏(国家群)の形成
#3 B 中国との接触
#4[邪馬台国の出現](3C)

<小国の分立と邪馬台国>

[小国の分立と抗争](BC1C〜3C)
 水利を中心に集落連合=小国の分立

・共同で農業をおこなっているムラは、隣のムラと水利をめぐって協力したり対立したり する。これにより、集落連合が作られる。同じ連合体では、共通の祭りをしていたと思われる。

 文化圏の形成

何を 使って祭りをしていたかで、地域的な特色がある。一つの文化圏を作っていたと考 えられる。
・この地域差に着目したのは和辻哲郎。北九州は銅鉾銅剣を祭る文化圏、近畿は銅鐸を祭る文化圏。しかし、古墳時代の近畿の遺跡では剣を重視している。これ は、九州の勢力が近畿に攻めてきて古墳文化を築いたからではないかと考えた。
・その後、瀬戸内に銅剣の文化圏があることが判明して3つの文化圏と された。

 北九州=銅鉾、銅戈の祭祀
 瀬戸内=平形銅剣の祭祀
 畿内=銅鐸の祭祀

・いろいろ調べてゆくと大阪でも銅剣が作られ、九州でも銅鐸が作られるなど、単純では ないことが明らかとなってきた。
・この複雑な状況をさらに複雑にしたのが島根県の荒神谷遺跡。 1984年に発見され、銅剣358本が埋められていた。今までに国内で発見された銅剣の本数を上まわる大量出土。他には銅鐸6個と銅鉾16本が出土し、3 つセットでの発見は初めてだった。これで二大文化圏説は見直す必要が出てきた。荒神谷の銅剣は数が多すぎるため、銅剣祭祀をする必要がなくなり、埋めてし まったものとも解されている。

Q1 農耕社会で人口が増えた場合、どのようなことがおこなわれ、その結果、集落間で はどのような事態が巻き起こるのか?

A1 農耕社会で人口が増加すれば新開地が必要となる。新たな農地拡大をめぐって低地から丘陵地へムラが拡散してゆくが、ここで土地の取り合いになる。負 けたところは勝ったところに従ってゆく。

 国家群の形成?→国土統一をめぐる抗争(2C末、3C末)

・抗争が繰り広げられたことは環濠集落の遺跡が発掘されていることでわかる。京都府奥丹後の扇谷遺跡 では、二重のV字 型の壕が1キロにわたってめぐらされている。10トントラック1000台分の土を掘り出して作った。
・愛知県の朝日遺跡では、環濠の外に杭を立て、ここに木の幹 や枝を外に向けて立てるバリケードが作られていた。
・鏃も変化している。弥生のものは縄文時代のものよりも重く大型化し、深く突き刺さる。弥生中期に大量に作られ、狩猟用ではなく、戦争の武器だと考えられ ている。
・弥生中期には、石鏃が人骨と共に出ることが多くなる。福岡県穂波町のスダレ遺跡では、胸の骨に磨製石剣の先端が刺さった人骨が甕棺から出土した。生活反 応があり、刺さって2カ月は生きていたらしい。首のない遺体も甕棺からは出ている。

 cf)高地性集落(瀬戸内、砦跡)

・瀬戸内では弥生中期から標高200〜300メートルのところにムラが築かれている。 田もできないところであり、高地性集落と呼ばれる。定住して いたものではなく、戦争に備え、砦か逃げ込むための集落とされる。

B 中国との接触

・ここまでの歴史は遺跡によって復元したもので、考古学のジャンル。紀元前1世紀にな ると、日本のことが中国の歴史書に登場しており、文献史学の時代に入ってゆく。

 1「漢 書地理志」(BC1C)
    倭(日本)の100余国分立
    楽浪郡への遣使、朝貢

「漢 書」は120巻。後漢の班固(32〜92)が記したもの。の 名前で日本が登場し、最古の日本記事。
・倭の呼称は中国から見て南の方の未開人に対して用いられ、朝鮮南部やベトナムの人も倭で記述していた。紀元前にできたという「山海経」に倭が登場するの が一番早い記事。しかし、「倭は燕に属す」とあるだけで、日本のことかどうかは分からない。
・倭はそのうちに日本に限定される。由来は「我」から来たというもの、従順な人の意味、矮小を示す言葉など様々。日本人は、倭の字の意味が分からず、威 張って「大倭」などと称していた。漢字は「小さくつまらないもの」の意味なので、7世紀から8世紀にかけて「日本」号を用い、「大倭」の記述も「大和」に 替えてゆくようになる。
・倭は100ばかりの国に分かれ、楽浪郡に使いを送ってきているという。それだけの記事であるが、最古の 日本のことを記している点で重要。
・楽浪郡は紀元前108年に前漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼして設置した。現在の平壌付近。遺跡には土城があり、文字瓦などが出土している。古墳があり、中国 から派遣された官人のものという。

Q2 倭の小国は、どうして使いを送ったのだろうか?

A2 対立する小国との抗争に勝つため、偉大な中国に後ろ盾になってもらうことを考えた。この後も使いは続く。

 「後漢書東夷伝」(1C)

「後 漢書」は120巻の史書。南朝の宋の范曄(398〜445)が記した。「魏志」より後にできたもので、「魏志」からの引き写しも多い。その 中で独自の部分もあり、日本に関することが記されている。

   奴国王の遣使光武帝印綬を授 ける(57年)

奴国の 王が後漢の都まで使いを送ってきた。これに対し、後漢を建てた光武帝が印綬 を授けている

    cf)志賀島(福岡)出土(1784)の金印「漢委奴国王」

・この時にもらった金印ではないかというものが、1784年、志賀島で水田耕作中の農民・甚兵衛によって発見された。初めは私蔵して いたが役人にばれ、福岡藩主黒田家に差し出された。福岡藩の学者たちは、「後漢書」に記載されている金印と推定した。2.3兒擁、厚さ0.8僉重さ 108グラムで、大きなものではない。金としての価値は20万円。
・この金印には江戸時代から偽物説が出ている。印には紐をつける鈕という部分がある。志賀島出土の金印は、ここが蛇の形になっている。ところが、後漢が与 えた金印の鈕で、蛇をかたどったものは類例がなかった。戦後、2.3僂牢措椶裡雲であること、雲南の遺跡から蛇の鈕の印が出たことで、現在は本物とされ ている。

Q3 金印は陽刻ではなく陰刻である。どうしてなのか?

A3 当時の印は、巻物を紐で綴じた場合、その部分に封として粘土を付け、ここに押す封印であった。日本には紙がないのでこの用途では用いられなかったは ず。

・印には組紐がつけられ、これを綬という。この色で身分が分けられていた。
・奴国王に授けられたのは金印紫綬。金印は三公という諸王の 下の階級に与えるものだった。天子は玉を使っているので、実は、金印は位の低いものが持つもの。
・志賀島では支石墓から発見されている。ここは奴国の中心の博多から離れているし、誰 が埋葬されていたのかなどは全く不明。
・なお、漢委奴国王は「イト」国王と読ませる説もあり、その 場合は糸島郡にあった伊都国を指すことになる。この説は少数派である。

  帥升の遣使(生口献上)(107年)、「倭国大乱」

・「後漢書」には、安帝の永初元年に、帥升という倭の王が生口160人を献上していることを記している。生口は奴隷と思われる。 この王は、回土国王であるという説がある。
・その後、「桓・霊の間、倭国大いに乱る」と記され、 170〜180年頃に争乱があったらしい。これは、高地性集落の出現時期と対応している。

[邪馬台国の出現](3C、「魏志倭人伝」による)

・3世紀当時、中国では魏・呉・蜀が対立する三国時代になっていた。
「魏志」は30巻の史書で、晋の陳寿(233〜297)が 記した。魏の220〜265年までを記しているが、陳寿が生きた時代を記した同時代史なので、「漢書」や「後漢書」のようにそれまでの文献を引き写したも のに比べて内容が豊か。ここに邪馬台国が登場する。

 2C末の抗争で30の小国が連合

・「魏志」によれば、倭国大乱後、30のクニが卑弥呼という女王を共立し、女王国の邪馬台国が他を従えているという。ここで中国は、わざわざ卑しい意味の 漢字を用いて表していて、差別意識がはっきりと見て取れる。「邪馬台」は「ヤマト」である。

 =女王卑弥呼を共立

Q3 卑弥呼は一般名詞ではないかと考えられている。どういう意味なのか? ここから 考えて、卑弥呼はどのように政治をしていたと思われるか?

A3 「卑弥呼」は「ヒメミコ」の意で、女性の巫女を指す一般名詞であったのだろう。とすれば、宗教者であり、祭政一致の政治がおこなわれていたのであ る。

 (鬼道・シャマニズムによる政治)

・卑弥呼は鬼道をおこない、一人の男性だけが会うことができたという。原始的宗教 に頼った政治であった。骨を焼いて占いもしていたらしい。
・鬼道はシャマニズムであるとされる。東アジアの諸民族に広 がるもので、神を人に乗り移らせ、神の言葉を語るもの。日本では恐山のイタコが有名であるが、中部地方でも伊勢朝熊のミコや御嶽の行者などが口寄せをして いる。朝熊山は亡くなった人が赴くところとされていて、志摩のムラでは、現在でも葬式の後に朝熊に参り、麓に住むミコのところで亡くなった人の口寄せをし てもらい、あの世でどんな暮らしをしているかを聞いている。
・神を乗り移らせる場合、周りの人たちに囃し立てられることが多い。御嶽行者は周りを信者に囲まれて太鼓を叩き、般若心経を唱えさせる。そのうちに乗り移 る。この時はひっくり返って形相も変わっている。
 
 1 中 国洛陽遣使(239)
   「親魏倭王」の称、金印紫綬得る=権威づけ

239 年卑弥呼は難升米を帯方郡経由で洛陽に派遣 した。帯方郡は楽浪郡の南に新しく設置された郡である。この時は生口10人を贈っている。明帝は遠路を来たことで喜び、「親魏倭王」の称号金印紫綬を贈った。
・この頃、朝鮮北部には高句麗が起こり、魏のライバルの呉と結ぶことを警戒していた。魏は倭と結ぶことが得策と判断し、遠交近攻策をとって邪馬台国に接近 することを考えていた。邪馬台国は、狗奴国と争った際も帯方郡太守に戦況を報告をしている。

 2 階 級社会の成立
    王・大人・下戸・生口、

・邪馬台国にはきちんとした身分制度があり、大人、下戸に分かれていた。下戸は道で大人に会うと土下座をさせられた という。また奴隷制が存在し、女王の日常生活に仕えていた。エジプトの奴隷のように生産労働に携わらせるものではなく、召使いの範疇である。卑弥呼の死の 時に殉死させられたというが、日本に殉死の習慣があったということは、考古学的には確認されていない。

    一大率による諸国監督

・邪馬台国では市が開かれ、「大倭」という監督官が行っていた。また、邪馬台国の北の 国を統率するために、一大率という監督官が伊都国に派遣され ている。

    but卑弥呼死後抗争→女王壱与の共立、西晋への遣使(266)

・卑弥呼の死後に男王を立てたら国が乱れた。男王はシャマニズムができなかったのであ ろう。代わりに卑弥呼の一族で、13歳の壱与を立てたら収 まったという。ここにも、原始的宗教の力の強さが表れている。
・壱与も266年、西晋に遣使をしているが、この後、邪馬台 国の行方はわからなくなる。

 ※邪馬台国論争

・「魏志」に登場する邪馬台国がどこにあったのか。この謎解きは新井白石、本居宣長が すでに試みている。
・「魏志」の記述は、福岡にある不弥国までは距離が書かれているが、そこから先は距離がいい加減になり、「南へ水行20日」というような書き方になってい る。おそらく、北九州までは魏の人間が来たが、そこからは地元の人に邪馬台国への行き方を聞いて記録したのであろう。しかし、南に20日も水上を行けば、 はるか九州の南海上に邪馬台国があったことになる。
・「魏志」には何らかの記述の間違いがあり、それを訂正すれば邪馬台国があった場所にたどり着くということから場所探しが起きた。
方角の違いを指摘する者は、「南」を「東」にすれば瀬戸内 海を行き、近畿地方に着くと主張し、邪馬台国は畿内にあったと説く。邪馬台 =大和であるというのである。
・一方、距離が違うという説がある。魏の人間から邪馬台国ま での距離を聞かれたとき、そこに行くのを断念させるため、わざと遠く伝えたのではないかというのである。「20日」を「2日」にすれば、九州の中に収まり、有力な候補地としては福岡県山門郡(筑後川下流)が 挙げられるという。この他、途中からの道筋を放射状に解釈して九州内に収める説も出されている(榎一雄)。
・こうして、畿内大和説と北九州ヤマト説が並立することにな る。

Q4 邪馬台国畿内説と北九州説では、日本の統一時期にどのような差が出るのか?

A4 畿内説の立場に立てば、邪馬台国は奴国、伊都国などの 九州のクニを従えているのであるから、西日本の統一者と見てよい。この段階で狗奴国と戦っているので、これを倒せば全国統一である。したがって、全国支配 者である大和政権につながったと考えられる
 北九州説に立てば、邪馬台国は北九州だけの連合国家の長に 過ぎない。これは全国統一選手権の地域代表に過ぎなく、畿内にも邪馬台国クラスのクニがあり、 これから全国大会がおこなわれることになる。したがって、邪馬台国が大和政 権につながるかどうかは不確定ということになる。


 北九州説=九州の長→国土統一は4C以後
 畿内説=西日本の長→統一間近(大和政権へ)

・一般に、歴史学者は北九州説を主張し、考古学者は畿内説を主張している。文献を扱う 歴史学者は、「東」を「南」に間違うことはあまりなく、距離の方が間違えやすいというのである。考古学者は、畿内の方にこそ、邪馬台国の存在を証明すべき 遺跡が多いと言っている。

  cf)三角縁神獣鏡は近畿で出土

・卑弥呼の鏡といわれるのが三角縁神獣鏡。卑弥呼は魏に使いを送ったとき、鏡100枚をもらってい る。この時の鏡ではないかといわれるものが、近畿地方の古墳で大量に出土している。魏の鏡には、景初三年、正始元年の魏の年号が記されているのでわかる。
・京都の椿井大塚山古墳は、現在はJR奈良線が分断し、前方 部は家が建っている。戦後になって、線路斜面の改良中に魏の鏡が32枚も出てきた。これを始めとして、近畿から九州、関東にかけ、同じ鋳型で作られた同笵 鏡が分布している。古墳の時代差を追うと、近畿から地方へと配布されているらしく、卑弥呼がもらった鏡を仲間に配ったとすればつじつまが合う。これによ り、考古学者は邪馬台国は近畿にあったと主張する。
・歴史学者はこれに対し、九州にあった政権が近畿に進出し、この鏡を近畿に持っていったとも考えられるのではないかと反論する。また、景初四年という実際には存在しない鏡が出土しているため、この鏡は魏で 作ったものではなく、日本で作ったのもので、そうすれば魏からもらった鏡が近畿にたくさんあるから邪馬台国も近畿だという説は、説得力を失うのではないか という。
・どちらかというと、遺跡という物証がなかったため、北九州説は弱かった。畿内に匹敵する弥生時代の集落遺跡がなく、邪馬台国を連想させるものがない。

  cf)吉野ヶ里遺跡(佐賀)=北九州説補強?

・弱かった北九州説を補強することになったのが、佐賀県吉野ヶ里遺跡の発掘。紀元50年頃の大環濠集落で、外濠と内濠で2重に 囲まれ、全体の広さは甲子園球場の6倍、40ha(グランド40個分)である。外濠はV字状で幅6〜7m、深さ3.5m、総延長は2.5kmある。各所に 門が作られ、中に入るとさらに2重の柵になり、厳重な構造になっていた。内濠の一部を外に突き出して物見やぐらが設置されている。
・中は居住区を設けて竪穴住居を並べ、銅剣や銅鉾などの鋳造所もあった。内濠の北から東の墓には600mにおよぶ墓道があり、両側に2500基の甕棺墓が あった。ここには、頭のないもの、足の骨が折れているもの、10本以上の矢が射込まれているものなど、戦いの犠牲者と思われる遺体がたくさん埋められてい た。
・外濠の北側には土をつき固めて作った巨大な墳丘墓があり、鏡・剣・鉾、ガラスの管玉などが副葬されていた。これは吉野ヶ里を治めた王の墓だろうとされて いる。この遺跡は邪馬台国時代よりも少し古いものであり、邪馬台国を直接証 明するものではない。そして、古墳時代になると忽然と姿を消してしまっている。


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