<弥生時代>
#1[大陸文化の渡来](BC5C頃)
#2A 背景
#3B 渡来の状況
#4[弥生文化](BC4C〜3C)
#5A 稲作農耕中心の生活
#6B 金属器と弥生土器
#7C 弥生時代の社会
#8D 弥生時代の信仰

<弥生時代>

[大陸文化の渡来](BC5〜4C)

 水 稲耕作、金属器、弥生土器の伝来

弥生 文化は大陸からもたらされた文化。重要なのは稲作。 イネはインド北部アッサム〜雲南高地が原産で、もともとは陸稲だったものが水稲へと進化したらしい。雲南から揚子江上流に移り、さらに下流へと広まって いった。ここからは山東半島、朝鮮北部に伝わるルートと、揚子江下流から朝鮮半島南部に伝わるルートが想定されている。どちらから日本に来たにしても、イ ネだけが来ることはなく、稲作技術を携えた人間が渡ってきている。

Q1 縄文末期の人口8万人。これが1000年後の7世紀に540万人に増えている。 自然に増える分もあるが、その割合を超えて増えた分は大陸から日本に渡ってきた人である。その数はどのくらいだと思うか?

A1 100万人以上である。

・農耕民族の人口増加率の最大値は年率0.2%。仮にこの数字で増えたとしても400 万人程度にまでしか増えない。新しく150万人の朝鮮半島からの渡来が必要となる。少なく見ても、紀元前3世紀から7世紀にかけ、100万人規模の渡来が なければならない。100万人も日本に来たというととてつもなく多く思われるが、年間1000人程度である。この人たちは縄文人と混血するので、7世紀で の純系縄文人と渡来人系混血人の比は1:8.6になる。
・山口県土井ヶ浜で出た230体の弥生時代の人骨は、いずれも長身、高顔であった。ここは渡来人の集落だったと考えられている。初期移住者は男性が多く、 高顔を持った男性人骨の中に、縄文系の女性の人骨が混ざって出土している。新天地を求めて初めに渡るのは男性であるという点は、現在の移民も同じ。若い男 性が移住する。この渡来人が在来の縄文の女性と結婚していったと考えられる。背が高くイケメンの韓流渡来人が来て、小ちゃくて丸顔の縄文娘がキャアキャア 言って結婚したのである。

A 背景
 中国での統一国家の成立 ex)秦・漢(BC3C)
 →朝鮮への勢力拡大=楽浪郡設置(BC108)
  ∴中国、朝鮮、日本の交流活発化

・どうして渡来してきたのかはわからない。人口が増えて食料に困ったことも考えられ る。
・中国では紀元前3世紀に統一国家が出現しているので、この時の戦乱を逃れた人が難民となって動き、玉突きで日本に押されて出てきたという説がかつては強 かった。最近、日本への渡来時期はもっと早かったのではないかと言われているので、この説も不確かである。

Q2 移住者が渡ってきた場合、前から住んでいる人たちにはどのような影響が出るの か。この時、抗争が起こったということは遺跡からは確認されていない。平和理に移民を受け入れたとすれば、どのようなことが考えられるのか?

A2 縄文末期の日本は、食糧不足で悩まされていたのであり、食料生産技術を持った移民を喜んで受け入れている

・末期には気候が不順となり、最末期は西日本で現在より4〜5度気温が低かったとされ ている。これでは食糧不足になる。反面、気温が低下したことにより、海面の低下が生じ、浅瀬は干上がって水田に適した湿地帯形成していた。これが稲作をス ムーズに受け入れる条件となった。
・年間1000人規模の移民であれば、数の多い縄文人と対抗できるはずがない。友好的に技術指導をしながら、混血が進んでいったとしか考えられない。だか ら、弥生文化は大陸から来た人たちが単独で作ったものではない。

B 渡来の状況
 北九州への伝来→東海まで稲作拡大

・唐津市菜 畑遺跡は縄文晩期の遺跡であり、水田跡が出ている。ここの木工用石斧、土器には朝鮮半島からの到来品が確認されているため、稲作も朝鮮半島 からもたらされたことは確実とされている。

Q3 菜畑は稲作をしていたのにどうして縄文時代の遺跡なのか?

A3 縄文時代と弥生時代の差は、稲作をしたかどうかで区切られていない。縄文時代は縄文土器を使った時代、弥生文化は弥生土器を使った時代なのである。 日本へは、先に稲作技術が入り、次に大陸の土器の影響を受けて弥生土器が作られている。

・初期の弥生土器は遠賀川式土器と呼ばれ、紋様のあるものである。九州から名古屋市西 志賀貝塚まで分布しており、稲作がこの地まであっという間に広がったことの証拠とされている。

 but東北=縄文文化の発展 cf)亀ヶ岡遺跡(青森)

・東北では稲作文化の受容が1世紀は遅れていたというのが定説である。実際には縄文文 化を発展させ、精度の高い土器を焼いている。青森の亀ヶ岡遺跡は その代表で、ここで焼かれた土器は晩期を代表するものとなっている。

Q4 東北地方で稲作受容が1世紀も遅れる理由は何か?

A4 寒冷地であり、感光性の品種が登場しないと栽培できなかったこと。東日本は食糧が多く、稲作を必要としなかったことが考えられる。

 ∵稲=東日本で生育不可の品種、サケ漁・堅果類採取の優位
  →1世紀かけ、東日本に伝播

[弥生文化](BC4C〜AD3C)
 弥生町遺跡(東京)の発掘(1884)

・弥生文化の確認は、1884年、本郷弥生町で新しいタイプの土器が出土したことに よっている。初めは縄文土器と同等に扱われたが、そのうちに違いが認識された。1898年、「弥生式土器」と命名され、後に青銅器、炭化米と共存していた ことが判明し、稲作、金属器を伴う文化であったことがはっき りする。

A 稲作農耕中心の生活
 農耕技術=低湿地への田植

・当時の稲作技術は幼稚であり、直播されていたと考えられていた。しかし、直播で米を作る方が、田植をして作るよりも大変なのである。籾を直播すると、イネが成長して 花をつける頃には雑草が生い茂ってしまう。これを防ぐためには植付けの段階で土を深く耕して何度もひっくりかえし、完全に草を殺しておくことが必要となる が、当時の農具では難しかったと考えられている。
・苗代で大切にイネを育てれば雑草が伸びてくるよりも1ヶ月も早くイネは背丈を伸ばし、田植をすることで雑草との成長競争に勝って花を咲かせることが可能 となる。
・岡山市百間川遺跡では、イネ株の跡が発掘された。株があるということは田植を行なっていたことの証明となる。株の配列の仕方から7人で作業したことが判 明している。

  →石 包丁による穂首刈

Q5 稲刈りの時は石包丁を用いた穂首刈がおこなわれている。根刈りの方が効率がよい はずだが、どうして穂首刈りをしたのか?

A5 出土する弥生米は形、大きさが不揃いである。これは品種が混ざっていたためである。このため、一株に植えても結実期がまちまちになる。だから、熟れ た順に刈る必要があるため、石包丁による穂首刈りになる。品種が統一され、結実期がそろってから根刈りになった。

・稲は高 床倉庫に貯蔵した。ネズミの害を防ぐためである。梯子の長さは2〜3メートルあり、ネズミ返しがついていた。この倉は、神社の本殿の形に受 け継がれる。

 農具=木鍬、田下駄、田舟、木臼、竪杵、鉄製農具

Q6 木鍬で耕すことができたのはどうしてか?

A6 初期の水田は湿田だったからである。湿田は冬になっても水が落ちず、愛知県ではミズタなどと呼んでいた。土はさらさないでおくと地力が落ちてゆくた め、湿田は生産性が劣る。

・鉄製農具が登場すると、乾田が作られるが、そのためには大規模な用排水施設が必要で ある。

 ex)唐古遺跡(奈良)、登呂遺跡(静岡)

・弥生文化が稲作文化であることを証明したのが唐古遺跡の発掘である。1936〜37年にかけて発掘された。100基 の竪穴が見つかり、鋤などの大量の木製農具が出た。これによって農耕文化であることがはっきりした。ここは大和盆地最大のムラで、1300〜1600人が 住んでいたとされる。
・大きなムラは、周辺に枝村を作ってゆく。有名な登呂遺跡は 枝村である。1947〜50年に発掘され、弥生後期の遺跡であった。水田跡が初めて発掘され、稲作文化がよりはっきりする。一枚の田は13アールと広く、 畦も1メートル幅もあった。畦の両側や水路には矢板を打って固めていた。

B 金属器と弥生土器
 1 鉄器(実用)、青銅器(祭器)=輸入品多く、国産は再 生品(後期)

・世界史上、初めに用いられる金属器は青銅器。青銅は銅に錫を加えて作った合金で、溶解温度が1086度と低 いため、比較的容易に作られる。鉄は溶解温度が1536度であり、この温度を出すのが難しい。
・青銅器と鉄器はともに西アジア起源で、東西に伝わっていっ た。青銅器の伝播はゆっくりで、鉄器は早く伝わったので、周辺では同時に伝わってくることになる。ヨーロッパや朝鮮では、石器時代の次に青銅器時代が来 て、続いて鉄器時代になる。しかし、日本では青銅器と鉄器は同時に伝来し ている。
・青銅器に含まれる鉛を調べると原料の産地がわかる。日本産の銅が使われるのは7世紀以降であり、それまでの青銅器は全て大陸の銅を用いている。BC3世 紀頃は朝鮮半島の銅で、その後は中国華北産に代わっている。これは、BC108年に漢が朝鮮半島に侵略し、華北の銅を原料として半島にもたらしたことに よっている。

 2 弥 生土器=600〜800度の高温焼成、薄手、赤褐色、幾何文
   cf)前・中・後期に区分→壺、瓶、高坏など

弥生 土器と縄文土器との差は初期においてはあまりない。赤焼き軟質仕上げで、ロクロも窯も用いない。作られたのは壺、甕、高坏である。後期にな ると、日用雑器と特別の器に分離してゆく。これは階級社会となったことに起因し、特定階級のためにいいものを作るようになった。あとは自給品である。
・米は蒸して食べたという説がある。蒸し米をコワイイと呼び、炊いた米をヒメイイと呼んだとされていた。これは甑が出土するためであったが、現在は否定さ れている。多くは甕で炊いていた。

C 弥生時代の社会

Q7 採集経済と農耕経済の差は、その社会にどのような違いをもたらすと思うか?

A7 採集などとは違い、農業は単独ではできない。湿田を乾田化してゆくためには、用水を作ったり田を開く作業はたくさんの人手を要し、田植えや稲刈りも 共同 してやる必要がある。このため、ムラの規模が大きくなる。また、たくさんの食料を作ることになるため、たくさんの人口を支えることも可能となる。

  低地に大集落形成(共同労働)、竪穴住居、高床式倉庫
  高い生産性(余剰生産物の存在)=貧富差、階級発生

・食べても余る分が出れば、それをたくさん蓄えることのできた富裕者と、蓄えられな かった貧者に分かれ、富裕者は貧者を支配するようになってゆく。また、大規模なムラをまとめるためにはリーダーが必要となってくる。

   →首 長の登場(水利、労働、抗争を指揮)
   cf)埋葬=共同墓地、伸展葬、箱式石棺
・階級発生の状況は、墓を見ると判明する。一般的な墓は土壙墓で、縄文以来の伝統を持ち、穴を掘って埋めるものである。土 壙墓から発展したのが木棺墓箱式石棺である。

    甕棺墓、支石墓(北九州)

・北九州 には甕棺墓といって、二つの甕を合わせたものがある。これは 遺体の保存状態がよい。さらに甕棺の上に大石を乗せた支石墓が 出てくる。これは朝鮮半島南部と共通している。

  方 形周溝墓(近畿)

方形周溝墓は四角い墳丘墓で、近畿で発生して東西に伝わっ ている。溝はないものもあ るが、大きさは10メートルくらいのものから大型のものまで様々である。一人のものではなく合葬されているため、有力者の家族墓とされる。この中から、特 定個人の墓として古墳が登場してくる。

 →大 型墳丘墓、

・墳丘墓の中には大型のものが現れ、一般人の墓に対し、明らかに有力者のものと思われる。

Q8 ムラのまとめ役となった有力者とは、どのような性格の者だったと考えられるか。 どういう者の言うことをみんなは聞くのか。

A8 指導力のあることはもちろんだが、生産が不安定な時代にあっては、宗教的なカリスマ性を持っていることが肝心である。呪術などによって豊作をもたら せる人物がリーダーとなる。

・宗教者のカリスマ性は、世襲できるものではない。したがって、この時代の有力者は世 代を超えて権力を拡大することができず、その墓は古墳に比して小さいのである。

  副葬品(鏡、玉)

・副葬品はまだ貧弱であった。若干のアクセサリー程度が出てくるくらいである。鏡や玉は、宗教的な道具である。
・宗教者としての地位を示すものとして、奄美以南にしかいないゴホウラの貝環をつけた 人物が出土している。女に多いが、北九州では、右手にいくつもつけた男が出てきた。
・福岡県立岩遺跡では、弥生時代中期から後期にかけての甕棺墓が43基発掘され、中国製の鏡・鉄製武器・ガラス製装身具・南海産ゴホウラ貝の腕輪などが副 葬されていた。34号墓の主は、ゴホウラの貝輪を右腕に14個もつけていた。手首が太くて抜けないため、子供の時にはめたものと思われる。これでは鍬を振 るうなどの労働ができないので、小さいときから司祭者となることが運命づけられた者ではないかとされる。

D 弥生時代の信仰
 首長=司祭者(祭政一致)、太陽・山の信仰→豊作

・一番の願いはたくさんの米がとれることである。太陽や水をもたらす山の信仰が登場し たと思われる。上手に祭りをおこない、豊作を引き寄せることができた人物がリーダーになれた。

  cf)銅剣、銅鉾、銅鐸の使用

・祭りには青銅器が使われた。銅剣・銅鉾・銅戈は、朝鮮のものは武器として使えるが、日本のは刃がな い。したがって「見る武器」であり、祭りで用いて邪気を払ったのではないかとされる。祇園祭の山鉾のようなものである。
・ちなみに、剣は両刃のものであり、刀は片刃である。振り下ろして使う刀は青銅だと折れやすいため、青銅器は剣ばかりである。
銅鐸はベルであり、大陸では家畜に付けたものもある。日本 では音を聞くものとしてスタートし、次に大型化して観賞用となった。祭りで鳴らして荘厳さを出したのではないかと思われる。天智天皇の頃に近江で発掘され た記録があり、当時は阿育王が建てた宝塔を飾る宝鐸、あるいは楽器と考えられた。銅鐸には絵が描かれているが、これは農耕を讃えるものと解釈されている。
青銅祭器は、祭りで使った後は埋めて保管していたとされ る。銅鐸の出土地は丘の斜面などであることが多い。銅鐸は地霊・穀霊の依り代であり、掘り出すことで霊を地上に迎えたらしい。

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