<縄文時代>
#1[完新世の日本]
#2[縄文文化](1万3000 年前〜BC4C)
#3A 採集・漁労・狩 猟生活
#4B 磨製石器と土器 の使用
#5C 縄文時代の社会
#6D 縄文時代の信仰
#7[縄文文化の発展]
#8A 集落の拡大・定 住化
#9B 交易
#10[日本人の起源]

<縄文時代>

[完新世の日本]

 完 新世(1万年前〜)
 気候の温暖化、縄文海進→大陸との分離(日本列島の形成)

・1万年前から地球は温暖化が進み、完新世となった。名古屋付近で台湾並の暖かさで、 海進現象が起きたため 海抜は今より+5mとなる。これで大陸との陸橋が水没し、日本列島が形成されることになった。
・陸上ではタイガが後退し、6000年前には現在と同じ植生が展開した。ほとんどはナラ林で、西日本海岸から九州にかけては照葉樹林が茂った。温暖化に よって人 々の生活は大きく変わり、縄文文化ができた。

[縄文文化](1万3000年前〜BC4C)
 モー ス大森貝塚(東京)発見で確認(1877)

・縄文文化の発見者はアメリカの考古学者のモースである。1877年6月に来日し、19日に横浜から新橋に向かう 汽車に乗った時り、大森駅付近の切り通しで貝殻の堆積を見つけた。これが貝塚であると確信してすぐに発掘し、欧米流考古学の生みの親とされる。
・しかし、貝塚の存在は古い時代の日本人も知っていた。奈良時代の「常陸国風土記」では、海から遠く離れたところに大量の貝殻が堆積している不思議なとこ ろがあ り、これは、ダイダラボッチが筑波山に腰をかけて貝を食べ、貝殻を捨てた跡だと記している。現在の茨城県大串貝塚に当たる。
・貝がとれるのは遠浅の海である。貝塚も浅海部に面したところに多い。東京湾では、70キロ奥の栃木県まで貝塚がある。貝塚はゴミ捨て場だが規模が大き い。千葉県加曽利貝塚は幅30メートル、直径 150メートルのものが2つ並んでいる。
貝塚には死者や犬の遺体も埋葬している。ゴミ捨て場という よりも、再生を祈る場所であったという考えがある。カルシウム分に富む貝殻は、骨のカルシウムを長く保存するため、江戸時代の人骨より縄文時代の人骨の方 が出土数が多い。貝塚は当時の人の暮らしを再現するタイムカプセルだと言われる。

 採集・漁労・狩猟生活

・縄文時代人は季節に応じてバラエティに富んだ食生活をしている。春は野山でフキ・カタクリ・ゼンマイ・ノビルなどを取る。潮干狩りをし、捕った貝を煮て 乾し、1年分の保存食や交易用品に加工した。
・夏は植物が堅くなるため魚捕りが中心。海ではカツオ・マグロなどの大型魚類、川や池ではコイ・フナ・ウナギをとっている。
・秋は採集活動が活発となる。クリ・クルミ・トチ・ドングリなど、冬の保存食として大量に集めている。ドングリ加工品には、カリントウ状・ひねり餅状・ハ ンバ−グ状・ボ−ル状・クッキ−状などがあり、それぞれ味が違い、名前がついていたはずだという。山形県押出遺跡出土の模様入り加工品は、クリやマツの 実、動物の 肉などが混入し、塩で味付けしている。ハンバ−グのようなものである。東日本の川にはサケ・マスが大量に遡上したので、乾したり薫製で保存している。
・冬は狩猟がメインで、イノシシ・シカなどが食料となっていた。狩猟シーズンは今でも秋から春である。木の葉が落ちて見つけやすく、恋の季節で警戒心も緩 んでい る。また、脂肪も多いし毛皮も冬毛になっているので利用価値が高い。

Q1 縄文人の生活を支えた生業は、採集、漁労、狩猟のどれか?

A1 縄文人の生活の中心は採集と漁撈である。これは貝塚のゴミの状況でわかる。狩猟はそれほど盛んではなかった。

 ドングリ食

・採集したものは山菜、貝、ドングリ。実際には貝は効率が悪く、アサリは1キロのう ち、可食分 は150グラムしかなく、94キロカロリーしかない。したがって、貝は主食にはなれない。
・ドングリは高カロリーであり、トチだと1キロ中で650グラムが食べられ、2430キロカロリーにもなる。普通のドングリでも、1日に1.5キロ食べる と1800キロカロ リーとれる。これだけで必要最低限のカロリーは摂取できる。拾えるのは年間100日間として、1日に2.5キロ拾えば250キロは貯められる。半年分の食 料は ドングリでよい。

Q2 ドングリを食べるのに欠かせない道具は何か?

A2 アク抜きが必要である。普通は煮てから水にさらしておこなう。このために土器が必要となる。その後、石皿と石棒によって粉にされてダンゴにする。

 骨角器・石錘(漁具)

・漁労の道具には骨角器が用いられている。釣り針はシカの角、イノシシの牙で作ったもの が多い。刺突用には離頭銛とヤスがある。
・網は腐りやすいため、その遺物の出土例はない。石錘土錘の存在によって網漁のあったことが推測されている。

Q3 温暖化により、狩猟対象の動物にはどのような変化が見られるか? それらを狩る ときに使う道具としては何が便利か?

A3 温暖化によってオオツノシカなどの大型動物は減少し、小型動物に代わられる。寒いところの動物は大きく、暖かいところの動物は小さくなる傾向があ る。これをベルクマンの法則という。大型化することで体積の割に表面積を小さくすることができ、体の熱が奪われないのである。小動物はすばしっこく走る。 槍よりも弓矢が便利である。


 石鏃(弓矢)の登場

・石槍はマンモス、野牛などの大型獣をねらうのにはよいが、これらが絶滅し、シカやイ ノシシなどの中型獣が主流になるとなかなか当たらない。弓矢が 石槍に取って代わることになる。尖頭器の重さは40グラム近いのに対し、石 鏃は1グラムに満たない。貫徹力は槍だが、速度と飛距離は弓矢が上である。槍投げの世界記録は104メートルだが、弓矢は1850メートル 飛んだという記録がある。

Q4 狩猟に欠かせない動物は何か?

A4 犬の利用が大切である。


・犬はネアンデルタール人も飼っていた。獲物を追い出す役割を担う。9200年前、縄 文早期の夏島貝塚では犬の骨が出土している。柴犬くらいのもので、愛犬が死ぬと埋葬していた。人骨と一緒に埋められている場合もある(名古屋市博物館大曲 遺跡出土人骨)。日本オオカミは大型なので、これを飼い慣らした可能性は低く、大陸で家畜化されていたものが入ってきたらしい。
・狩猟動物はイノシシとシカが双璧であった。イノシシ狩りには犬を使う。犬も一匹だとやられるので、複数で吠えかかる。イノシシが立ち止まれば、そこを矢 で射る。イノシシは手傷を負ってもなかなか死なないので、心臓や動脈を傷つけてとどめを刺したものが功を認められる。落とし穴もよい。シカは弱いので、初 発を命中させたものが功労者になる。

B 磨製石器と土器の使用
 1 磨 製石器=石斧、石皿 

磨製石器は、柔らかい木が茂るようになり、伐採が盛んにお こなわれるようなって登場した。重みで切るため刃が欠けない磨製がよい。縄文時代になっても打製石器は使われていることに注意。用途が違い、刃物として使 うものは打製であった。

 2 縄 文土器=400〜600度の低温焼成、厚手、黒褐色、縄目文

・粘土を乾かして450度以上で焼くと可塑性を失う。人類が最初に発見した化学変化。 上薬をかけていないので、水は漏れてゆく。

Q5 土器の登場は、どのようなメリットをもたらしたか?

A5 食べられるものがぐんと増えることになる。土器の登場により、それまでは焼くか蒸すしかなかった調理法に、煮るというのが加わる。これであく抜きを 必要とするドングリ類が食べられるようになるし、硬くて食べられなかった草や葉を煮て食べることも可能になる。生で保存できないものを煮ることで長期保存 することもでき、殺菌も可能である。

  cf)草創・早・前・中・後・晩期に区分

・現在は1年で1個の飯茶碗を壊すという。毎年1つずつ買い換えていることになる。その都度、デザインが変わってゆくはずであり、流行のものを買ってくる ことになる。飯茶碗は30年前は側面が直線的で、今は曲面のものが多い。土器も同じで、どんどんデザインが変化する。地層の中で層位的に違うタイプの土器 が出現すれば、時代差=編年ができることになる。これによ り、6期に分ける。
縄目文に特徴がある。世界では縄を押し付けるだけだが、日 本のものは転がしている。これによって美しい模様ができ、時代差、地域差が生じている。
・縄文は全てのこの時代の土器にあるわけではない。西日本ではないのが普通。東日本の弥生土器では施してあるものが多く、縄文土器の名に惑わされてはいけ ない。

 尖底土器→複雑化(火焔土器)、世界最古?

・草創期の尖底土器は地面に突き刺して用いた。これだと竃がなくても煮炊きができる。
・中期には火焔土器と呼ばれる複雑なものが登場し、新潟県十日市市のものは縄文時代のものとしては唯一の国宝である。
・土器は約5500年前に西アジアで焼かれたのが最初で、これが全世界に伝わったとされていた。しかし、夏島貝塚の土器は、炭素14法によって9450年 前のもので、誤差400年とされた。夏島の発見でこれが最古の土器となり、さらに今では、紀元前1万年前の縄文土器が出ている。

C 縄文時代の社会
   竪穴住居(→定住化)、わき水のある台地に集落、貝塚

竪穴 住居は穴を掘って屋根をかけた住まいである。穴の深さは1メートルまでで、家の直径は5〜10メートルになる。真ん中には炉がある。土の上 の暮らしは床を作るよりも暖かい。
・能代市杉沢台では、長さ31メートル、幅9メートル、炉が10、164畳敷きの竪穴建物が出ている。また、青森県の三内丸山遺跡では、柱の直径1メート ルの大型掘立柱跡が6つ出る。相当大きな竪穴住居があったことは確か。
・集落は広場を中心に3〜数軒が並ぶ程度のものであった。この環の上に新築、改築されてゆくため、長く続いたムラでは数十世代で100軒以上の建物跡が出 てくる。

Q6 縄文時代には、富や権力、階級、身分は存在しなかったとされる。それはなぜか?  どんな遺跡を見ることで、このことは確かめられるのか?

A6 食料が得やすくなったとはいえ、余剰物はさほどない。大量に保存できるようなものが出てこないと、富の蓄積は不可能である。このことは、当時の墓を 見るとわかる。墓はどれも一様の共同墓地である。


  生産性の低さ=富・権力・階級・身分は存在しない cf)埋葬=共同墓地
   but抜歯・研歯=成年を示す(年齢階梯や出自による 社会秩序)

・社会の秩序が全くなかったわけではない。年齢による差、出身地による差はあったと考 えられている。これは抜歯の習慣を見てゆくことで確かめられた。
・縄文人の人骨では、かなりのものの歯が意図的に抜かれている。縄文晩期は成人の100%が抜歯していた。現在の民族事例では、歯は成人式で抜く例が多い。糸切り 歯に始まり、門歯を抜いてゆく。石で叩くなどの手法で抜くので痛く、これに耐えることで大人の仲間入りが果たせるとされている。縄文時代人も、抜歯をする 場合、最初に抜くのは上の糸切り歯である。これは成人の証として抜いたらしい。
・鹿児島から愛知県までの人骨を見ると、その後の抜き方には2つの系列があることがわかってきた。下の門歯を抜く場合と、下の糸切り歯を抜く場合がある。 これは結婚する時に抜いたと見られている。
・両者は一つのムラに一緒に住んでいるが、一方の人は優遇され、一方は冷遇されていたらしい。渥美半島の伊川津、吉胡貝塚では、門歯を抜いた人と犬歯を抜 い た人は合葬されないことになっていて、門歯の人は墓地の中央、犬歯の人は周辺に埋葬されている。また、アクセサリーを付けたり、叉状研歯を施しているのも 門歯を抜いたグループである。門歯抜歯の人たちの方が、優遇されているのである。
・この差は出身地の違いから出たと説明されている。犬歯の人は集団外から来た人たちではないとかいうのである。仮にそうであるならば、集団外から来たのは 妻なのか夫なのかということも判明してゆく。縄文晩期においては、東日本では妻が嫁いで来て、西日本では夫が嫁いで来ている。

D 縄文時代の信仰
    精霊信仰(アニミズム)=万物に霊の存在→呪術の発 達
  1 土偶、石棒=豊穣、多産を祈る

土偶は 完全なものは少ないので、身代わり損傷説がある。自然に壊れた説もある。乳房を持ち、妊娠線が刻まれるなどの表現が多いので、再生、多産の呪術と関係する 説も強い。埋葬されたようなものもあるが、たいていはゴミと一緒に出る。
・石棒は男性自身をかたどったものであり、後の時代には賽の神として祀られるものの原型である。

  2 屈 葬=霊の復活防ぐ?

屈葬は 霊の復活を防ぐためのものと説明されることが多い。抱石葬は石を重石のように遺体の上にのせており、これも霊魂復活を阻むものとされる。縛って葬って化け てでないようにしたというのである。一方、屈葬の姿勢は母体の中の姿勢であるため、蘇りを期待したという反対の説もあり、埋めるための穴が小さくてよいな どの説も出されている。

   cf)ストーンサークル(大湯遺跡)

・「日時計」とされたり、天体観測のものという珍説もあった。大湯など東日本に多い。実際には埋葬跡に石を置いていったもので、環状に埋葬した結果、環状 列石にな る。大湯では、合計5000個、最大180キロの石を6〜9キロ遠くから持ってきている。どうしてこういう墓を作ったのかははっきりしていない。

[縄文文化の発展]
A 集落の拡大・定住化

Q7 生産性の低い縄文文化でも、だんだんと大きな集落が形成されるようになる。大き な遺跡は東日本に多いか、西日本に多いか? それはなぜか?

A7 縄文文化は東が優位である。最大の理由はドングリが豊富に実ったこととサケの遡上にある。

・小山修三氏は、縄文時代の遺跡の地域別分布状態を調べ、一遺跡当たりの居住人数を 24人と推計し、遺跡の数にこれをかけて地域別の縄文時代の人口を計算した。8000年前=2万人、4000年前=26万人、末期には7万人の人口だった という。そして、中期の場合、東日本の落葉広葉樹林地帯に人口が集中し、西日本の照葉樹林帯の人口密度の10倍だったという。

 ex)三内丸山遺跡=500人以上の大集落

・青森県の三内丸山遺跡は1993年に発見されたもので、BC3500年から 1500年間の集落跡である。ここには580軒の竪穴住居跡があり、最大で500人が住んでいたとされる。

Q8 500人の人の胃袋を満たすためには、相当の食料が周囲で獲得できないといけな い。採集・狩猟だけでは無理ではないかという説がある。とすれば、三内丸山の人たちはどうやって食べていたのか?

A8 クリ、ヒョウタン、エゴマなどが出土していることから、植物栽培がおこなわれていた可能性も指摘されている。

 ∴原始的農耕開始?(雑穀、里芋)

・鳥浜貝塚=エゴマ、リョクトウ、シソ、ヒョウタン、アブラナなどが出る。栽培種とさ れているため、農耕をおこなっていたことを主張する研究者もいる。
・西日本の照葉樹林地帯では、焼畑でイモを作っていた可能性もある。これは東南アジアに連なる照葉樹林文化地域とダブルからである。

Q9 三内丸山や鳥浜の植物遺物は、完全な栽培種か採集してきたものかは判然としな い。小さな種子の分析だけでは縄文文化が農耕文化かどうかははっきりしない。栽培植物を発見する以外、縄文人が農耕をしていたことを証明するためには、ど のような方法があるか?

A9 虫歯の罹患率を調べるのである。

・文明人ほど虫歯が多い傾向があり、農業をおこなうようになると増えてゆく。狩猟・採 集民のエスキモーやバンツーは虫歯保有率は4%以下である。現代人は80%を超えている。粟などの原始的な農耕もしていたアイヌの虫歯保有率は10%以下 だったが、本州人と交流が始まると増え、大正末には60%を超えていった。米を食べるようになったためである。
・縄文人の歯を見て、虫歯があるかどうかを調べればよい。これによれば、縄文人の虫歯保有率は9.5%である。米を食べた弥生人は20%なのでこれには及 ばない。しかし、採集民としては高い方なので、原始的農耕の可能性も捨てきれない。

Q10 打製石器の材料はガラス質など、打ち欠いたときに鋭利な刃を作るも の。これらは産出地が限られている。例えば、火山性ガラスの黒曜石は、このあたりでは長野県の和田峠で出てくる。これが和田峠から250キロも離れた足助 町あたりでたくさん出ている。これは何を意味するのか?

A10 交易がおこなわれていたと考えられる。

B 交易
 ex)黒曜石(和田峠、白滝)、ひすい(姫川)、サヌカイト(二上山)

・ひすいはアクセサリーの玉石として貴重で、新潟県西部の姫川流域から500キロも運 ばれている。
・稲作は九州に伝わってから、数十年で尾張付近まで拡大している。そのためには交易ルートが存在していることが必要である。稲作受容の基盤ができていたこ とになる。

[日本人の起源]
 縄文時代人=原日本人、

・旧石器時代の人間が今の日本人につながるかどうかははっきりしていなかった。それに 対し、縄文時代の人は原日本人であることが判明している。このベースの上に大陸から渡来してきた人間が混血して日本人になったようである。
・縄文人と現代人の骨を比べると、いくつかの違いがある。津雲貝塚出土人は、身長が男158センチ、女147センチが平均であり、かなり背は低かった。歯 のかみ 合わせは毛抜き状になっている。現代人の場合、毛抜き状は2%のみで、大半は鋏状になっている。人種が違うからなのか生活環境が違うからなのかは微妙な問 題。

Q11 縄文人は歯並びがよく、八重歯などは見られない。下顎が発達するので親知らず は全て生える。現代人は36%に過ぎない。これは何を意味しているのか?

A11 硬いものを食べていたのである。そのために歯はすり減っている。現代人の摩滅率は7割であるが、縄文人はツルツルである。

・縄文人の足首には距骨滑車が見られる。長時間しゃがむクセがあってすり減ったもので ある。
・平均寿命は短かった。幼児死亡率は高いので、15歳まで生きれば35〜40歳までは生きた。

  周辺民族渡来で混血→日本民族

Q12 縄文人の上に周辺民族が混血して日本人になっている。そのため、南北の文化の 影響が日本文化の中には見られる。例えばどのようなものが指摘できるか?

A12 北と南の文化の混合の代表は住居である。竪穴住居は寒冷地域にふさわしい建物であるが、床を作る建物は南の文化と言える。

・食べ物にも南北両文化の影響が見られる。縄文時代に焼かれた深鉢は、冷めにくいため に煮込み料理向きで、北に中心を持つ調理文化である。一方、エゴマやヒョウタンの栽培、水さらしによるあく抜き法などは、南から入った根菜農耕文化(照葉 樹林文化)の一つであ る。
・日本語も南北両文化の影響下にある。語順のSOV、名詞に性や複数の観念がない点、助詞を使う点、母音調和などは北のアルタイ語族と共通している。しかし、基本語彙はマライ・ポリネシア語族と共通する。したがって、南北から人が入ってき て日本人ができた可能性が高いのである。
・混血してできた民族であることは日本人の形質差を見てもわかる。日本人は縄 文型弥生型に分かれるという。縄文型は低顔 (丸顔)で、凹凸が多い彫りの深い顔である。これは古い時代のモンゴロイド(古モンゴロイド)の系譜につながるとされる。一方、弥生型は高顔で顔に凹凸が 少ない。これはヴュルム氷期にシベリアにいた新しいモンゴロイドの流れを汲んでいて、寒冷気候に順応した結果、吸った空気を暖めるために高顔になり、凹凸 をなくして凍傷になりにくくしている。また、一重瞼として目を保護し、耳垢は乾性となって凍らないようにしている。
・現在の日本では、低顔は沖縄、アイヌに多い。湿性の耳垢も同じ分布をしている。これに対し、本州では乾性が卓越している。
・このようなところから、次のような人の流入経路が考えられる。(1)旧石器時代末期に北から人が入り、縄文時代のベース=ナラ林文化を作った(アルタイ語)。(2)縄文前期に南から人が入り、照葉樹林文化が作られた(マライ語)。(3)弥生時代になって朝鮮半島 から人が入って稲作文化を伝えた(アルタイ語)。

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