1 日本文化の黎明 <旧石器時 代>

 歴史時代以前の時代区分は文化様式に着目しておこなわれる。旧石器時代は道具として旧石器を用いた時代であり、おおむね今から[1]万年以前の時代とな る。一方、古生物の変遷で時代区分をすることがあり、これを(2)年代と呼ぶ。ほ乳類が出現した時代が新生代であり、前半が第三紀、(3)が出現した後半 が第四紀となる。さらに第四紀は、(1)万年前に最後の氷河期が終わってから現在に至るまでの完新世と、それ以前の[4]に分かれ、旧石器時代は後者に該 当する。この時代は寒冷な氷河期と温暖な間氷期が繰り返され、総じて[5]時代と呼ばれる。
 人類の最大の特徴は二足歩行にある。1924年以降、南アフリカなどで発見されている100万年以上前の化石人骨群を(6)と呼んでいる。彼らは猿人と 呼ばれ、完全な直立歩行ではなかったらしい。これに対し、インドネシアで発見された(7)、中国周口店で発見された(8)は50〜25万年前の人類で、直 立歩行と火を使用したことで知られている。10万年前に登場した旧人はドイツの(9)で代表されるが、高度な精神性を有していた。そしてフランスで発見さ れた(10)のように、3万年前に登場した新人は現世人類につながる人たちである。彼らが用いた道具は[11]が主体であり、狩猟・採集の生活をしていた と考えられている。
 この当時の日本は、氷河期のため大陸と地続きであった。このため長野県野尻湖出土の[12]や北海道出土の(13)のような象類が渡来し、これを追って 人類もやって来た。しかし、関東地方に堆積している[14]などの地層からわかるように、当時は火山活動が活発であり、太平洋戦争以前の考古学界は人類の 存在については否定的であった。1946年、アマチュアの研究家である[15]が[16]県の[17]遺跡を発見し、1949年の調査で日本にも旧石器時 代が存在したことが確認された。(18)を使用せず、もっぱら(11)を用いる点がこの文化の特徴である。なお、新石器時代は(19)と(18)を用いる 文化であり、生産様式として(20)がおこなわれる時代をさす。
 (11)の形態は時代によって進歩している。初期は石材の周りを打ち欠いて作る核石器であり、(21)などとして用いられた。3万5000年前に後期旧 石器時代に入ると、打ち欠いた剥片を用いる剥片石器が登場し、切断用の(22)や木に取り付けて(23)として用いられるようになった。さらに1万 5000年前には(24)から細石器の様式が伝わり、木に破片を取り付けた(25)として用いられた。この時代になると(19)も用いるようになり、この 時代を(26)とも称している。
 日本は酸性土壌のため(4)人類の化石が発見されることはまれである。兵庫県出土の(27)、愛知県出土の(28)、静岡県出土の(29)などは(4) のものと見ることに異説がある。この時代の完全な化石人骨は沖縄で出土した[30]に限られ、本土では[31]のみがこの時代のものと推定されている。

<解答>
(1)1 (2)地質 (3)人類 (4)更新世 (5)氷河 (6)アウストラロピテクス (7)ジャワ原人 (8)北京原人 (9)ネアンデルタール 人 (10)クロマニョン人 (11)打製石器(12)ナウマン象 (13)マンモス (14)関東ローム層 (15)相沢忠洋 (16)群馬 (17) 岩宿 (18)土器 (19)磨製石器 (20)農耕・牧畜 (21)握槌(石斧) (22)石刃 (23)石槍(尖頭器) (24)シベリア (25) 細石刃 (26)中石器時代 (27)明石原人(28)牛川人 (29)三ヶ日人 (30)港川人 (31)浜北人


<縄文時代>

 [1]万年前から地球の温暖化が進み、地質年代は[2]に入る。(3)と呼ばれる海面の上昇があり、日本列島は大陸から切り離された。これ以後、紀元前 (4)世紀頃までの縄文土器を用いた時代が縄文時代である。この文化は1877年にアメリカ人の[5]が東京の[6]遺跡を発掘したことでその存在が考古 学的に確認された。
 温暖化によって針葉樹が後退し、ナラやカシなど堅果のなる樹木が生い茂るようになった。大型動物に代わって小動物が増え、魚も豊富となった。縄文文化は このような自然環境の変化に伴って成立した採集・漁労・狩猟を柱とした文化である。とりわけドングリはこの時代の食料として重要であった。漁労も盛んで、 釣針には骨や角を加工した[7]が用いられ、(8)が出土することから網漁がおこなわれたことも確認される。また、小動物を狩るための有効な道具として [9]が登場しており、遺跡からは先端部が(10)として出土している。木を伐採するための[11]、ドングリを粉にするための(12)など、打製石器に 加えて[13]が用いられているのもこの時代の特徴である。縄文土器は400度〜600度の低温で焼成され、色は(14)を呈し、もろいため厚手に作られ ている。土器の呼称の由来となった(15)の文様を施したものも多い、土器の形態差によって縄文時代は6つの時代に区分され、古い方から順に(16〜 21)と呼ばれている。初期の土器は(22)と呼ばれて地面に突き刺して用い、炉を用いないで煮炊きをするのに便利であった。中期には複雑化し、新潟県中 部を中心に(23)と呼ばれるものが焼かれている。これは祭祀に用いられたのであろう。
 縄文時代になると、人々はわき水の湧く台地上に集落を築き、ある程度の定住生活を送るようになる。住まいは地面に穴を掘って屋根をかけた[24]であ り、集落の周囲にはゴミ捨て場である[25]が形成された。この時代は食料資源が豊かになったとはいえ、まだまだ生産性は低く、富の蓄積がおこなわれずに [26]などは発生していなかったと考えられる。それは埋葬の形態に差異が見られないことからもうかがわれる。しかし、[27]と呼ばれる身体加工を施す 例が多く、これらは成年や結婚の証と見られることから年齢階梯や出自による社会秩序があったことは確かであろう。また、(28)は前歯を銛状に加工したも ので、これは司祭者であった可能性がある。
 縄文時代の人々は、万物に霊魂の存在を認める(29)と呼ばれる素朴な信仰を持っていたと考えられる。土で焼いた人形である[30]や男根をかたどった (31)は豊穣を祈る呪具であり、折り畳んで埋葬する[32]は霊の復活を恐れたものという説がある。秋田県の(33)などでは大石を環状に配置した埋葬 施設が出土している。
 縄文時代は8000年に及ぶ長い時代であり、顕著な発展が見られる。青森県で発掘された(34)は500人以上が住む大集落跡であり、雑穀などの原始的 な農耕をおこなっていた可能性がある。長野県[35]や北海道の(36)などで産出されるガラス質の石である[37]は(10)として用いられ、遠隔地の 遺跡から出土している。これは交易がおこなわれていた証左である。ほかにも新潟県(38)のひすいや奈良県(39)のサヌカイトなども交易によって遠くに 運ばれており、地域の交流は盛んであった。

<解答>
(1)1 (2)完新世 (3)縄文海進 (4)4 (5)モース (6)大森 (7)骨角器 (8)石錘
(9)弓矢 (10)石鏃 (11)石斧 (12)石皿 (13)磨製石器 (14)黒褐色 (15)縄目
(16)草創期 (17)早期 (18)前期 (19)中期 (20)後期 (21)晩期 (22)尖底土器
(23)火焔土器 (24)竪穴住居 (25)貝塚 (26)権力・身分・階級 (27)抜歯 (28)研歯 (29)アニミズム (30)土偶  (31)石棒 (32)屈葬 (33)大湯遺跡 (34)三内丸山遺跡 (35)和田峠 (36)白滝 (37)黒曜石 (38)姫川 (39)二上山


<弥生時代>

 縄文時代の末期、水稲耕作、金属器、弥生土器という新しい文化が大陸から日本に伝わり弥生文化が成立した。その背景として、従来は紀元前3世紀に(1) や(2)などの統一王朝が中国に出現し、東アジアの交流が活発化したことが指摘されてきた。紀元前108年、(2)は朝鮮半島北部を支配して[3]を設置 している。しかし、近年の研究では弥生時代の始まりは紀元前(4)世紀以前にさかのぼるとされるようになっている。新しい文化は北九州に渡来し、佐賀県の (5)など縄文晩期の遺跡からは水田跡が出土している。気温の低下で西日本の採集経済が停滞していたこともあり、稲作は東海地方まで急速に拡大した。反 面、ドングリやサケ・マスに恵まれた東日本では稲作文化の受容は遅れ、青森県(6)遺跡に見られるような縄文文化の発展が認められる。
 弥生文化の名称は、1884年、東京で発掘された[7]にちなみ、奈良県(8)の発掘で農具が出土し、1947年に静岡県(9)の発掘で水田跡が出土し たことで稲作文化であることが確認された。当時は湿田に籾を直播きしたものと考えられていたが、近年では田植をおこなっていたことが証明されている。収穫 は[10]で稲穂を摘み取る[11]という方法でおこなわれ、これは当時の稲の品種がまちまちで、一つの田でも結実時期に差が出ていたためと考えられる。 耕作には(12)などの木製農具が用いられ、脱穀には(13)と(14)を使用した。また、湿田ならではの道具として肥料を踏み込んだり沈むのを防ぐため の[15]、収穫した稲を運び出した(16)などが出土する。この時代の終わりには鉄製農具も登場する。
 人類が最初に用いた金属器は融点の低い[17]で、次いでそれより硬い[18]が出現する。日本では一度に両者が伝来し、前者は祭器、後者は実用品とし て使われた。
 弥生土器は600〜800度の高温で焼成され、薄手で色は(19)を呈する。単純な幾何文が多く、その形態差によって弥生時代は(20〜22)の3期に 区分される。米を貯蔵する(23)、煮炊きに用いた(24)、食器として用いた(25)などが作られた。
 稲作は共同労働を必要とし、人々は田のある低地に大集落を形成して住むようになる。住まいは相変わらず(26)であったが、鼠害を防ぐため稲の貯蔵には [27]を建設した。生産性が高まると食べても余る部分が発生し、富が蓄積される。それを背景として階級が発生し、共同労働やほかの集落との抗争を指揮す るため首長も登場する。こうした状況は当時の埋葬施設の形態によって判明する。多くは単純な土壙墓か石で棺を作った(28)に埋葬され、北九州では [29]という大型土器を合わせた棺を用いたが、この上に巨石を屋根のように置く[30]が出現し、これは朝鮮半島と共通している。近畿では埋葬地の周り に溝をめぐらせた[31]があり、ここからやがて大型の(32)が発生してゆく。こうした大規模な埋葬施設は明らかに首長クラスのものであろう。また、こ うした墓には(33)など大量の副葬品が伴っている。首長は司祭者でもあり、太陽や山を信仰して豊作を祈ったものであろう。そこで用いられた祭器として、 [34〜37]があげられるのである。

<解答>
(1)秦 (2)漢 (3)楽浪郡 (4)4 (5)菜畑遺跡 (6)亀ヶ岡 (7)弥生町遺跡 (8)唐古遺跡 (9)登呂遺跡 (10)石包丁  (11)穂首刈 (12)木鍬 (13)木臼 (14)竪杵 (15)田下駄(大足) (16)田舟 (17)青銅器 (18)鉄器 (19)赤褐色  (20)前期 (21)中期 (22)後期 (23)壺 (24)甕  (25)高坏 (26)竪穴住居 (27)高床倉庫 (28)箱式石棺 (29)甕棺 (30)支石墓 (31)方形周溝墓 (32)墳丘墓 (33) 玉・鏡 (34~37)銅鉾、銅戈、銅剣、銅鐸


<小国の分立と邪馬台国>

 水利をめぐる集落の連合や対立は、集落をクニと呼ぶにふさわしい組織へと進展させた。連合した人々は共通の青銅祭器を用いて祭祀をおこない、北九州で [1]、瀬戸内で[2]、近畿で[3]が多く用いられている。それぞれ別個の文化圏=クニの連合体を形成していたのである。もっとも、島根県の(4)遺跡 ではこれらの青銅祭器が共出しており、青銅祭器に由来する文化圏説は見直す必要も出てきた。クニ同士が抗争を繰り広げたことは確かで、防御のために集落周 囲に溝を掘った[5]が各地に築かれ、瀬戸内には砦か戦時に逃げ込むための施設という[6]が築かれている。
 前漢の史書である「[7]」には紀元前[8]世紀の日本が[9]という名前で登場し、100余国に分かれ、その中のクニが朝鮮半島北部に置かれた [10]に朝貢していたことが出ている。国内の抗争に対し、中国に後ろ盾を求めたものであろう。
 [11]世紀の日本は「[12]」に記されている。博多付近にあった[13]というクニの王は、[14]年、後漢の都である(15)まで使いを送り、皇 帝の[16]に朝貢している。皇帝は(17)を授けたが、このときの印は江戸時代に福岡県の[18]で出土し、印面には[19]と刻されている。(20) 年には回土国の王とも言われる(21)が朝貢し、この時には[22]を献上している。これは奴隷を指すのであろう。この後、日本は「(9)国大乱」と呼ば れる抗争の時代に突入したことも記されている。
 [23]世紀の日本を記したのが「[24]」である。ここには2世紀末の抗争の結果、30の国が[25]を中心に連合し、女王である[26]を共立して いたことが示されている。彼女は「(27)」と呼ばれる呪術で人々を従えていたが、これは東アジアに多く見られる(28)という呪術形態であろう。 (26)は[29]年、(10)の南に置かれた[30]を経由して魏の都の(15)に遣使し、皇帝から「[31]」の称号を与えられた。対立する狗奴国を 威圧するための遣使と考えられる。当時の日本は完全な階級社会で、王の下には(32)という貴族階級、その下に一般階級の(33)、その下に奴隷の (22)が置かれた。(34)という役人が諸国を監督し、ある程度の国家機構も整っていた。(26)の死後、男王が立てられたが連合したクニはまとまら ず、(26)の一族で13歳の少女[35]を新たな女王に立てている。国を支配する原理が権力ではなく、宗教的カリスマ性にあったことがうかがわれる。 (35)は266年に(36)に使いを送ったが、これを最後に日本の状況は中国史書からはつかめなくなる。
 「(24)」の記述は曖昧で(25)の所在地は判然としない。九州北部からの方向に記述の誤りがあるとすれば[37]、距離に誤りがあるとすれば [38]に位置することになる。前者では(25)は次の[39]につながって国土統一は間近であるが、後者であれば近畿の勢力との抗争の後に国土が統一さ れることになる。歴史学者は(38)説を推し、考古学者は(37)説を推すが、それは魏から贈られたという(40)が近畿地方で多く出土するためである。 (38)説の弱点はクニの遺跡が発見されなかった点にあったが、佐賀県で(41)が発掘されたことで補強されることになった。

<解答>
(1)銅鉾・銅戈 (2)平形銅剣 (3)銅鐸 (4)荒神谷 (5)環濠集落 (6)高地性集落 (7)漢書地理志 (8)1 (9)倭 (10)楽浪 郡 (11)1 (12)後漢書東夷伝 (13)奴(14)57 (15)洛陽 (16)光武帝 (17)印綬  (18)志賀島 (19)漢委奴国王 (20)107
(21)帥升 (22)生口 (23)3 (24)魏志倭人伝 (25)邪馬台国 (26)卑弥呼 (27)鬼道 (28)シャマニズム (29)239  (30)帯方郡 (31)親魏倭王 (32)大人 (33)下戸
(34)一大率 (35)壱与 (36)西晋 (37)畿内 (38)北九州 (39)大和政権 (40)三角縁神獣鏡 (41)吉野ヶ里遺跡


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